第16話 文化祭 プレリュード

 文化祭当日、俺はいつになく呼吸が乱れていた。

 緊張という大きな波が込み上げてくる。おまけに頭には熱が回る。


 ……1秒でも早くコンサートホールに行きたい。ピアノの前が一番落ち着くんだ。



『いいけど、先生に仕事頼まれちゃったから少し待ってね』


 健一は実行委員の仕事で不在。仕方なく梨恵を頼った結果、そう言われてしまった。


 だけど俺は待っていられなかった。

 1人で歩くのが危ないのはわかってる。でも頭より先に体が動いていたんだ。



「きゃっ」


 前の人から小さな悲鳴が出る。同時に俺の体は少しよろめいた。


 俺は焦るあまり、人にぶつかってしまったようだった。


「悪い。前方不注意だった」


「いや、問題ない……って月城か」


 声の主は生徒ではなく、担任。


 ……因縁をつけてくるような人間じゃなくて良かった。それにしてもクールなイメージの女教師からそんな可愛い声が出るとは。


「いくら月城でも角から飛び出てきたら避けられないぞ」


「すいません。じゃあ急いでるんで」


「待て。その調子じゃまたぶつかる。……一緒に行ってやるから」


 ほら掴め、と担任は腕を俺の前に差し出した。


 彼女の名前は小泉知香こばやしちか


 俺のクラスの担任でありながらピアノ部顧問。健一によると、元ピアニストでまあまあの美人なんだとか。


 昔はもの凄い努力家で、学校を留年してしまうほどピアノを弾いていた、なんて話も聞いたことがある。


「白杖を使えといつも言ってるだろう?」


「嫌ですよ。白杖のせいで俺、中学時代虐められたんですから」


 ただ見えないという理由で虐められた中学の日々。思い出すだけで吐き気がする。


「安心しろ。そんな非常識な人間はここにはいない」


「無理です。一度経験したトラウマは一生ついて回るんですから」


 言い返すのが面倒になったのか、返す言葉がなくなったのか、会話は途切れた。


「そういえば、月城の悩みは解決したようだな。彼女から聞いたよ」


 担任は話を変えようと試みる。


「悩み……」


 何のことかと記憶のページをめくっていく。少し経ったところで、学校を1週間丸々休んだときのことだと思い出した。


「梨恵からですか。あいつ、口軽いんですね」


「そんなことはない。よく話すのは私にだけだ」


「そうですかね」


「それに友達も少ないらしいしな。留学していたときからの悩みだと言っていた。確か、イタリアかドイツか……」


「アメリカです」


「失礼、そうだったな。とにかく月城は彼女にとって大切な友達だ。少しでも傷つけたら針千本飲ますぞ」


「友達……」


「いやいや、ツッコむ場所を間違えるな」


「えっと、針千本でしたっけ?」


 担任はため息をつく。


「これだから青春バカは。若さに任せて、情熱的な想いに突っ走れるのも今だけだからな」


「偉そうに言いますけど、先生だってまだ若いじゃないですか」


「いくら若くたって私は大人だ。大人は色々複雑なんだよ」


「そういうもんですか」


「ガキはまだ知らなくていい世界だ。月城は今、この瞬間を愛して生きればいい」


 担任の言っていることはいちいち抽象的でわかりづらい。けど、今を大事に、というメッセージは伝わってくる。




「ここから階段だから気を付けろよ」


 先にトントンと小刻みに靴音を立てて上る担任。目の前にはその通り段差があった。

 

 その細々とした気遣いを見ると、そっか、やっぱり大人なんだなって思う。


 だけどここである疑問が生まれた。


「あれ、ホールって1階じゃないんですか?」


「いや2階だが」


「梨恵から1階って言われたんですけど」


「そんなわけないだろう。きっと月城の聞き間違いだ」


 ……確かに1階と聞いたはずなんだけど。階数って間違えるものなのか?

 そんなことを考えているうちに担任の足が止まった。


「何ぼけっとしてる。着いたぞ」


「あ、はい」


 ……静かだ。


 おそらく誰もいないんだろう。

 イベント用に作られた小さなホールだから実際のコンサートホールのような張り詰めた空気はない。だけど依然として俺の心は落ち着かなかった。


「ピアノの前までお願いします」


「その方が落ち着くか?」


「はい」


「ふっ、やはり月城もピアニストなんだな」


 担任は小さく笑って、懐かしい、なんて呟いていた。まるで、かつての自分を思い出しているかのよう。


「そういえば、先生はプロのピアニストだったんですよね」


「ああそうだが」


「じゃあどうしてピアノを辞めたんですか」


 それは……。担任はそう言って、すぐには問いに答えない。俺を入口からピアスの前に届けるくらいの間はあった。


「そもそもピアニストがどういう職業かを知っているか?」


「そりゃピアノで人を感動させる職……」


「違うな」


「え?」


「ピアニストは音に一つ一つ色をつけていく仕事、一種のアートだ」


 ……アート、か。今までそんな風に考えたことは一度もなかったな。


「それは大舞台になるにつれ、繊細なものが要求される。昔は私もそんなアートに憧れて世界に飛び出したものさ」


「じゃあ先生はどうして……?」

 

「ああ、それは単純だ」


 担任は重い響きで言う。


「世界のレベルの高さに怖気ついた。ただそれだけだよ」


 担任ほど努力をした人間でも、逃げ出してしまう。

 こんな厳しいのがピアノの世界なんだ、ってそう思わされた。


「私の話はもういいだろ。そんなことより月城、お前は将来、何になる予定なんだ?」


「さっきまで今を愛して生きろとか言ってたじゃないですか」


「それとこれとは別だ。将来を先送りするために今しか考えない奴は、ただのバカだよ」


 ……そんな人間、山ほどいると思うけど。


「俺は将来、世界を変えるピアニストになる予定……でした」


「でした?」


「……死んだんですよ。俺と一緒にそうなる予定だった女が」


「じゃあ今は?」


「未定です。そもそも今の俺に明るい将来なんてないですよ」


 ……そう。今がどれだけ充実していたとしても、『あの子』がいない以上、俺は将来の自分が今より幸せだという確信を持てない。


「月城はピアノが好きか?」


「まあ前よりは」


「そうか」


 ……何だよいきなり。


「なら世界を目指すべきだ。ピアノを捨てた私が言えたことじゃないが」


「俺が世界? からかってるんですか?」


「本気だよ。その子だって約束を果たしてくれた方が嬉しいに決まっている」


 担任は俺の肩に手を置く。


「一時的な感情で諦めると、私みたいな中途半端な人生になるぞ」


 そうか確かに、と口にしかけて慌てて閉じる。


 ピアノを辞めて高校教師となっても、こうしてピアノ部顧問として俺へアドバイスしているあたり、それは顕著だった。


 ……俺もこのままだと、後悔しないように、なんて方便を垂れるようになるんだろうね。


「そうしょげた顔をするな。月城には彼女がいるだろう?」


「まあ……」


「彼女を大切に。今の月城があるのは彼女のおかげなんだぞ」


「あれ、知香先生……?」


 梨恵の声がした。驚きのあまりか、その声は大きい。俺と担任というまさかの組み合わせに狼狽しているんだろう。


「君はラヴェル、私はドビュッシー」


「え?」


「彼女のよく言う言葉だ」


「どういう意……」


「あとは青春華々しいお二人に任せよう」


 謎めいた言葉を口走った担任はそのままホールを去っていった。

 ……何なんだ一体。


「待っててって言ったじゃん! 私、探したんだから!」


「すまん。ピアノの前にいないと調子が悪くて」


「私よりピアノの方が大事って言いたいの?」


「そんなこと……」


「嘘嘘。それじゃ準備しようか。私たちのショーはもうすぐ始まるよ」


「そうだな」


 担任の言う通り、ここまで来れたのは梨恵のおかげだ。


 ここから世界を目指そう、なんていうのは今の俺にはおこがましいかもしれない。


 でもせめて、人の心に響くような演奏ができるよう、頑張りたいなって思う。

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