第20話 逃亡

 翌日の朝、レンはぼんやりとしたまま起き上がった。昨晩はリョクの事ばかりを考えて、ほとんど眠れなかった。今日、出勤してリョクに会ったら、一体どんな顔をすれば良いのだろうと思った。リョクはいつも通りに接してくれるのだろうか、それとも、避けられてしまうのだろうか。

 身支度を整え、レンは緊張しながら都省へ向かった。すると、宮廷の様子がいつもと違う事に気付いた。あちこちに兵士がいて、ものものしい雰囲気だ。

 何事だろうと思いつつ、渡り廊下を歩いていると、都省の先輩官吏が遠くから、

「ソウ君」と言って駆け寄って来た。

「おはようございます」

 レンは先輩官吏に一礼した。

「大変な事になった。もう知っているか?」

 先輩官吏はかなり動揺している様子だった。

「何かあったのですか?」

 レンが尋ねると、先輩官吏が、

「皇后陛下がお姿を消したらしい」と言った。

「え⁈ 皇后陛下が?」

「ああ」

 先輩官吏がレンに近づき、レンの耳元で声を潜めて言った。

「これは噂だが、皇后陛下に何かしらの嫌疑が掛けられていたらしい。だから、皇后陛下は取り調べが始まる前に逃げたのではないかという話だ。逃亡にはジョ家が力を貸しているらしくて、ジョ・ハク様もジョ・リョク君も姿を消している」

「え? リョク……が?」

 レンは全身から血の気が引く思いだった。

「ソウ君も、ジョ君から何も聞いてなかったのか?」

「…………」

 レンはとっさに走り出した。

 レンは、そのまま走って宮廷を出ると、ジョ家の屋敷に向かった。屋敷の周りには既に兵士が大勢いて、とても近づける状態ではない。街の人々が、何事かと、みな遠巻きに様子を伺っていた。レンはその光景に頭が真っ白になった。

《本当なんだ……》

 レンは再び走り出し、今度は宮廷に戻った。そして、都省中を駆け回り、ありとあらゆる部屋を確認したが、リョクの姿はなかった。

 レンは、都省長の元へ行き、皇帝に会えるよう取り計らってもらえないかと懇願した。しかし、レンのような下級官吏がそんな事を願っても通るはずがなく、全く取り合ってもらえなかった。

 レンは茫然と宮廷内を歩いた。

《どうしたらいい……。どうしたら……》

 レンは、休みなく走り回り続けたせいで体中が汗だくだった。めまいがして足がふらつく。レンは、渡り廊下の柱に寄りかかかると、そのままその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

 レンの脳裏に、昨晩のリョクの姿が蘇ってきた。リョクはこうなる事が分かっていたから、レンの元にやってきたのだ。レンに二度と会えなくなるから、レンにこれまで秘めてきた想いを明かしたのだ。

 レンの頬を涙が伝った。

《リョク……。一体どんな思いで……。本当にもう二度と会えないのか?》

 レンは目の前が真っ暗になるのを感じた。そして、昨晩の寝不足と極度の疲れのせいで、そのままその場で意識を失ってしまった。

 レンが目を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。左右に視線を向けると、そこは豪奢な造りの部屋の中だった。自分は寝台に横になっている。香が焚きしめられていて、良い匂いがした。

「気付かれましたか」

 男性の声がして、その人が寝台に近付いて来ると、レンの方に花の模様の付いた陶器製の茶器を差し出した。

「起き上がれますか? こちらをお飲みください」

 レンは起き上がり、男性から茶器を受け取って中の飲み物を飲んだ。それは少し塩気のあるお湯のようだった。

「ここはどこですか?」

 レンが尋ねると、男性が、

「側室様用の寝室です」と答えた。

「私はどうしてここへ?」

「廊下で倒れられているところを偶然皇帝陛下が見つけられて、それでここへお連れしたのです」

「陛下が……?」

 レンが驚いていると、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。そして、部屋のドアが勢いよく開き、ケイが入って来た。

「レンの様子はどうだ?」

 ケイが尋ねると、それまでレンと話していた男性はケイに頭を下げ、部屋を出て行った。

 ケイは、寝台に駆け寄り、レンの手をつかんだ。

「良かった。気が付いたんだな。大丈夫か? 具合は? 気分はどうだ?」

「大丈夫だ。俺は、倒れてたのか?」

「ああ。廊下でぐったりしていて、呼びかけても全然反応しなかった。本当にびっくりした……」

「ごめん……」

 ケイが本当に安心した様子で脱力した。

「レンが死ぬんじゃないかと心配したのはこれで二度目だ。もう勘弁してくれ」

「本当にごめん。そんな事より」

 レンはケイに身を乗り出して尋ねた。

「今宮廷内で何が起きてるんだ? 皇后陛下がいなくなったのは本当か?」

 ケイが真顔になった。

「ああ。本当だ」

「皇后陛下に嫌疑が掛けられていたという噂があるらしいけど……。それも本当か?」

「ああ」

 レンは息を呑んだ。

「それは、どんな嫌疑だ?」

 ケイがじっとレンを見つめた。

「皇后は、過去に側室を殺害した可能性がある」

 それを聞いて、レンは本当にバレてしまったのだと思った。黙っているレンにケイが、

「驚かないのか?」と尋ねてきた。

「皇后陛下がそんな事をなさるだろうか……」

 レンの言葉に、ケイが我慢できないといった様子で、

「レン。もういい」と、声を少し荒げた。そして、

「もう全部分かっているから」と言った。

 もう取り繕う事はできないのだと、レンは思った。

 ケイが続けた。

「私も、皇后がそんな事をするとは信じられなかった。だけど、過去の事を調べ直すと、皇后が関与していたと思われる痕跡がいくつか見つかった。それに、それなら全部説明がつく。嫉妬のために側室を三人も殺すような皇后だ。もし、私の想い人がレンだと知れたら、レンも無事では済まなかっただろう。だから、ジョ・リョクはレンを守るためにレンの恋人を演じていたのだろう? そして、レンは、ジョ・リョクを守るために、ジョ・リョクの恋人を演じていたのだろう?」

「…………」

 レンは黙って目を伏せた。もうすべて、ケイの知るところとなってしまったのだ。

 こうなってしまった今、リョクを救うためにはどうしたら良いのか、レンは考えを巡らせた。

 ケイは寝台に顔を伏せた。

「頼む。もうこんな事はやめてくれ。もう全部分かったから、本当の事を言ってくれ」

「ケイ……」

 顔を上げたケイに、今度はレンが頭を下げた。

「どうか、リョクを助けてくれないか」

 ケイが驚いた様子で目を見開いた。

 レンは頭を下げたまま、

「頼む。リョクを助けてくれ」と懇願した。

「全部、私が言ったとおりだと認めるか?」

 レンは顔を上げた。

「……認める。だけど、リョクは何も悪くない。リョクはいつだって俺を助けてくれた。だから、絶対にリョクを助けたい」

 ケイがレンの両腕をつかんだ。

「レンが好きなのは、私とジョ・リョク、どっちなんだ?」

 レンは目を伏せ、小さな声で、

「ケイだ」と答えた。

「レン!」

 ケイが寝台に上がり、レンに飛びつくような勢いで抱きついてきた。

「ちょっと、ケイ。痛い」

「ごめん。だってうれしくて」

 レンはケイを引き離しながら、真剣な表情で、

「だから、俺の大事な親友を助けてくれないか?」と言った。

「レンの頼みならきいてあげたいけど、ジョ・リョクとジョ・ハクは皇后の逃亡に手を貸しているから、無罪放免は難しい」

「今、リョクたちがどこにいるのか、分かっているのか?」

 ケイが怪訝そうな表情を浮かべた。

「それを知ってどうするつもりだ」

「行って、リョクと話したい」

 それを聞いたケイが首を振った。

「絶対にダメだ!」

「頼む。投降するように、なんとか説得するから」

「家のために妹の罪を隠して、そのためにレンに偽の恋人を演じさせてたぐらいだ。簡単に家を捨てるわけがない」

 ケイの棘のある言い方に、レンはむっとしてケイを睨んだ。

「そんな言い方するなよ。リョクは俺に恋人のフリをする事を強要していたわけじゃない」

「結果的に、同じことじゃないか」

「違う!」

「とにかく、絶対にだめだ! せっかく取り戻したのに、もう二度と手放したくない」

 ケイがレンを強く抱きしめた。

 レンは、

「それなら、必ずリョクを助けると約束してくれるか? そしたら、俺はここにいるから。だから、リョクを、絶対に助けて欲しい」とケイに訴えた。

「分かった。だから、レンは私の側を離れないでくれ」

「絶対だからな」

 レンはケイに念を押した。

 その日一日休むと、レンの体力はすっかり回復した。レンは身支度を整えて、帰る準備をした。部屋を出ようとしたところで、ケイと鉢合わせた。

「レン、どこへ行くんだ?」

「だいぶ良くなったから、もう戻るよ」

 レンが答えると、ケイがレンの腕をつかんで、レンを部屋の中へ押し戻し、扉を閉めた。そして、

「なんで戻るんだ? ここにいるって言ったじゃないか」と言った。

「ここにいるっていうのは、宮廷にいるっていう意味だよ。この部屋にっていう意味じゃない」

「レン。レンのために部屋を用意するから、宿舎を引き払ってそこで寝泊まりしてくれないか?」

「え?」

 レンは驚いて目を丸めた。

「私はもうレンを離したくない。側にいて欲しい。それに、いくらなんでも、皇帝が宿舎には渡れないだろ?」

 レンは、ケイがレンの元に渡って来るつもりなのだと知り、顔を赤らめた。

「下級官吏が部屋を与えられるなんて、おかしいだろ」

「事が落ち着いたら、レンは私の恋人だと知らしめるつもりだ」

「え?」

「レンには申し訳ないけど、今までのようには働けなくなると思う」

 レンは、自分は本格的に皇帝の愛人という立場になってしまうのだと思った。仕事はできれば続けたいし、周囲から色眼鏡で見られる屈辱も受け入れがたいものがある。しかし、愛した相手が皇帝なのだから仕方がない。

 レンがそんな風に思っていると、ケイがレンを抱きしめてきた。

「今日はここで寝よう」

 ケイにそう囁かれて、レンは、はっとしてケイを引き離した。

「待って」

「だめだ。待てない」

「ケイ」

 レンは強い視線でケイを見据えて言った。

「ケイの言うとおり、宿舎は引き払って、ケイの用意した部屋に移る」

「本当に?」

「ただし、リョクを助ける事ができたらだ」

「え?」

「約束どおり、リョクを助けてくれたら、ケイの言うとおりにするし、何でも言う事をきく。ケイの好きにしていい」

「好きにしていい……?」

 ケイが唾を飲み込んだ。

「だけど、それまでは俺はこれまでどおりにする。宿舎で生活するし、都省でもこれまでどおり働く」

「分かった……」

 ケイは頷いた。

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