第2話 俺は俺の音楽が弾けないんだ

 部活なんて興味がない。そう言ったはずなのに結局来てしまった。

 ……あの強制痴漢がなければこんなところには……。


「さあ入って」


 健一によると、俺の前にある部屋が今後部室として使われるという。

 何の部活なんだろう。いくら健一に訊いても教えてくれないから、わからないままだ。


「お前が先に入れよ」


「純が誘われたんだろう?」


 そう押し問答しているうちに健一は後ろから俺を突き出した。


「何すんだよ! って……」


 ……誰もいない?


 そう思えるほど閑散としていた。


 少し埃っぽくてジメっとした部屋。

 でもゆっくり奥へ進んでみると、あのラベンダーの香りが、確かにそこへ居ることを示していた。


「はよー! ようこそ、我が部へ」


「俺は来るつもりなんかなかったんだが、こいつが無理やり……」


「はよー! 健一くん!」


「はよー! 来たよ」


 ……何だよ、はよーって。こいつら知り合い……? だとしたら俺はハメられた……?


「実はさっき、どうしても入部してほしいって彼女に頼まれてさ」


「それでお前は買収されたのか」


「買収なんてとんでもない。好意で来たんだよ」


「このお人好し野郎が」


 勝手に戯れていればいい。俺は青春ごっこをするほどバカじゃない。


「それで? 君は入部するの?」


「するわけないだろ。だいたいお前が何部を作ろうとしているのかすら知らないし」


「え? ポスター渡したじゃん」


「こいつが教えねえんだよ」


「そっか……」女は意味ありげに返事をして、「じゃあ改めて紹介するよ!」


「いい。俺はこいつの付き添いだから」


「まあまあ、そう言わずに」


 女は深呼吸をしてその指で奏で始める。


 その瞬間、俺は全身から血の気が引いていくのを感じた。

 

 それは俺を地獄に陥れた音。白と黒に染められたその楽器は俺に冷たい笑みを浮かべて迎え入れる。


「ようこそ、ピアノ部へ!」


 健一がなぜ部名を言わなかったか、わかった気がする。


「健一は俺にピアノを弾かせるためにここへ連れてきたのか?」


「そうさ。どんなに辛い過去があっても純の本物はピアノにあると思うんだ」


 今までだったらそんなことは絶対に言わなかった。

 俺の過去を聞きはしても、俺が傷付くようなことはしない。それが健一のやり方だった。


「……お前、その女に何か吹き込まれたろ」


「何その言い方!」


「健一はこんなこと言わない。お前は何かデタラメを使って健一を言葉巧みに操っているんだ。……この、悪女め」


「悪女⁉︎ ふざけないでよ! 私はただ……」


「吹き込んだことは否定しないんだな」


「……べ、別に吹き込んでもない!」


 その焦りの混じった口調からは動揺の色がうかがえる。バレバレの嘘。


 健一を使ってまで、どういうつもりかは知らないけど、これは俺にとって立派な精神攻撃だ。


 俺は事故以来、ピアノが弾けなくなった。もし弾こうとすれば『あの子』の声が呪いをかけるかのように聞こえてくる。


 それが苦しくて、辛くて……。だから俺はピアノを辞めたんだ。


「帰る」


 弾けない以上、入部する理由なんてない。

 俺は足を180度回転させて歩き出そうとするが……。


「ダメだ。純のピアノを聴くまでは帰らせない」


「お前……」


 健一は俺の肩を掴んでいた。

 彼はその手に震えるほど力を入れていて、どうあがいてもその捕縛を解けそうにない。




「…………ちっ、わかったよ」


 殺伐とした空気に耐えかねて、俺は仕方なくピアノ椅子に座った。

 本当はピアノなんて弾けるはずないのに。


 冷たい。5年ぶりに触る鍵盤の感触。

 とても心地の良いものではなかった。だけど俺は間をおかずに弾き始める。


 とにかく1秒でも早く離れたかった。俺にこんな人生を突きつけたこの黒い塊から。


「すごいよ純! 見えなくても弾けるじゃないか」


 ラヴェル《水の戯れ》


 水の戯れを制御する噴水の規則的なリズム。それが変幻自在な水の色彩、音響を見事に再現している。


 幼い頃から何千回と弾いてきた。

 この曲で何度もコンクールを優勝してきた。これなら鍵盤が見えなくたって弾ける。


 演奏は意外にも順調な出だしだった。5年間弾いていなかった人間とは思えないほど手が滑らかに動いている。



(そこで何をしてるの?)


 ……里美っ⁉︎


 俺の前に広がる川のイメージ。その中に『あの子』こと里美が入り込んできた。


(ピアノ部? へえ、くだらない)


 ……違う! 俺は巻き込まれただけで……。


(私との約束はどうしちゃったの?)


 ……それは……。


(ああ、無理だよね。私死んじゃったもんね)


 ……俺のせいだ。


(そう。あの日、私に勝って浮かれてたから事故が起きた。純くんが私を殺したんだよ)


 ……俺が里美を殺した。


(純くんはそのピアノで次は誰を殺すの?)


 ……嫌だ、もう誰も死なせたくない。もしそうなるなら今度は俺が……。


(じゃあ死になよ! 私の命を返してよ! この人殺しっ!)


 彼女は俺を刺すような目で見て消える。それと同時に俺がいた世界も一瞬にして消え……。

 

 俺の意識は戻った。

 だけどそのときにはもう指は止まっていて……。


「純、泣いてる……?」


 二粒の水滴が俺の両頬を滴り落ちていた。


 またこれだ。

 俺がピアノを弾くと『あの子』の呪いにかかってしまう。

 やっぱり俺には無理だったんだ。


「……もう、いいだろ」


 俺は立ち上がって、よろめきながらも部屋を出る。


「待ってくれ!」


「健一くん、今日は帰らせてあげよ?」


「でも…………わかったよ……」


 俺は見えないから弾かないわけじゃない。『あの子』を思い出したくないから弾かないんだ。


 一緒にコンクールに出て、一緒にピアノを弾いて、一緒に笑い合って……。

 あの日々すべてが俺を苦しませる。


──だからピアノは嫌い──




◇◇◇◇◇




 ……俺だって事故がなければ今頃、普通に友達を作って普通に恋愛をして普通にピアノを弾けていたのに。


 ……俺は何でこんな呪われた人生を送っているんだろう。


「何1人で帰ってるんだよ」


「俺はもうピアノなんて弾かない。前にそう言っただろうが。この裏切り者」


「でもピアノを弾いているときの純は楽しそうだった」


「俺が? 楽しい……?」


 嘘だ。絶対に嘘だ。健一には『あの子』の声が聞こえないからそんなことが言えるんだ。


「ざけんな。 俺の傷をえぐって、楽しんでるのはお前の方だろ! ……もうお前とは帰らねえからなっ!」


 俺は逃げるように走った。どうせチャリで追いつかれることがわかっていても。


 俺をピアノに近づけようとする人間と一緒には帰りたくなかったんだ。


「純止まってっ‼︎」


 後ろから健一の叫ぶ声。しかし振り向く暇もなく俺は……。


「いってっー‼︎」


 正面から意識の薄れるような衝撃。

 その衝撃は頭蓋骨骨折を疑うほどで、あまりの痛さに俺はその場にうずくまる。

 この固さは電柱……か?


「だから言わんこっちゃないよ」


 健一は軽くため息をつくと、チャリを止めて俺の手を引っ張り上げる。


「これで1人じゃ帰れないってわかっただろう?」


「うるせえな。ほっとけよ、俺みたいな奴」


「まあまあ、そう卑下するなよ。僕だって純を苛めたくてこんなことをしているわけじゃないんだから」


「じゃあ何だっていうんだよ」


「それは……」


 そうやってすぐ隠したがる。

 ……こいつの本当の目的は何なんだ。本当に俺にピアノを弾かせることなのか?


「とにかく、僕たちは毎日登下校を共にする仲間なんだからさ、たまには僕のお願いを聞いてくれよ」


「言うことを聞くために仲間になった覚えは……」


 と言いかけたところで、そういえば健一からお願い事をされたのはこれが初めてなんじゃないかって気付く。


「何を言われても俺は弾かないからな」


「冷たい奴だなあ」


 それからは会話を遮るように、ひぐらしが寄せては打ち返す波のように鳴いていた。


 きっとチャリは木のそばを通っているんだろう。言葉を発しても互いに聞き取れないくらいには鳴き声が充満していた。


 健一は何がしたいんだか。ほんとに。

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