第3話 音を楽しむのが音楽だから
「ああ言っても来てくれる純はやっぱり良い人だね」
「お前が強引に連れてきただけだろうが」
「本当に嫌だったら昨日みたいに走って逃げるだろう?」
「俺は痛がりなんだ」
「へえ、そう」
その言葉を最後に健一の足が止まる。どうやら部室に着いたらしい。
昨日、俺はピアノが弾けないって証明したのにまだ連れてこようとするなんて。やっぱり健一は頑固だ。
「例の物、持ってきたよ」
「おい、俺は物じゃ……」
表現多彩な音色。
その時、俺の中には嫌悪と好感という相反する感情が生まれた。
なんて無茶苦茶な演奏。これじゃ作曲者を侮辱しているに等しい。
でもそこには、美しい和音、柔らかなメロディーがある。
ラヴェル《亡き王女のためのパヴェーヌ》
テンポの変動や音の強弱、音のすべてが自分の書いたもの通りに演奏されないと、我慢ならなかったというラヴェル。
もし天国からこの演奏を聴いているなら、きっと激怒しているに違いない。
でもそれは下手だから……ではない。アレンジが効きすぎているからなんだ。
曲の形式よりも音の響きを大切にしている。
聴いているうちに笑いがこぼれてしまうような、それは愉快な響き。
まるでサーカスを観ているよう。
ラヴェルとは反対に俺からは嫌悪という言葉が無くなっていった。
「何だよこの演奏……」
「どう? すごいでしょ?」
弾いている彼女からは自信が溢れ出ていた。
「初めてだ……こんなに楽しいと思えた演奏は」
「だって音を楽しむのが音楽じゃん」
その女は俺に優しく問いかける。
「入部してくれる?」
なぜ俺に固執するのかはわからない。だけど。
「ああ」
彼女の演奏を聴くだけなら。
音を楽しむだけなら。
それなら『あの子』に恨み言を言われることもない。
俺はその問いに頷いた。
「やった!」
健一と女は子供のようにはしゃいで俺の入部を喜んでいた。
何が嬉しくてそこまで騒げるんだろう。ピアノの弾けないピアニストにできることなんて何もないのに。
「えっと、まずは自己紹介しないとね。私は1年C組、
「俺は1年A組……
「好きな食べ物は?」
「そこはどうでもいいだろ」
「私だけ答えてバカみたいじゃん」
「お前が勝手に言ったんだろ」
「いいから答えて」
……しつこい。おまけにバカ。強制痴漢女。最初からわかっていたけど、こいつとは絶対気が合わない。
「……カレー」
「ふーん、君はカレー好きなんだ。確かに性格がスパイシーだもんね」
「どういう意味だよ⁉︎」
見かねた健一が手を叩いて会話を遮る。
「さてさて自己紹介も終わったことだし、純の入部を祝ってピアノを弾こう!」
「それ良い!」
「おい待て。俺は弾かな……」
「いいから純も」
そうしてピアノ部の本格的な活動は始まった。それと同時にわかったこともある。
……健一、お前……。
◇◇◇◇◇
「純と同じ部活に入れて嬉しいよ! 彼女に感謝しないとね」
部活の帰り道。健一はこれまでになくご機嫌だった。
「なあ」
「ん?」
「お前さ、嘘ついただろ」
「僕が純に? まさか」
「お前は俺のピアノを聴くために入部したって言った」
「そうだね」
「でも本当はあの女、美波梨恵のことが好きだったから入部したんだろ?」
その言葉に彼の足は止まる。
「何で……?」
「音が弾んでるんだよ。『君とピアノが弾けて嬉しい』って、全部ピアノから丸聞こえなんだよ」
「…………ふっ、やっぱり純に隠し事はできないね」
少年のような笑い声。純粋な恋心を抱いて幼さが蘇っているようだった。
「んだよ、俺を入部させようとしたのは女に会うためかよ」
「それもあるけど、純のピアノを聴きたいというのも本音さ」
「そうかよ、そりゃどうも」
「そう拗ねるなって。梨恵ちゃんは最初から純を入部させたかったみたいだし」
……もう名前呼びか。へえ。
「もしかして純に惚れてたりね」
「なわけねぇだろ」
「まあもしそうなら全身引きちぎるけど」
……おいそれ、俺は何も悪くないだろ。
健一が美波に想いを寄せていること、美波が俺を入部させたがっていたこと。
わかったことはそれなりにあるけど、やっぱり俺はこの部と深く関わろうとは思えない。
まだこの段階では。
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