第20話 嘘つきな彼女

 文化祭は終わり、校庭では後夜祭が行われている。

 その頃、俺は真実を確かめるために部室へと向かっていた。


「本当にこれでいいんだね?」


 部室前まで俺を連れてきてくれた健一は最終確認をする。


「ああ」


 俺は静かに頷いた。


「そうか。じゃあ僕はこれで」


「ありがとう」


 健一は俺の前から去っていく。

 今思えば、彼はもう真実を知っていたのかもしれない。


『純はさ、運命とか偶然とかそういうものを信じる?』


 健一が名簿を確認しに行ったあの日、彼は様子がおかしかった。


 当たり前だよな。


 だって美波梨恵なんて人間、この世に存在しないのだから。




 部室からピアノの音が聴こえる。

 俺は覚悟を決めてドアを開けた。


「あれ、どうしたの?」


「話をしに来た」


「そんな真剣な顔で話って……まさか告白? なんちゃって」


「梨恵の正体についてだよ」


 俺がそう言うと、ピアノの音はピタリと止まった。


「全部わかったんだ」


「ああ。長かったよ。ここまで」


 俺たちは言う。


「久しぶりだな。里美」

「久しぶりだね。純くん」




◇◇◇◇◇




 それは俺にとって最も残酷で美しい嘘。

 君は生きていた。


「いつから気付いてたの?」


「最初におかしいと思ったのは里美が階数を間違えたとき。2階のことをファーストフロアと言うのはヨーロッパの文化だ」


「そうだったんだ」


「それに数字の数え方。健一が見た、親指から立てていくのはフランスやドイツのもの。本当にアメリカ留学してたら、あんな数え方はしない」


「確かにね。あのときはやらかしたーって思った。でも根拠はそれだけじゃないんでしょ?」


「ああ。担任が俺に教えてくれた『君はラヴェル、私はドビュッシー』って言葉。あれは大ヒントだったよ」


「チカッチ、そんなことを……。言わないでって言ったのに」


「昔、俺たちのラヴェルとドビュッシーで世界を変えよう、なんて約束したよな」


「懐かしいね。でもそれだけで判断したの?」


「まさか。俺が確信したのは里美がさっき《月の光》を弾いたときだよ」


「よくあの一曲でわかったね」


「そりゃ、あんな綺麗なドビュッシーが弾けるのはこの世で波江里美しかいないからな」


「そっか。ふふ」


 彼女は嬉しそうに笑った。自分のドビュッシーを褒められて大変ご満悦の様子。まるで子供のときから成長していないみたい。


「あーあ。バレないように頑張ったんだけどなー」


「何がバレないようにだ。最初から隠す気なんてなかっただろ」


「え?」


 気付こうと思えばもう少し早く気付けたのかもしれない。だって。


「ミナミリエ。並び替えたらナミエリミ。……なあ、里美。何で嘘なんかついたんだよ」


 ……最初から、私は君の幼なじみだと、私は波江里美だと、そう言ってくれれば良かったのに。

 確かにそれを聞いたら「何で嘘ついたんだ」って怒るかもしれない。

 でも俺がどれだけ里美を想っていて、どれだけ里美のいない世界に苦しんでいたか、君は知っていたよね。


「これは罪滅ぼしなの」


「罪滅ぼし……?」


「そう、罪滅ぼし。私のせいで純くんはこうなった。だから私は純くんをまた昔みたいに弾けるよう、サポートするの」


「何がなんだか……。あの日、本当は何があったんだ? 教えてくれ」


「うん」


 彼女は言う。


「事故のあの日、私は確かに轢かれた。純くんをかばって」


「そうだ」


「でもね、軽傷だったの。その代わり、かばったはずの純くんを失明させちゃった。そして純くんはそのまま心を閉ざしちゃった」


 ……そうだったのか……。


「自分が純くんをそうさせたんだと思ったら怖くなって……。だから波江里美は死んだって嘘をついた」


 ……そっか、それがあの日の真実だったんだね。


「違う。里美は悪くない」


「違わないよ! だって純くんはピアノを弾かなくなったもん」


「それは……」


「純くんをこんな目に遭わせた自分が許せなかった。前に言ったよね? 中学の3年間は何もできなかったって」


「うん」


「私、この罪悪感のせいで自分のピアノが弾けなくなったの」


 ……じゃあ里美も俺と同じだったんだな。


「だからね、私は飛び出した!」


 彼女は立ち上がった。


「ピアノ部を作って、純くんと出会って、短い間だけど一緒に暮らして、コンクールに出て、花火を見て、文化祭に出て……」


 彼女は部屋の中を歩きながら言う。


「高校生になった純くんは少し怖かった。いつも仏頂面だし、話しかけたらすぐ怒るし」


「それは今もだろ」


「ううん、全然違うよ。確かに純くんはよく怒った。けど、だんだん笑うようになった」


 ……そういえば、俺が笑えるようになったのは君が来てからだったね。


「その間、私の心には温かい音が宿ったの。純くんは知ってるかな? この89鍵目の音を」


 彼女は少し照れるような笑い方をした。


 ……知ってるよ。俺は今も聴こえてる。


 小学生のときに気付いたあの音。

 花火のときに気付いたあの音。

 もしかしたらそれは世界一幸せな音なんじゃないかって思う。


「でもね、私はこの音を弾けないの」


「えっ……?」


「私は罪を償うためにここにいるだけ。取り返しのつかない嘘をついた私に、それ以上を求める資格なんてないんだよ」


 ……何で……そんなの間違ってる。俺は一度だって君を恨んだ覚えはない。


「俺は里美に償ってほしいだなんて思ってない。俺は里美の心の音が聴きたいんだ」


 自分がバカなことを言っているのはわかっている。自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っているのはわかっている。

 それでも、彼女の想いを聞かずにはいられなかった。


「……帰るね。今日は楽しかったよ。ありがとう」


「おい待っ……」


「次、学校で会うときは美波梨恵として接してくれると嬉しいな」


 彼女は俺の横を通り過ぎる。


 ……止めようと思えば止められたのかな。

 だけど、今の彼女にどう言葉をかけていいのか俺にはわからなかった。

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