第7話 彼女との同居生活

「起きたんだ。はよー」


「いつも思うんだが、その『はよー』って何だ?」


「おはようの省略形。最近は何でも省略するのが流行ってるの」


「あっそ。最近の若者にはついていけないな」


「君だって若者でしょ。ほら、はよーって言って」


「嫌だ」


「別に怖くないから」


「怖くはねえよ」


 いつもは音楽を聴くか、甲子園の音声を聴くか。それくらいしか選択肢のない、孤独な夏休み。


 でも今年はこんな奴でも一緒にいてくれる人がいる。それが不思議と嬉しくもあったんだ。


「そうそう。君に渡そうと思ってた物があるんだ」


 美波はスーツケースから何かを取り出して俺に手渡す。

 それは薄い冊子……のような物だった。


「本か?」


「本は本でも5本線しかない本」


「まさか……」


「そう。楽譜」


 美波はへへ、といたずらっぽく笑った。


「お前な……。見えない奴に楽譜渡しても意味ないだろ」


「よく触ってみて」


 そう言われて俺は指を紙全体に走らせる。

 そこには確かに俺の知っている触り心地があった。


「……点字か」


「ちゃんと君にもわかるように用意したんだ」


「これがコンクールの課題曲なのか?」


「うん。その曲なら今の君でも弾けると思うから」


 点字楽譜。俺はその譜面の一音一音をゆっくりとなぞり始めた。ふわっと頭にメロディーが浮かんでくる。


 ……懐かしい。昔、じいちゃんによく怒られた曲だ。


「なるほどな」


「え、まだ1段しか触ってないじゃん」


「ベートーヴェン。普通1段読めばわかるだろ?」


 難易度はそこまで高くない曲だった。昔の俺なら軽々と弾いていただろう。


「とにかく俺は出ないからな」


「そっか」


 美波はトーンを下げて残念そうに言う。


「せっかくピアノが置いてあるのにもったいないね」


 部屋の隅に隠すように置いていたグランドピアノ。美波はそれに近づいていった。


「おい、やめろ」


「こんなにホコリ被っちゃって」


「やめろよ!」


「え、何で?」


「それは『あの子』との思い出が詰まったピアノなんだ。絶対に開けるな!」




 隣に住んでいた『あの子』は学校が終わるといつも俺の家でそのピアノを弾いていた。


 あの頃は俺と『あの子』の両親は仲が良くて、俺たちの弾く姿を楽しそうに眺めていたのをよく覚えている。


 その時代はじいちゃんだってまだ怒る元気があったんだ。


 幸せなときは自分が幸せだって気付かないものなんだな。




「そう言われたって、もう開けちゃったよ」


「何で……」


 人は本当にキレたとき、瞬間的に言葉を発することができなくなるんだと知った。


「考えすぎなんだよ」


「…………俺の苦しみを何も知らないからそんなことが言えるんだ」


「確かに君の苦しみなんて知らない。だけど」美波はそのピアノで音を奏でながら、「私がそばにいて君の苦しさを和らげることはできる」


 何様のつもりだ……とは思ったけど、


 その言い方には自信があった。

 まるで俺を守る使命でもあるかのような……。


「何で俺に構うんだよ」


「何度も言わせないで。私は君のピアノが聴きたいの」


「俺の演奏なら昔弾いたやつが動画に残ってるだろ」


「今の君じゃないとダメなんだよ。どんな障害があってもそれを乗り越えて、そうして成長した君の演奏が聴きたいの」



 ……何だよそれ。意味がわからない……。


 そもそもなぜ美波はそこまでして弾かせたがるんだ。たかだかアマチュアピアニストの演奏だろうに。


「無理だ。今の俺は1曲弾き切ることすらできない」


「だから、戦うんだよ。過去の呪いと」


 俺はその言葉に思わず鼻で笑ってしまった。


「…………戦う? 呪い? ……ざけんな! 俺にとって『あの子』は大切な幼なじみなんだよ!」


 

 美波は俺の心的領域にズカズカ入りすぎる。このままだといつ俺の心が壊れるかわからない。


 ……退屈しのぎになるかと思ったけど、やっぱり彼女はいない方がいいんだ。俺だってこんな決断したくなかったけど──


「もう……出てけよ」


 俺はとどめを刺すかのように点字楽譜を美波の声のする方へ投げつけた。


 自分が最低なのはわかってる。でも俺はこうして人に嫌われることでしか、自分を守る方法を知らない。


 美波は何も言わずに部屋を出て行った。




◇◇◇◇◇




『17時28分です』


 スマートフォンの画面読み上げ機能が時刻を読み上げる。


 現代は便利になったものだ。

 たとえ目が見えなくてもイヤホンをすれば機械音声がメールや時刻など、画面に表示された内容を知らせてくれる。


「腹減ったな」


 今日の夕飯は昨日の余ったカレーにしようか、と重い腰を上げてリビングに向かう。


「はよー」


「まだいたのか」


 あれだけ酷いことをしたのに、美波は特に変わりない様子でキッチンにいる。


 俺も昼寝をして頭が冷えたのか、先ほどのような衝動的な思いに囚われることはなかった。


「これ食べたら出ようよ」


「嫌だ」


「私に借りがあること、忘れた?」


 ……そういえば前に勘違いでハグしてしまったような……。


「何しに行くんだ?」


「夜の街で豪遊」


「嘘つけ!」



 それから俺たちは外へ出ることになった。


 どうせ美波のことだから、行かないと健一にハグされたことを暴露するつもりなんだろう。


 そんなことがもし健一にバレたら、俺は殺されかねない。

 ……悔しいけど、ここは要求を飲もう。


「あれ?」


 俺はここである疑問が湧いた。


 ……何でその脅しネタを使ってコンクールに出させようとしないんだ?


「どうしたの?」


「何でもない」


「それより早く掴んで」


 前回、買い物へ行ったときに白杖禁止令を出され、白杖を没収された俺。今回は仕方なく、彼女を頼りにすることとなった。


「そんなに照れなくていいから」


「別に照れてなんかねえよ……」


 躊躇いながらではあったけど、俺は美波の差し出した腕を掴んだ。

 腕から彼女の体温を感じる。その腕は赤ちゃんの肌のようにスベスベしていて且つ細い。

 少し力を入れようものなら折れてしまう気がした。


「涼しいね」


「ああ」


「コオロギが鳴いてるね」


「ああ」


「夏の匂いがするね」


「ああ」


「2人で外を歩くのは新鮮だね」


「ああ」


「……コンクール出たいね」


「出たくない」


「何だ、ちゃんと聞いてたのか」


 アハハ、と笑う美波。そこから来る振動が彼女を伝って俺の体に届く。


 ……美波は俺の真隣にいるんだ。

 そう思うと、途端に罪悪感と気まずさがこみ上げてきた。


「さっきは悪かった……」


「……うん。私もしつこくしすぎたよ。ごめんね」


 俺の方を向いて言う美波。彼女からは相変わらずラベンダーの良い香りがする。


「緊張してるでしょ?」


「……してねえよ」


「本当に? 体、ガチガチだけど」


「だからしてねえって」


 ……いや、多分してた。相手が美波だとわかっていてもその体温の温かさが俺の心拍数を確かに上げていた。



「着いたよ」


「どこだここは?」


「私のお気に入りの場所」


「水の音……古びた鉄のにおい……」


「小さな橋だよ。この下に川が流れてるの」


「こんな近くに橋があったんだな」


「外に出ないからわからないんだよ」


「そうだな」


 家を出てから10分、一度も曲がらずに歩いた先には橋があった。


「何でこんなところに連れ出したんだ?」


「気分転換だよ。ここに来ると落ち着くの」


「また気分転換か。俺はお前に振り回されっぱなしで落ち着いた試しがないけど」


「言われてみればそうかもね」


「自覚あるなら少しは慎めよ」


 水が流れる音、風の吹く音、草がなびく音、虫の鳴く声。


 安らぎに満ちた自然がそこにはあった。美波の言う通り、心はだんだんと落ち着いてくる。


 そんな状態だったからこそ、俺はひとつ気になっていることが訊けた。


「話せよ。家出のこと。俺だってじじいのこと話したんだから」


「そっか、まだ言ってなかったね」


 軽く息を吸って美波は話し始める。


「私がいけなかったの。私が結果を出さないから……」


「ピアノの結果か?」


「そう。ママは昔から厳しくて、楽譜通り弾けないとすごく怒った」


 ……俺も楽譜通り弾けなくて、じいちゃんによく怒られた。気持ちはわかるよ。


「私、親の事情で中学の3年間はアメリカに留学してたの」


「アメリカか。良いな」


「私、頑張ったんだよ? 毎日練習してコンクールにもたくさん出て……」


「どうだった?」


「…………ダメだった。全部ダメだった。ママには『中身のない演奏』だって言われた!」


 美波は橋の方へ歩いていく。


「それから現実が受け入れられなくて、逃げるように日本の高校に転校してきたんだ」


「……何だよ。お前も臆病者じゃねえか」


「確かにそうかもしれない。でも私は一歩踏み出した。ピアノ部を作って、部員を集めて、その部員をコンクールに出そうとした!」


 ……つまり俺とは違うと、そう言いたいのか。


「何でそんなことをした?」


「君の演奏を聴くと、心が晴れるような気がした、からだよ」


「意味わかんねえ」


「ママにもそう言われた。でも良いの。この胸のモヤモヤが消えれば、いつかママと仲直りできるから」


 美波は俺の正面に立ち、言う。


「本当にコンクールへ出る気はない?」


 美波の目的と想いは確かに聞いた。でもここで同情できるほど、俺は優しくはない。


「悪い。無理だ」


「……そっか」


 最後の望みを断ち切られたような、それは寂しい口調だった。


「説得できるよう、色々考えたんだけどな。残念、私の力ここに及ばず……」


 ……だから脅してこなかったのか。


「帰ろっか。ずっといても風邪ひいちゃうし」


「そうだな」


 美波は再び俺に腕を差し出す。


 そうして俺たちは、行きとはまた違う気まずさを抱えて帰ることとなった。


「私、家に戻ったら荷物まとめて帰るよ」


「どうして」


「君が迷惑そうにしてるの、本当はずっと知ってたんだ。だから……」


 その声は震えていた。

 彼女の瞳から落ちる滴が俺の手に当たっていた。


 ……俺は優しい人間なんかじゃない。むしろ人を傷つけてばかりだ。


 でも泣いている人間をさらに傷つけられるほど、非情にはなりきれていない。


 だから。


「気が済むまでうちに泊まっていけよ」


「えっ……いいの……?」


「ああ。どうせ帰る家もないんだろ」


「うん、ありがとうっ……」


 彼女の声はさっきよりも明るくなる。


 ……どうやら俺たちの同居生活はまだ続くみたいだね。

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