第5話 おじゃまします
「逃げるの?」
「明日から夏休みだろ。せっかくの休暇を邪魔しないでくれ」
あれから3日連続、美波はコンクールに出ろと頑なに言い続けた。
もちろん俺にその気はなくて、最初は諦めてもらおうとそれ相応の言葉を返していた。だけど彼女はいつまで経っても持論を翻さない。
「君は十分休んだでしょ? 君の本当にやるべきことに夏休みなんてないの!」
俺は部活に行くのが億劫になって、教室や図書館にこもるようになっていた。それでも美波は俺の現在地を突き止めてまで説得しようとする。
「うるせえな、いい加減にしろよ!」
正直、今の俺がコンクールに出たところで誰の得になるとは思えない。もちろん俺の得にも。
美波はどうしてこんな無駄なことをするんだろう。
「もういい」
美波は意外にもあっさり去っていった。
「行ったか……」
ここは普通喜ぶべきなんだろうけど、彼女の強引さを知っているからか、何か策があるんじゃないかとわずかな不安が残る。
それはその日の放課後のことだった。
「あまり彼女を怒らせるなよ? 今日の部活はほとんど純の愚痴で終わったんだから」
……やっぱり。美波の奴、健一に言いつけたんだ。
「知らねえよ。それはあいつの問題だろ」
「いや、純が部活をサボるからだろう?」
どうやら美波も俺と同じく、健一にコンクールのことは話していないようだった。健一には気の毒だけど、俺にとってはその方が都合が良い。
「そんなことよりお前、恋は順調なのか?」
「えっ、いや……」
声が裏返ってる。上手くいってないのか。
「……楽しくやってはいるけど、何だか友達として見られている気がするんだ」
「そんなの、お前ならガツンと行けば何とかなるだろうに」
健一と美波がくっつけば、厄介者が消えて楽になる。
「そんな簡単にいくわけないだろう? それに夏休みの間は会えないんだ」
はぁ、と暗い気持ちがこっちまで移るかのような深いため息。
……面倒だな。こういう恋愛バカは情緒不安定すぎて嫌になる。さっさとくっつけた方がいいのかもしれない。
「しょげた顔すんなよ。デートのセッティングしてやるから」
「本当に⁉︎ やっぱり純は良い人だ!」
声色が180度変化した。俺のその言葉を待っていたかのように聞こえて少しイラっとする。単純なんだかあざといんだか。
「じゃあデートの件、頼んだよ」
健一はずっと鼻歌を歌っていて、俺を家に届けた後も歌っていた。やっぱり単純なだけかもしれない。
◇◇◇◇◇
(違う! お前はベートーヴェンを舐めてるのか!)
俺はよく怒られた。
(好き嫌いするくらいなら食べるんじゃない!)
かつてのじいちゃんに。
(女一つ守れなかった奴に触られるピアノの気持ちも考えろ!)
最後の言葉が1番キツかったかもしれない。
「おー、帰ってきたかヘルパーさん」
今のじじいは俺に言ったことも忘れて呑気に話しかけてくる。
……無視だ無視。本物のヘルパーは午前中に来ただろ。
俺と同居している唯一の家族。だけどその家族は認知症で俺の名前なんかもう覚えちゃいない。おまけに俺をヘルパーだと思い込んでる。
こんな人でも昔は有名なピアニストだった。テレビにはよく出ていたし、オーケストラとの共演もよくしていた。演奏中、いつも微笑んでいたじいちゃんが懐かしい。
そのじいちゃんは俺に対して、いつも厳しかった。
何をしてもダメ出しされて、泣いていれば甘えだと言われて、正直この人に良い感情を持ったことはない。
だけど、こんなボケた老人になるくらいなら昔のように俺を叱ってくれた方がまだマシだったな、って最近はそう思うようになった。
今はまるで他人と住んでいるような気分だ。
「リモコンがどこかへ行ってしまったんだが、少年、知らんかね?」
「うるせえ」
俺は駆け足で自室に避難する。それからイヤホンを取って音楽を流す。
こうすればじじいの事もコンクールのことも事故のことも忘れられる。この時間だけが現実から逃れられる至高の時間。
結局、俺は美波の言う通り、逃げることしかできない臆病者なんだ。
「…………んでしょーっ」
外から何やら女性の声が聞こえる。しかも近い。
まあどうせ、近所のおばさんたちが話し込んでいるだけ。そう思おうとしたが……。
「……はコンクール…………」
……コンクール⁉︎ 嫌な予感がする……。
そう思いながら俺はイヤホンを取って耳を澄ました。
「君はコンクール出るんでしょーっ!」
嫌な予感は的中。声主はあの女、美波梨恵だった。
こうなったら居留守だ。どうやってここを調べたのかは知らないけど、出なければ諦めて帰るはず。
「もしかして新しいヘルパーさんかい? 随分と可愛い子だね」
「え、いや違いますけど……」
「遠慮しなくていい。上がって行きなさい」
「は⁉︎ 何やってんだあのじじい……っ!」
……とんでもないことになった! もし家に入れたら俺の居留守がバレてしまう!
「くそっ」
俺は急いで隠れ場所を探した。
……今はどうしても美波に会いたくない。コンクールに俺の日常を壊されてたまるか!
必死に探して行き着いた先は、
「この下か。入りたくはないけど」
ベッドの下だった。
「あれ、どこへ行くんだい」
「すみません、家の中で忘れ物をしたので探させてもらいますね」
……俺は物じゃない!
そう心の中で叫んでいるうちに、リビング、風呂、トイレ。様々な部屋を開け閉めする音が聞こえてきた。
俺の部屋は2階。頼むから来ないでくれ。
「残るは2階か。よし!」
……よしじゃない。さっさと帰れ!
小さな足音が徐々に近づいているのがわかる。それは俺の部屋の前でパタリと止まった。
「ここが君の部屋かな?」
美波はズカズカと部屋に侵入。その近さは彼女から漂うラベンダーの匂いが物語っていた。
「うわっ汚い! 何この部屋」
……悪かったね、汚くて。
「うーん、ここにもいない、か」
……そうだここには誰も……。
「っていうのは嘘」
ていっ、と俺の額に優しいジャブが当たった。
「君も往生際が悪いよ」
腹の立つことに美波は勝ち誇ったかのように笑いながらそう言った。
「……ったく、迷惑なんだよ。家まで来てコンクールコンクールって」
「だってコンクールまで1ヶ月ないんだよ? 練習しなきゃ」
「だからコンクールなんか出ないって言ってるだろ」
「ふーん。もう申し込んじゃったけど」
「は⁉︎ 嘘だろ……?」
「嘘じゃないよ。ということで君の決心がつくまでは帰らないから」
「意味わかんねえよ。だいたいお前は何がしたいんだ……」
「もう一度、君のピアノが聴きたい。それだけだよ」
その声はしんみりとした寂しさを纏っていた。
「ピアノは好き?」
……事故の前までは……『あの子』が死ぬ前までは好きだった。でももう好きにはなれない。
無言で返すほかなかった。
「そっか」
「わかったら帰ってくれ」
「よし、わかった」美波は突然手を叩いて、「私、今日は泊まってく」
…………は?
「安心して。料理と家事はできるから」
……何の冗談?
「冗談じゃないよ」
美波はそう言って、すでに部屋の中を片付け始めていた。
「ちょっと待て! 親にはどう説明すんだよ」
「大丈夫。私、絶賛家出中だから!」
わけありなのか、その明るい声には少しだけ陰りを感じる。
「というわけで今日からここは私と君の部屋になります!」
「何がというわけでだ。出てけ! ここは俺の部屋だ!」
「出ても良いけど、ちゃんと私の荷物届けてよね。下着とかあるし」
「し、下着⁉︎」
「君が早く私を追い出さないから、私の荷物を全部この部屋にばら撒きましたー!」
「…………あーもう。好きにしろ」
「はーい、好きにしますよー」
……ダメだ。こいつがいると調子が狂う。やっぱラヴェルの演奏のときと同じでこいつはとんでもない自由人だ。
「お前、どんだけ荷物持ってきたんだよ」
「これだけ」
コロコロとタイヤの回転する音。
……まさか、スーツケース……? そうか、最初から泊まる気だったのか。余計に腹立つな!
「そろそろお腹減ってきたでしょ?ご飯作るから下降りるよ」
「勝手にしてくれ」
「何食べたい?」
「いいから出てけよ!」
俺は部屋に鍵をかけて、再びイヤホンで外界の音をシャットダウンする。
でも数分経って気づく。
「待てよ、料理をするってことは……」
壁を伝って急いで部屋を出た。
「どうしたの? ご飯ならまだできてないけ…………きゃっ」
コトコトとキャベツを刻む音。
……やっぱり。美波は包丁を使っている。
「手、傷つけたらどうすんだよ。ピアノ弾くならもっと大切にしろ」
「私、器用だから大丈夫だけど」
「いいからこれ使え」
「キッチン手袋?」
「包丁触るときと食器洗いするときはしとけ」
「君は使ってるの?」
「まあ食器を洗うときは。ピアノ弾くなら当然だろ」
と、言って俺は気付いた。
……ピアノを弾くつもりなんてないのに、何でこんなものを使っているんだろう。
「君は優しいね、やっぱり」
「やっぱり?」
「あ、ううん! 健一くんが『口は悪いけど優しい人』って言ってたから……」
……一言余計なんだよ。
「それにしてもよく冷蔵庫に材料あったな。作り置きしか入ってなかったろ」
「どうせ料理するだろうと思って買い物しといたんだ」
どこまで用意周到な、とつくづく思う。
まあいい。ヘルパーの作り置きを食べるのにも飽きてきた頃だったし。
「今日の飯は何だ? ……お、ハンバーグか! これは美味そうだ」
「ダメですよおじいさん、ネタバレしちゃ。彼はまだ知らないんですから」
このとき、また嫌な予感がした。
「何を言うとる。ハンバーグは少年の目の前にあるだろう」
「え……?」
バレた。じじいの本当の姿が。
「おじいさん、この人は目が見えないんですけど……」
「そうなのか?」
「あなたのお孫さんですよね?」
「バカを言うな。私の孫はもう死んでいる」
その言葉は冗談のようには聞こえない。空気は一瞬にして緊張感に包まれた。
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