第10話 コンクール

 コンクール当日。俺には少し気がかりなことがあった。


「連絡が取れなくなってもう2週間か」


 祭りの日以来、健一とは連絡が取れなくなっていた。何度も電話やメールをしたけど返答はない。


「美波、健一から何か聞いてないか?」


「私は何も知らない」


 その一点張りだった。


 俺の勘が正しければ、健一の件に美波が関与していることは間違いなかったけれど、いずれにしても健一の安否については皆目見当もつかなかった。


「それより早く着替えて。遅刻するよ?」


「そうだな」


 胸の中をクラゲが浮かんでいる。おまけに足が地についている感覚がない。自分でも信じられないほど緊張をしていた。


 ……健一のことは心配だけど、今はコンクールに集中しよう。


「おじいちゃん、行ってきます!」


「行ってくる」


「うむ。少年、一晩で良い顔になったな」


「じじいの余計なお節介のせいだ」


「なら今後はもっと節介を焼いてやろう」


「やめろ。だるいから」


 俺は早歩きで家を出る。じじいと馴れ馴れしく会話をするのが小っ恥ずかしくなってきた。


「もっと素直になればいいのに」


「何が」


「本当は嬉しかったんじゃないの? 昔の月城修としての姿が見れて」


「なわけないだろ。ツンデレじゃあるまいし」


「すぐそうやって強がるのは君の悪い癖だよ」


「余計なお世話だ」


「せめて私の前だけでも素直になればいいのに」


 ……無理だよ。だって俺が素直になったらみんな笑うだろ。


 ……特に美波はね。




◇◇◇◇◇




「9番さん、準備をお願いします」


「頑張って。私、1番前で見てるから!」


「ああ」


 俺は案内人に連れられ、ゆっくりと舞台へ向かう。

 事故で光を失って以来、こんな日が来るとは思わなかった。


 ……『あの子』は今の俺をどう思ってるんだろう。いや、色々考えたって仕方ない。


「エントリーナンバー9、月城純」


 一歩、また一歩とピアノに近づいていく。身体の震えが止まらなかった。

 鼓動がベルのように鳴り響いてうるさい。


 もし案内人が手を引っ張ってくれなかったら俺は逃げ出していたかもしれない。


「ふぅ……」


 一礼を済ませ、ピアノ椅子に座ると不思議と緊張が和らいだ。


 はじめはピアノの前にいることだけで怖かった。でも今はむしろ安心する。

 こうなれたのも美波が必死に俺を説得し続けてくれたおかげなんだ。


「あ、お兄ちゃんだ!」


「しっ、静かに!」


 ……そうか、あの時の親子……。


 ……ありがとう。頑張るよ。




 俺の両手は跳躍した。嵐の如く舞い上がった音は会場の奥深くまで響き渡る。




 ベートーヴェン《月光》第三楽章。




 第三楽章はベートーヴェンの心の葛藤だと思う。それは自身の耳の病に対する運命への憤り、それは叶うことのない恋への絶望。


 その思いを全てピアノにぶつけた。だから200年経った今でも名曲であり続ける。


 俺も事故で光を失い、『あの子』との恋も叶えることができなくなった。


(何でお前はこの曲を選んだんだ?)


(そんなの、君の名字に月があるからだよ)


 ……いつの日か美波はそう言っていたよね。でも第三楽章にした理由は? 

 

 ……本当はベートーヴェンのように気持ちをピアノにぶつけてほしかったんじゃないか?

 ……だったら。




 フォルテ。


 俺は力強く大胆にベートーヴェンを弾いてやった。


 まるで根に込めたものをすべてぶちまけるかのような、感情を爆発させた演奏。

 それは決して叩きつけるような音ではない。それは芯を捉えた音。


 奏でるたびに一音一音が赤く染まっていった。


 ……ここは……。

 月夜の美しい夜道。真っ赤な音符が俺の周りを回っている。

 おそらくそれは俺のイメージ世界。


(私たちのピアノで世界を変えようよ!)


 ……里美。

 隣を歩くのはあの日の少女。


 よく見れば、ここはあの事故が起きた場所だった。


(何で純くんは1人で弾いてるの?)


 ……それは……。


(もしかして約束、破っちゃった?)


 ……違う、そうじゃない!


(じゃあどう違うの?)


 ……自分の演奏を聴いて喜んでくれる人がいることに気付いたんだ。弾くことが楽しいと思える自分にも。


(純くんが楽しいのは私とピアノを弾いているときだけ。そうでしょ?)


 ……今は……違うよ。美波だって健一だっている。


(そうやって純くんは私の知らないところへ行っちゃうんだね)


 返せる言葉はなかった。


(嘘つきは嫌い。さようなら)


 ……待っ……!


 その直後、トラックが里美を跳ねた。同時に赤い音符が液体となって俺の顔に飛び散る。


 ……そうだよ。俺が楽しいのは里美と弾いているときだけ。里美のいないこの世界で楽しむことなんてもう……。


「お兄ちゃんやめちゃだめーっ!」


 少女の悲痛な叫び声。

 その声で俺は我に帰った。

 

 俺は急いで演奏に意識を戻すけど、そのときにはもう、指は鍵盤に触れていなかった。


「里美のいないピアノなんて……」


 ……やっぱりコンクールなんて無理だった。

 最初からわかっていたんだ。

 過去にとらわれた人間が未来へ冒険すること、それがどれだけ無謀なことか。


 美波に出会ってから俺は都合良く生きていた。俺はずっと美波に甘えてたんだ。


 ……もう終わりにしよう。




 パシィッ!


 何かが破裂したような音。鋭い衝撃が顔面に走った。


「良い加減にしてっ!」


 美波の怒号が会場に響く。


「今の君、ぜんっぜん楽しそうじゃない!」


「そんなこと言われたって……」


「ここにいる人たちだって誰も喜んでない!」


「俺は里美がいないと弾けないんだ」


「……ふざけないでよ!」美波は俺の胸ぐらを掴み、「この弱虫! 意気地なし! いつまでも昔の女のことばっか考えて!」


 そして美波は俺の隣に座ってくる。


「私と過ごした1ヶ月は何だったの⁉︎ ……もっと私を見てよ!」


 美波は続きから弾き始めた。


 俺のものとは違って、タップダンスを踊るような軽やかな音。同じ曲のはずなのに、それは魔法のようなメロディー。


「おじいちゃんに何て言われたか思い出して」


「…………最後まで笑顔で貫き通せ」


「そう。だから笑おう、一緒に」



 ……もうコンクールは終わっているのに。

 ……もうこの先を弾いても意味ないのに。

 美波はピアノを弾き始めた途端、肩を揺らして楽しさを全面にアピールしていた。


 俺は諦めていた。逃げ出そう、って思っていた。

 ……でも何でだろう。

 彼女が来た瞬間、心が落ち着いた。冷静になれた。ダメでもいいから楽しもうって、そう思えるようになった。


 ……勝手なんだよ、美波は。


 

 気付けば俺の手は再びピアノに向かっていた。


 突如始まった連弾。

 異なった2つの音は絶妙なハーモニーを生み出す。

 自分でも何をやっているのかわからなくて、自嘲気味に笑った。


(楽しいね)


 美波は自分の肩で俺の肩をつついて、そう伝えてくる。


 ……ああ、そうだね。


 そうして、俺たちは最後の一音まで奏でることができたんだ。



「やればできるじゃん」


 美波は笑う。

 俺の顔からも笑みがこぼれていた。


 パチ……パチとまばらに聞こえる拍手。

 

 まあこのくらいが妥当だろう。演奏中断に観客乱入の連弾。退場させられなかっただけマシだ。


「お兄ちゃーん、お姉ちゃーん、素敵な演奏をありがとー!」


 祭りの時の女の子が一際声を張り上げて拍手していた。

 それを皮切りに拍手の雨が降り出す。

 

 ……ありがとうはこっちのセリフだよ。


 完全ではないけれど、俺たちは何とかハッピーエンドを迎えたようだった。

 




◇◇◇◇◇




「審査のおじさん、あんなに怒ることないのに」


「追い出されなかっただけまだいいだろ」


「私、余計なことしたかな?」


「いや、美波には感謝してる」


「そっか。まあ楽しかったもんね」


 コンクールの後、俺たちはこっぴどく叱られた。結果はもちろん失格。

 

 でも、美波の言う通り楽しかった。それに喜んでくれる人もいた。

 

 ……こんなに心が満たされたのは事故以来、初めてだったよ。


「今日はこの辺で花火があるらしい。見ていくか?」


「君から花火誘ってくるなんて……どうしたの? 夏風邪?」


「今日はそういう気分なんだよ。たまにはいいだろ」


「ふっ、そうだね」


 花火が始まるまでの1時間、俺たちはたわいもない話をした。


 いつもならさっさと帰っているのに。今日はなぜだかもう少しここにいたい。いや……もう少し美波といたい。そう思えたんだ。


「私たちが出会ってもう1ヶ月だよ。時は経つのは早いね」


「あんな強引な出会い方でよくここまで続いたよな」


「強引な出会い方……か。懐かしい。初めて会ったときのことを思い出すね」


「そうだな。最初は美波のこと、なんて面倒な女なんだろうって思ってたけど」


「ひどい! 私だって君のこと、最初は冷徹人間だと思ってたもん」


「……ははは」

「……ハハハ」


 ややあって俺たちは吹き出す。

 ……なぜ俺は笑っているんだろう。ただ美波と話しているだけなのに。


 顔も姿も何も見えない。それでも美波の声がするだけで俺は温かい輝きに包まれるような気分になるんだ。


「……梨恵、今日はありがとう」


「やっと名前で呼んでくれた」


 ……ただの気まぐれだよ。


「あっ、花火!」


 口笛じみた音がした後、胸に広がるような爆音が空に裂けた。


 それから2度目の爆音。周りにいた人たちは歓声を上げている。さらに無数の火花が夜空を、見る人の心を照らしていった。


「君にも見せてあげたかったな。この景色」


「しっかり見えてるよ」


「え?」


 事故という歪んだ景色に囲まれても、君がいれば不安は姿を消す。


 俺にとって1番の花火は──この景色に映る君だったんだ──

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