第18話 心遣い
これまで、ケイを遠ざけようとしてきたはずなのに、いざ、ケイが離れて行ったと思うと、レンは心に大きな穴が開いたような気持ちになった。随分勝手なのだなと、我ながら思い、ため息をついた。
少しでも考える時間ができると、脳裏にケイの様々な姿が思い浮かんでくる。初めて家に来た時。花の木の下で口づけを交わした時。馬に乗って突然現れた時。宮廷の一室で共に過ごした時。そのすべてが愛おしく、そして、ケイに会いたくて仕方がなかった。
業務終了後、リョクと約束をしていたから、レンはリョクと共に都省を出た。
宮廷の門を出ると、リョクがレンの手を握ってきた。心が弱っている時、側に誰かがいてくれるのはありがたかった。一人でいたら、気分が沈み込んでしまっていただろう。
歩きながら、リョクが、
「十日にナンヤン市で古書市があるんだけど、一緒に行かない?」とレンを誘ってきた。
「古書市? そんなのがあるのか?」
「うん。全国から色んな書物が集まって来るらしいんだ。きっと、見た事のない書物をたくさん見られると思うよ」
「楽しそうだな」
「行く?」
「ああ。行くよ」
「じゃあ、十日は午後休みを採って、一緒に行こう」
「ああ」
レンは頷いた。
それから数日後、二人はリョクが用意した輿に乗り、ナンヤン市へと向かった。
ナンヤン市は都の南側に隣接する市で、都から近い事もあり商業が盛んな街だった。
輿から下りると、その活気にレンは目を見張った。
街には、青果を売る店や布地を売る店、装飾品や履物を売る店など、様々な商店が軒を連ねている。
「すごい……」
レンは楽しくて、夢中で店を覗いて歩いた。
「リョク、あそこは筆が置いてある。見に行こう」
レンがリョクの袖をつかんで引くと、リョクが笑顔で、
「うん」と答えた。
そこは、筆の他にも紙や硯などの文具を置いている店だった。
レンは小さな筆を手に取った。
「これは、細かな文字が書き易そうでいいな」
それから筆を置いて、今度は隣の文鎮に目をやった。
「こんなにたくさん……」
文鎮は、細かな彫刻が施されているものや、動物の形をしている物など様々だった。レンはそれを一つ一つ手に取っては眺めた。鳥の形をした文鎮を見て、
「これかわいい」と、思わず笑みを浮かべた。
その店を出ると、隣にはつづらを置く店があった。レンはそこでも、大小様々なつづらを手に取りながら、
「これは書類の整理にちょうど良いな」などとつぶやいた。
一歩進むごとに新しい物が発見できるから、レンは店ごとに立ち止まり、眺めて歩いた。
だから、古書市の会場に辿り着いた頃には、夕方になってしまっていた。
古書市は古書市で、想像していたとおり、見た事の無い書物や、以前師匠の元で読んだ事のある懐かしい書物があって、楽しくて仕方がなかった。しかし、その前の道中で時間を使い過ぎたせいか、段々日が落ちてきて、市は次第に店じまいの雰囲気となった。
レンはリョクに、
「ごめん。俺が寄り道したから、古書市を見る時間が少なくなってしまって」と謝った。
リョクは全く気にしていない様子でほほ笑んだ。
「いいよ。街を歩くのは、それはそれで楽しかったから」
「でも、古書市が目的で来たのに……」
「いいんだ。レンが楽しそうだったし、私も楽しかったから」
レンは、
《リョクは優しい》と、改めて感謝した。そして、リョクに、
「今日の夕飯は俺が奢るよ」と申し出た。
「本当に? いいのか?」
「ああ」
「じゃあ、行こう」
二人は連れ立って、街の中心部へ戻っていった。
食事を摂った二人は、輿に乗り込み、都への帰路に就いた。
輿の中で、レンはリョクに、
「今日は楽しかった。ありがとう」と改めて礼を言った。
「私も楽しかったよ。レンは本当に楽しそうだったな」
「だって、あんなにたくさんのお店を見たのは初めてで……。田舎者だから、ごめん」
すると、リョクが笑った。
「いいじゃないか。新鮮な気持ちで物事を楽しめるのはいい事だよ。そういうレンを見て、私も同じように楽しい気分になれた」
リョクはそう言うと、着物の懐から何かを取り出した。そして、それをレンの方に差し出し、
「さっきの食事のお礼だ」と言った。
レンは差し出された物を受け取った。紙で包まれたそれは、小さいが重みがある。レンは、まさかと思って紙を開いた。中にあったのは、レンが眺めていた鳥の形の文鎮だった。
「これは……」
「かわいいって言ってただろう?」
「そうだけど。これ、高くなかった?」
「高くはないよ。小さいだろ」
小さいとは言え、かなり精巧にできているから、やはりそれなりの値段がするのではないかとレンは思った。
「くれるのか?」
「ああ」
「ありがとう」
レンは文鎮を手に乗せて眺めた。リョクの心遣いがうれしかった。
リョクはレンを優しい目で見つめ、
「良かった。喜んでもらえて」と言った。
レンは顔を上げて、リョクを見つめた。ひょっとしたらリョクは、レンが最近元気をなくしている事に気付いていて、レンを元気付けるために誘ってくれたのではないか、そんな風に思えてきた。
二人は都に着き、ジョ家の門の前で輿を下りた。
「本当に、宮廷まで送らなくて大丈夫か?」
リョクが心配そうにレンに言った。
「いいよ。ここで。もうすぐそこだろ?」
「気を付けて帰ってよ」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
レンはリョクに手を振って、宮廷の方へ歩き出した。
今日は、リョクのおかげで楽しく過ごす事ができた。ケイの事を思い出す事はほとんどなかったように思う。こうやって日々を送るうちに、胸の痛みが消え去る日が来るのだろうかと、レンは思った。
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