第6話 最後の時間

「何か話すことがあるんじゃないの」


 自室に戻ると、美波の不服そうな声が聞こえてきた。


「美味かったよ」


「そうじゃない!」


 美波は引き下がろうとしない。


「多分、後悔する。それでも聞きたいか?」


「……うん」


 美波からは静かにそう返ってくる。


 覚悟を決めているようだった。たとえそれが残酷な事実だとしても。

 だから俺は正直に話すことにした。



「……認知症だ。もう何年も前から。事故が起きてからはあっという間に進行した」



「それで君の名前を……」


「ああ。俺が見えないことも知らなくて当然だ」


「私調べたんだけど、あのおじいさん、ピアニストの月城修つきしろおさむだよね?」


「ああ、そうだ」


「じゃあピアノは?」


 俺は無言で首を振る。


「そんな……」


 ……俺だってこんな事実、受け入れたくはなかったよ。


「じじいには関わるな。関わっても傷つくだけ。それは俺が実証済みだ」


「それが君の答えなの?」


「そうだ」


 今のじいちゃんはじいちゃんではない。

 俺の名前どころかピアノすら忘れてしまった、ただの老人。


 もう赤の他人なんだ。




「私はそんな答え嫌だけどな……」


「他に方法がないんだ。諦めろ」


「でも家族でしょ⁉︎」


「あんなの俺の家族じゃねえ!」


「……やっぱり臆病者なんだね君は」


「なんだと……⁉︎」



「ピアノからおじいさんから、そうやって見たくないものにはすべて蓋をする。私を遠ざけようとするのも、本当はその蓋を開けられるのが怖いからなんでしょ……?」



「うるせえ!」俺は壁を叩く。「これは俺の問題だ! 部外者が気安く入ってくるなよ!」


「話を聞いた以上、私はもう部外者じゃない」


 どう言われたって美波に俺の気持ちはわからない。大切な人を2度も失った俺の気持ちなんか。


「私は私なりの答えを見つける。だから君も自分が本当に納得する答えをもう一度考えて」


 返事はしなかった。それが無駄なのはわかっていたから。




◇◇◇◇◇




 体の節々が痛くて早くに目が覚めた。

 昨日、地べたで寝たからかもしれない。


 ……美波にベッドを占領されていなければこんなことには……というかそもそもここは俺の部屋だろ!


 だけどそんなことより、リビングは少しややこしいことになっていた。


「久しぶりだね」


「えっと……」


「ホームヘルパーの小泉こいずみ。毎日来ているけど、純くんと会うのは夏休みだけだから覚えていないかな?」


「ああ、小泉さんですか」


 薄らとした記憶しかない。話したことがあったかどうか。


「しかし驚いたよ。純くんにこんな素敵な彼女がいたなんて」


「え、いや、こいつはただのいそうろ……」


「そうなんです! 彼は私がいないと何もできないので……」


 会話に割って入る美波。


 ……俺はこいつに飼われでもしてるのか?


「まあ何にしても良かった。純くんが誰かと話しているところなんて見たことなかったから」


「そうなんですか?」


「うん。彼はいつも2階にこもってしまうからね」


「あー、確かに」


 ……何で美波にわかるんだよ。


「そうだ。純くんとこうして会えている間に話しておこう」


「何ですか」


「おじいさんのことだよ。純くん、症状はどこまで知ってる?」


「いえ、全く」


「そうか……」


「何かあったんですか?」


「何があったも何も」小泉は小さく息を吐いて、「今、こうして会話できていることが奇跡だよ」


「えっ……」


 ……嘘だ。だってじじいはいつも通り……。


「もう歩くこと、トイレに行くこと、風呂に入ることにも支障が出始めている」


 ……そんなの聞いてない。何で?


 俺の知らないうちにじいちゃんはじいちゃんじゃなくなっていく。

 ……俺のせい? 俺が冷たい態度を取ったから?


「意志の疎通ができなくなるのも時間の問題だね」


「……じじいはもう治らないんですか?」


「正直厳しいと思う。だから純くん、私からのお願いを聞いてもらえるかな?」


 俺は何も言わず、コクリとうなづいた。



「最後の時間をおじいさんと過ごしてほしい」


 ……最後の時間って何だよ……。


「おーい、ちょっと来てくれ」


「はい、おじいさん。どうしました?」


「それが、どうしてもオーディオの電源が付かないんだよ。俺はこれを聴かないとどうも調子が悪くなって……」


 部屋いっぱいに響くじじいの声。その声だけは昔と何一つ変わらない。


 ……こんな元気に喋っているのに。


「おじいさん、スイッチを押さないと付かないですよ」


「スイッチ? どれだそれは」


 でもやはり症状は悪化しているようだった。

 美波は俺の肩をつついて言う。


「買い物でも行こっか」


「……俺に気遣うなよ」


「何言ってるの。君はただの荷物持ちだよ」




◇◇◇◇◇




「君はどうするつもり?」


「何が」


「おじいさんのこと」


「今までと変わんねえよ」


「ああ言われても?」


「俺は傷口に塩をかけるようなことはしたくないんだ」


「それってやっぱり逃げてるだけだよね」


「言うなそれを。俺だってわかってる」


「へー、自覚あったんだー」


「黙れ」


 俺たちは気分転換に近所のスーパーへ出かけた。学校以外の用で外に出るのは久しぶりだ。


「その棒、邪魔だから次行くときは持ってこないで」


「あのな、白杖は俺にとって目なんだぞ。それを邪魔とか言うな」


 正直、俺だって鬱陶しくて仕方ない。これを持ってるだけで白い目で見てくる人も世の中にはいる。


 だけどまさか梨恵の肩を借りるわけにもいかないし、1人で歩くわけにもいかない。

 これは仕方なかった。


「すごい、いちごが特売だって!」


「それがどうかしたのか?」


「早く行かないと売り切れちゃう!」


「は? おいやめろ!」


 美波は俺の腕を掴んでいちご売り場に直行した。それは獲物を見つけたチーターのようで、もうどの言葉をかけても聞いてはくれなかった。

 

 ……確か自己紹介の時にいちご好きって言ってたっけ。



 特売の威力はすごいもので、見えはしないけど足音と話声からして周囲が人で溢れかえっているのがわかる。


「……美波?」


 そうしているうちに彼女は人波にのまれてしまった。


「仕方ない」


 スーパーの外に出て美波の帰りを待つことにした。

 7月もすでに後半。汗がぽとぽと落ちるほどには気温が高い。


 ……暑い。こっちで休むか。


 向かった先はミストシャワーの散水機。スーパーに入る前、美波が近未来だ、ってはしゃいでたな。


 ──それから経つこと20分──



「ごめんごめん。いっぱい買っちゃった」


「遅えよ」


「だからごめんって言ってるでしょ。今日は君の好きなカレーにするから文句言わないで」


 ……俺がカレー好きなの覚えてたのか。てっきりいちごのことしか頭にないのかと思ってた。


「じゃあ荷物よろしく」


「ああ」


 気分転換とは言っても買い物以外に用はない。俺たちは特に寄り道することもなく、帰途につく。


「そういえば何で今の学校にしたの?」


「あそこは視覚障害者のサポートが手厚いんだ」


「確かに点字の本がたくさん置いてあるね」


「ああ。まあそれを読むために点字を習得するのはなかなか苦労したけどな」


「盲学校っていう選択肢はなかったの?」


「悩んだ。でも俺はなるべく普通に近い存在になりたかったんだ。だから普通校にした」


「君の言う、普通ってよくわかんないよ」


「普通の人に普通なんてわからねえよ」


 ……そうさ、今当たり前に過ごせていることがどれだけ幸せなのかなんてお前たちにはわからないだろうさ。


「私にとって普通は、つまらないっていう意味だけどな」


「まあ確かに、お前は少し変だ」


「でしょ?」


「演奏はめちゃくちゃで、俺をコンクールに出させようとして、俺の家で居候して」


「いかにも特別って感じ。……知ってる? 普通の人じゃ成功者にはなれないんだよ?」


「別に俺は成功者になりたいわけじゃない。他人から不自由な人間だと思われたくないだけだ」


「何それ」


 美波はおそらく俺の方に顔を向けて言った。


「見えない人がそうじゃない人より不自由だって、誰がそんなことを決めたの?」


「それは……」


「見えないからこそできることだってある。もっとポジティブに生きていこうよ」



 こんなことを言われたのは初めてだった。普通の人間はそうは言ってくれない。


 ……やっぱり美波は変な奴なのかもしれないね。




「なんか良い香りしない? バニラエッセンスっぽい匂い」


「そういえば確かに。どこからだ?」


「うーん。あ、わかった、あそこのトラックからだよ!」


「トラック……?」


 その単語が俺の中でこだまする。

 その瞬間から俺の全身は恐怖と悔恨に震えていた。



 トラック。それは『あの子』を殺した悪魔。

 夏、コンクール、夜道、約束、横断歩道、クラクション音、『あの子』……。


 あのときの凄惨な情景が、フラッシュバックする。


(女一つ守れなかった奴に触られるピアノの気持ちも考えろ!)


 ……そうだ、だから今度は守らなきゃ。

 二度と後悔しないように。




「ちょっと……恥ずかしいよ……」


「え?」


「あれはフードトラック。走ってないから」


 ……なんだ、そうだったのか。


 俺はその言葉に胸をなでおろした。

 だけど同時に俺の体には熱湯の如く羞恥が沸き立ってきた。


 気付けば、美波の体の至る所が俺の体に当たっていたんだ。


「悪い!」


「う、うん……」


 ……いくら身を守るためと言っても、いきなり抱きしめられたら怒るよな……。しかも俺の盛大な勘違いだし。


「……奢るから」


「いいの?」


「ああ。何でも買え」


「もしかしてそれで機嫌を直してもらおうとか思ってる?」


「別にそんなことは思って……」


「言っておくけど私、その程度で許すほど安い女じゃないから」


 ……じゃあどうすればいいんだよ。


「まあでもせっかくだから奢ってもらおうかな。いちごクレープ売ってるし」



 合計金額2600円。

 ……美波は遠慮ってものを知らないのか? 今度トラックが来ても助けてやらないから。

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