第11話 裏切り者
気付くのが遅すぎたのかもしれない。自分の感情、美波の感情、そして健一の感情に。
「今日の花火と私たちの演奏、どっちがたくさん人を感動させたかな?」
「そんなの考えなくたってわかるだろ」
「どっち?」
「それは」
『1件の通知が届いています』
「メール?」
俺はBluetoothイヤホンを耳につけ、メールの内容を確認する。
『返事できなくてごめん。わけを話すからこれから純の家で話せる?』
……俺の家……? ということはこの近くに健一は来るのか……?
コンクールの帰り道。俺はまた梨恵の腕を掴んで歩いている。
こんな光景を健一に見られたらどうなるか。
俺は気付いたんだ。今の自分がかなりの危機的状況に陥っていることに。
「まずいっ! これから健一が来……」
「何がまずいの、純?」
ドッと嫌な汗が流れる。
それは体温を感じさせない、冷気を含んでいるような声。
「驚いたよ、まさか純が僕を出し抜こうとしていたなんて」
「違う! これには理由がっ……」
「理由……? じゃあ何で純は梨恵ちゃんといるんだ? 何で純は梨恵ちゃんの腕を掴んでるんだ? 何で純はあんなに……楽しそうな顔をしていたんだ? 教えてくれよ」
「それは……」
「裏切り者」
◇◇◇◇◇
自分が罪人だという自覚はある。償う意思もある。
ただ、あの日生まれてしまった感情を、殺す覚悟が俺にはなかったんだ。
『1件の通知が届いています』
まだ頭の半分が温かい泥のような無意識の領域に留まっていた。その状態から何とか手探りで携帯をタップする。
『起きて。今日は始業式でしょ』
……そんなこと言ったって、俺はあいつに合わせる顔がない。
梨恵はあの晩、荷物をまとめてあっさり帰った。
それから夏休みは終わり、始業式の始まる今日まで梨恵は帰ってこなかった。
本当は家出なんかしてなかったんじゃないかって、そう思わされる。
そして健一とはまた連絡が取れなくなった。
当たり前だ。俺はあいつの気持ちを知っていながら、梨恵と過ごしていたんだ。今日だって俺を迎えに来てくれたりはしないさ。
「メールしたんだから返事くらいしてよ」
顔を枕に埋めていると後ろから梨恵の声がした。
……わざわざ家まで来てくれたのか。そういえば鍵を開けっ放しにしてたっけ。
「休む」
「今日からピアノ部再開だっていうのに? ひどいなー」
その言葉とは裏腹に梨恵の声は暗く沈んでいる。彼女も状況をなんとなく察しているようだった。
「俺は大切な友人を傷つけたんだ。いまさら会う資格なんてない」
「そう思ってるなら素直に謝るべきだと思うけどな」
「謝る言葉だってない」
「もしかして君、怖いの?」
「何で」
「だって会うのも謝るのも無理って、まるで健一くんに怯えてるみたいだもん」
「……確かにそうかもしれないな」
「今以上に嫌われたらどうしよう、とか思ってる?」
「うん……」
「ならやっぱり謝るべきだよ。溝が深くならないうちに、ね?」
「でも余計に怒らせたら俺は……」
「大丈夫」梨恵は俺の額に優しくデコピンをして、「君の大切な友人はそんなちっぽけな人間じゃないでしょ?」
……そうだ、健一はいつだって友達でいてくれた。いつだって優しくしてくれた。ときには頑固だけど、慈悲深い人間なんだ。だからせめて一言謝らなきゃ。
「大丈夫?」
鉛のように重い足を動かす。最近はろくに食べていないせいか、体がふらつく。
それでも俺は大丈夫だから、と学校へ向かった。
◇◇◇◇◇
「健一」
隣にいるのは気配でわかる。だけど彼は俺の呼び掛けを霧のような静けさで黙殺した。
それから授業が終了するまではそんな調子だった。まるで月城純という存在を認識していないかのような。
「健一、いるか?」
「今日は来てないよ。それより謝れた?」
「いや……」
放課後、部室に来てみたものの、健一の姿はない。
「そっか。仕方ないね」
「梨恵ならどうしてた?」
「これは君と健一くんの問題。私に訊いても答えは出ないよ」
「そうだよな……」
……何訊いてるんだろ、俺。
「あーあ。私、今日は3人で弾きたい気分だったのになー」
……もう無理だよ。一度壊れた絆は元には戻らない。もし3人で弾くことができたら、それは奇跡と呼ぶんだ。
「月城、健が文化祭の出し物について相談したいことがあるそうだ」
「健一が俺をですか?」
担任が言ったその言葉に俺は息を呑んだ。
相談なんていうのが嘘なのはわかっている。彼がしたいのは断罪。一体、どんな罰を下そうというのか……。
担任の案内の下、俺は処刑台に上るような気持ちで行った。
「この時間のコンサートホールは合唱部が使ってこの時間はピア……と、すみません。少しの間、席を離れます」
2ヶ月後にある文化祭の打ち合わせ。そこで話す彼は普段と変わらない様子だった。
「やあ純。ここはみんながいるからさ、来てくれるかな」
俺は何も言わずに頷いて指示に従う。
……どこへ行くんだ……?
健一は俺の手を掴んで階段をずっと上がっていった。それとともに人の声も少なくなってくる。
「ここなら誰も来ない。これで心置きなく話せるね」
日光が俺の肌を照りつける。生暖かい風が俺の体に当たる。
どうやらここは屋上……のようだ。
「でもまさか来てくれるとは思わなかったよ。一体、どの面下げてきたんだか」
「……お前が呼んだんだろ」
「こんなときでも変わらないね純は。最初からそうはっきり言ってくれれば良かったのに。…………彼女のことが好きだって」
最初から、ではないけどその感情に嘘はない。俺はそっぽを向くことしかできなかった。
「否定しないってことはやっぱりそうだったんだ。この裏切り者」
……この気持ちがバカげているのはわかってる。でもどうしようもなかったんだよ。
「純は楽しかっただろうね」
「そんなわけ……」
「梨恵ちゃんとデートに行けて、あんな風に2人で歩けて」
「俺は楽しんでなんか……」
「いいや、楽しんでた。今まで恋に悩む僕を見てずっと心の中で笑ってた!」
「それは違う!」
「違わないっ! 純は僕の知らないところで彼女の心や体を奪ったんだ! さぞかし笑いが止まらなかっただろうね」
「俺が梨恵の……? そもそも俺たちは付き合っていない。そんな行為だって……」
「……何を言われたって、僕はもう純の言葉が信じられないんだ」
……確かにそうかもしれない。俺は健一を騙したようなもんだ。
「俺は信じてる。その誤解が解けること、また健一とやり直せることを」
自分が図々しいことを言ってるのはわかってる。
でも。
……また3人でピアノが弾きたい。俺にとってピアノ部は数少ない青春だったんだ。
「じゃあ純、そこまで言うなら試すよ」
健一は大きく息を吐く。
「僕は今から純のしたことをすべて忘れる。だからその代わり、純は梨恵ちゃんとの思い出をすべて忘れるんだ」
「は……? お前、何言ってんだよ……」
「できなければ僕たちは絶交だ」
その声は冗談のかけらもなく、ただ冷ややかな響きを持っていた。
「卑怯だと思うかい? 酷い人間だと思うかい? でも純、君ほどじゃないよ」
◇◇◇◇◇
「話は以上。僕たちは仲直りできたんだ。ピアノ部へ戻ろう」
健一との仲は戻らなかった。すべて……俺のせいだ。
「梨恵ちゃんごめん。もう純とは仲直りしたから」
「そうなの⁉︎ 良かった……」
「じゃあ僕は文化祭の打ち合わせがあるから戻るよ。明日からまた部室行くから」
「うん、良い文化祭にしてね。また明日」
「また明日」
健一は俺と梨恵を残して部屋を出て行く。
でも彼はどこかで俺を監視しているような気がした。
また彼女と仲良く話でもしようものなら本当に彼とは絶交になってしまう、そんな気がした。
「文化祭やるなら私たちもピアノ部として出たいよね。コンサートホール借りてみんなの前で」
「ああ」
「もし君が演奏できなくなったら、コンクールのときみたいに一緒に弾くしさ」
「ああ」
「今度はコンクールじゃないし、絶対楽しい演奏会にできるよ!」
「ああ」
「聞いてる?」
「ああ」
「健一くんに何か言われた?」
「何も」
「嘘。事情があるならちゃんと話して」
「だから何も言われてねえって」
「私は君の味方だから、お願い」
「いちいちうっせえな、ほっといてくれ! そもそもお前は俺の味方なんかじゃねえんだよ」
「えっ……」
「頼むから出て行ってくれ」
ごめん、梨恵は小さくそう呟いて部屋を出ていった。
……俺は梨恵に話しかけない、近づかない。それは今よりもっと悲しむ彼女の姿を見たくないから。
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