第9話 俺たちは決断する

「そういや、あいつの声がしないな」


「健一くんなら急用ができたからって先帰っていったよ」


「帰った?」


 ……2人きりのデートを諦めるほどの急用だったのか? まあいい。健一の事情聴取は明日にでもしよう。


 ……俺にはやらなきゃいけないことができたんだ。


「2人でもう少し遊んでいく?」


「いやいい。俺も急用ができた」


「君を忙しくする用なんてないでしょ」


「バカ言うな。期限付きの特大イベントがあるんだよ」


「もしかしてゲーム? なんてね。そんなわけ……」


「俺、コンクール出るよ」


「……えっ」


 ……本当は心のどこかで思ってたのかもしれない。また昔みたいにピアノが弾きたいって。


「何で⁉︎ あんなに嫌がってたのに!」


「気付いたんだよ。あの女の子の前では最後まで弾けたことに」


「確かにそういえば……」


「あのとき、女の子が喜んでくれて俺もすごく嬉しかった」


 今までピアノをやってて良かったと思えた。


「もしかしたら俺は、楽しく弾ければ呪いになんてかからないのかもしれない」


「何それ……」


「あれだけ美波の誘いを断っておいて、酷い奴って思うかもだけど」


 俺は美波のいるであろう方向を見つめる。


「こう考えられるようになったのは美波、お前が音楽の面白さを思い出させてくれたおかげだよ」


「……呪いは完全に治ったの?」


「いや多分、少しでも気を抜いたらまたかかる」


「じゃあダメじゃん」


「だからこそ俺が楽しく弾けるように、俺の講師になってほしいんだ」


 講師……。美波をしばらくその言葉を味わうように発していた。

 彼女にとってそれは特別なものという認識だったんだろう。



「君は卑怯だよ……」


「言っとけ」


「私でいいの?」


「美波がいいんだ」


「私が教えたらコンクールダメになっちゃうかもよ?」


「俺が楽しく弾けて、それで喜んでくれる人が1人でもいるなら良い」


「譜面通りに弾いたら怒るかもよ?」


「そのときはたくさん怒れ」


「もう一回訊くね。本当に私でいいのっ……?


「美波じゃなきゃダメなんだ」


「……そっ……か……」


 ついに耐えきれず、美波は嗚咽を漏らした。


「今まで色々酷いこと言って悪かったな」


「ううんっ……」


「練習頑張るから」


 俺のコンクール出場と講師担当。2つの吉報がいっぺんに訪れた彼女は、その晩、嬉し泣きが止むことはなかった。




◇◇◇◇◇




「違う! そこはもっと音が跳ねるの」


「うっせえな。わかってるよ!」


「ぜんっぜんわかってない! そもそも君、楽しく弾いてないじゃん」


「それは美波が怒るからだろ」


 コンクール前日。あれから俺は美波の教えの下、猛練習をした。だけど5年のブランクはやはり大きい。鍵盤が見えないこともあり、課題曲は弾き切るのも危うい状態だった。


 コンクールは厳しいんじゃないか、俺も美波もそう思った。


「どうやったら美波みたいに弾けるんだよ」


「別に私のピアノが正しいわけじゃない。君は君らしく楽しい演奏ができればいいの」


「できてないからイライラしてんだろ」


「じゃあ休憩しよ。煮詰まると良くないし」


「そうだな」


 俺たちは部屋を出てリビングへと向かう。

 祭りの日以来、我が家にはいくつかルールができた。


『一つ、料理は美波と俺の2人で分担して作ること』

『二つ、食事は美波と俺、じじいの3人が揃ってからすること』

『三つ、食事中は会話をすること』


 どれも美波が強引に決めた。おそらく俺とじじいの距離を縮めようという策略だと思われる。

 こちらとしては、迷惑なルール極まりない。


「今日の晩ご飯はなんでしょう?」


「カレー。さっき一緒に作っただろ」


「残念、正解はカツカレーでした」


「ゲン担ぎのつもりか? やめろ、俺はもうそんな歳じゃない」


「何言ってるの。ゲン担ぎに歳は関係ないよ。それにゲン担ぎには……」


「わかったわかった。さっさと作って食べるぞ」


 まずはロースを1、2センチ間隔で深さ数ミリほど筋を切る。

 それから厚さが2分の1になるまで叩く。

 そうしてそのロースに小麦粉、かき混ぜた卵、パン粉を満遍なくつけ、5分放置。

 パン粉が十分になじんだら、170度の油で3分30秒揚げて完成。


「美味しそう!」


「食うまではわからないけどな」


「絶対に美味しいよ。ちゃんと気持ち込めたから」


「どんな気持ちを込めたんだ?」


「内緒」


「呪いとか、かけてないといいけど」


「そんなわけないでしょ、失礼な!」


「冗談だよ」


「君、冗談とか言えたんだ。意外」


「次は冗談で済まないかもな?」


「おーい、飯はまだか?」


「ごめん、もう少しでできるから待ってて」


 少し前からそうだったけど、美波とじじいはかなり仲良くなった。

 彼女は彼女なりに努力したんだろう。何もしない俺は完全に蚊帳の外だ。


「料理を運ぶから座ってて」


 美波にそう指示されて、俺はじじいとともにテーブル前に座った。

 じじいはいつものようにオーディオでクラシックを聴いている。


「少年、さては辛いことでもあったな?」


「何もねえよ」


「いいや。少年が唇を噛み締めているときはいつもわけありだ。話してみなさい」


「人の名前は忘れるくせに、そういうくだらないところは覚えてるんだな」


「そういう言い方はないでしょ。はい、お待たせ」


 料理がテーブルに並んだ。それを見てもじじいは手をつけない。俺がわけを話すまでは食べないつもりのようだった。


「……別にじじいには関係ねえよ」


「確かに俺たちは家族じゃない。だがな、目の前で困っている人間を放ってはおけないんだ」


「家族じゃない……? そういうところだよじじいっ」


 俺は思わず立ち上がり、拳を握った。

 ……何もかも忘れたくせに良い顔しようとして!


 でも……何もできなかった。いくらじじいと言っても血の繋がった家族。

 俺に殴る度胸なんてなかった。


「彼が酷いこと言ってごめんねー。彼、ピアノが上手く弾けなくて少し怒りっぽくなってるの」


「ほう、ピアノか。なら少年、弾いてみなさい」


「どうせ聴いたって意味ねえだろ」


「いいじゃん。お客さんいた方が君も練習になるでしょ」


「それはそうだが……」


 そうして俺らは2階に上がる。

 じじいは足が悪いのか、美波の肩を借りながら階段を上がった。


『お前はベートーヴェンを舐めてるのか』


 明日弾く課題曲は昔、じいちゃんによく怒られた曲。

 結局、最後の最後まで俺の演奏を認めてはくれなかった。だからあまり聴かせたくはない。


「少年、いつでもいいぞ」


「ああ」




 ベートーヴェン《月光》第三楽章。


 難易度は中級寄りの上級といったところか。途中の右手のアルペジオが難しい。


 ……この辺は自分勝手に弾いてよく怒られたっけ。でも今はそんなことを考える余裕はない。


 ……もしかしたら音楽の巨匠たちから反感を買うかもしれない。


 ……それでも俺はこの一曲を弾き切るために、聴く人を喜ばせるために楽しい音楽をしなきゃいけないんだ。


 だからペダルをあまり踏まないこの曲で、俺は何度も踏んだ。その方がダイナミックで楽しいから。


 正直、途中もミスばかりでとても満足できるようなものではない。これじゃ美波と練習していた時よりもひどい。


 でも俺は何とかこの曲を弾き切れたんだ。




「ブラボー!」


 老人の大きな歓声と拍手。それは外を歩く人にまで聴こえそうだった。


「……何で怒らねえんだよ」


「何を言っとる。最高にファンタスティックな演奏じゃないか」


「こんな上手くもない演奏、昔なら耳が裂けるくらいに叱ってたくせに!」


「確かに上手くはなかったな」


「なら!」


「だが上手に弾くことだけが正しいのか?」


「え……」


 じじいは窓の方へ歩きながら言う。


「そこのお嬢さんに聞いたよ。少年は人を喜ばせるために弾いているそうじゃないか」


「そうだ」


「なら技術を求めるのはやめた方がいい。その代わり、少年は自分の弾きたいように弾きなさい。どんな演奏でも少年が気持ち良く弾いていれば客もついてくる」


 ……そうか。俺は別にコンクールで勝ちたいわけじゃないんだ。


 コンクールを意識するあまり、俺は本当の目的を見失っていた。


 俺はただ、楽しく人を喜ばせるような演奏がしたくて……。


「初歩的なミスだったんだね私たち」


「そうみたいだな」


 結果にこだわらない、自己満足な演奏。そんな演奏でもすごい、面白いと思ってくれる人はいる。

 かつての美波の演奏を聴いたときもそうだった。


「それとな少年」じじいは咳払いをして、「もし思い通りに弾けなかったとしても最後まで笑顔は貫き通せよ」



 ……なんだよ、今日はよく喋るな。じじいのくせに。


「ご飯食べたらまた練習しよ?」


「ああ」


 そのあと楽しく弾けたかはあまり覚えていない。記憶にあるのはよく眠れたことだけだった。

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