第4話 全部1から始めよう
あれから数日が経った頃、ピアノ部は飽きもせず続いていた。
どうやら健一はピアノ未経験者だったようで、最初は両手を同時に動かすことさえままならなかった。
だけど『恋愛は人を成長させる』と言うべきか、ここ最近急成長したような気がする。
「ここはこう弾いた方が聴いてて楽しいかなー」
コーチの美波と、
「こう?」
生徒の健一。
俺は2人の会話を聞きながらたそがれる。そういう部室での生活スタイルに慣れ始めていた。
「すごい健一くん、もう弾けちゃった!」
「意外と練習すれば弾けるもんだね」
「そろそろ次の曲にチャレンジしようよ」
「オーケイ。何がいいかな?」
「ノクターンとかトロイカ、トロイメライとかどう?」
ショパンにチャイコフスキーにシューマン。すべて中級以上、初心者がいきなり弾けるような曲じゃない。
「いくら何でも初心者にそれは難しすぎるだろ」
「弾かない人は黙ってて」
美波は、俺を入部させたがっていた、という割にあまり会話をする気はない。
むしろ輪に入ろうとすると不機嫌になる。
「おーい健、ちょっといいか」
女の声がした。おそらく担任の声と思われる。
ほとんど話したことはないけれど、女性の中でもかなり声が低かったのが印象的だったからか、記憶に残っている。
「はい」
健一は特に訝しがることもなく担任のもとへ向かった。
おそらく10月の文化祭についてだと思う。
彼は1年生の代表として実行委員に選ばれているから。
よくもまあ、そんな面倒な仕事を引き受けるよなあとは思うけど、本人は楽しそうだし文句はない。
部室に漂う沈黙。
ここで俺は美波と2人きりになってしまったことに気付いた。
……こんな機会じゃないと言えないし、訊いてみるか。
「なあ」
「何?」
「お前、何で俺を入部させようとしたんだよ」
「気になるの?」
「あんな露骨な逆セクハラされて、健一に俺を入部させるよう吹き込んで、普通そこまでされたら気になるだろ」
美波はそっか、と呟いてから言った。
「全日本クラシックコンクール優勝、Rクラシックピアノコンクール優勝、グランツァルトコンクール優勝、……これが何かわかる?」
「それは……」
「そうだよ、君がこれまでに取った賞の数々」
なぜ美波がそれを……? 5年以上も前のことなのに。
「君はピアノ界のちょっとした有名人だったからね」
まあ確かに地元では少し名が知れていたかもしれない。
「だからね、生で聴いてみたかったの」
「それが理由、なのか……?」
「うん。私は君の演奏に憧れてピアノを習い始めたから」
「そうだったのか」
「……でもがっかりした」
それは沈んだ声。
「ここ数日様子を見ていたけど君は全くピアノを弾きたがらない。何で? 目が見えなくなったから? 今の君ははっきり言って生きる屍だよ! 君は何がしたくて生きてるの⁉︎」
美波の怒りは口を押し開けて、外に溢れ出ていた。
「……うるせえよ、何も知らないくせに」
「そうやって自分を傷つけないように蓋をする人生、楽しい?」
「楽しくなんて……。俺だってこんな半端な人生、歩みたくはなかった。でも仕方ないだろ。俺は普通じゃねえんだから」
「普通になりたいの?」
「ああ、みんなと同じように生きられたらどれだけ幸せだったか! ……お前にはわかんねえよ!」
……そうさ。みんなと同じ景色を見て、それで「綺麗だね」なんて感想を共有し合うことができたらどれだけ幸せだったか。
この見えない生活に慣れたとしても、俺は普通への憧れを捨て切ることなんてできない。
「ならさ、特別になればいいんだよ」
「……は?」
「君に普通は似合わない。それに、ここで終わるような人じゃない」
「だったらどうすれば……」
「出よう、コンクール」
その声は先ほどとは違って穏やかだった。
「何言ってんだよお前。俺はピアノが……」
「私は知ってるよ。君はただの臆病者だって」
「臆病者……⁉︎」
「そう、君は過去を引きずってるフリして本当はピアノを弾くことから逃げようとしている。それは事故以来、ピアノを弾く目的を失ったから」
確かに俺はピアノとは一線置いた生活をしてきた。それに弾く目的もなかった。
まるで俺の心を覗いているかのように美波の言葉は的を得ている。そうか、俺は臆病者なんだ、ってそう思わせられる。
でもそんな事実、認めたくはない。
「知ったような口を利くな! 俺はそんなんじゃねえ」
「じゃあ証明してよ。コンクールは1ヶ月後。それまで毎日練習。できなかったら逃げたとみなすから」
……何だよそれ。何でいつもいつも勝手に決めて……。
「お取り込み中、かな?」
俺の感情が今にも爆発しそうなタイミングで健一は戻ってきた。
こんな修羅場チックな状況下で、健一は空気が読めないのか、それとも敢えて読まないのか、笑みを取り繕っていた。
「聞いてよ健一くん。彼が私を苛めてくるんだよ」
「は? 嘘つけ! 苛めてんのはお前だろ!」
「ほら! こんな感じで」
「ふざけるのもいい加減に……」
「まあまあ。今日はもう時間過ぎてるし帰ろう?」
健一に言われてふと冷静になると、部活終了の鐘が鳴っていることに気付いた。
「僕は出した楽譜を片付けてから帰るよ」
「私も手伝う」
……あーあ、後味が悪い。このままだと美波と一緒に帰ることになりそう。そうなったらまた喧嘩に……。
そうなる前に俺は荷物を取って1人、部屋を出た。
「1人じゃ帰れないんじゃなかったのかい?」
背後霊の如く真後ろについて、そっと声をかける健一。ストーカー気質でもあるんじゃないかと疑ってしまう。
「どうせお前は俺を追いかけて来るだろ」
「よくわかってるね」
……そりゃまあ、友達だから。
「梨恵ちゃんと何かあった?」
「何もねえよ」
「純がそういう顔をしているときは必ず嘘をついてる」
「どんな顔だよ」
「顔いっぱいにシワを寄せた怖い顔。せっかく良い顔をしているのに台無しだよ」
「うるさい」
「それで、何があったんだい?」
「……ただピアノを弾けって言われただけだ」
「表情が変わってない。また嘘をついたね」
……言えるわけないだろう。健一のことだから、もしコンクールのことについて話したら美波の肩を持つに違いない。
「てかお前、本当に美波のこと好きなのか?」
「何だよ急に。話逸らすなよ」健一はそう言いながらも、「……まあ好きだよ? 優しいし、教え方は上手いし、すごく整った綺麗な顔をしてるし、モデルみたいにスタイルは良いし、髪は僕の好きなポニーテールだし」
案の定、話逸らしの作戦は成功。
多分、こいつの今の顔はにやけで満ち溢れているんだろう。鬱陶しさはこの上なかったけど、尋問を免れて一安心。
「お前、本当に人が変わったよな。なんていうか、前より一段と明るくなったというか」
「人は恋をすると一皮も二皮も剥けるんだ」
「そうかよ。でもな、悪いことは言わん。やめとけ、あんな性格の悪い女」
「悪いこと言ってるじゃないか。ひどいなあ」
とは言いつつも余裕のある高らかな笑い声。数ヶ月前は愛想笑いが得意芸だと思うほどだった彼がここまで変わるとは。
「好きな人ができるってどんな気分なんだ?」
「うーん、難しい質問だね」
「わからないならいい」
いや待ってくれ、と健一は回答時間を引き延ばす。玄関で靴を履き替えて外に出たタイミングでその答えは返ってきた。
「……その人を見るだけで……いいや、思い出すだけで、自分の中にある胸の淀みが溶けていく。そんな感じかな」
「何だよそれ。数分かけて出した答えがそれかよ」
「純もそのうちわかるさ」
わかるわけがない。だって、俺のそういう人はもうこの世にいないのだから。
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