第10話 身に迫る危機

 都へ帰る輿の中、リョクは思い詰めたような表情でほとんど言葉を発しなかった。目の下にくまができているし、顔色も悪い。もしかすると、レンとケイの事がショックで、ほとんど眠れなかったのではないかと、レンは心配になった。

 行程の半ば頃まで来た時、リョクがレンに、

「話があるんだ」と話し掛けてきた。その声は、レンに聞こえるギリギリぐらいの声量だった。

「何?」

「これから話す事は、レンと私の命に関わる事だ。絶対に口外しないと約束してくれるか?」

 随分重たい言い方だった。良くない事のような気がしつつも、こう言われて聞かない訳にはいかなかった。

「分かった。絶対に口外しない」

 レンの答えを待って、リョクが口を開いた。

「実は、皇帝陛下は、婚儀を上げてから一度も皇后陛下の所に渡られていない」

「え?」

 皇后は、つまりリョクの妹のジョ・スイの事だ。スイが皇后になってから、二年近くが経つはずで、その間、一度も皇帝であるケイが渡っていないのであれば、それはゆゆしき事だ。レンは、この時点で嫌な予感がした。

「宮中でもその事実は密かに知れ渡っていて、プライドの高い皇后陛下にはとても耐えられない事だった。だから、皇后陛下は、直接皇帝陛下に訳をお尋ねになったそうだ。皇帝陛下は、『想っている人がいるから、その人以外と深い関係にはなれない』とお答えになったそうだ。それで、皇后陛下は、皇帝陛下の想い人が誰なのかを探し始めた」

 レンの全身から血の気が引いた。ケイが想っている人というのは、間違いなくレンの事だ。

 リョクが話を続けた。

「探しても、皇帝陛下の想い人を見つける事ができず、皇后陛下は疑心暗鬼になっていった。それで、当時三人いた側室を全員亡き者にした」

「え?」

 レンは背筋が寒くなった。

「表向きは、病気や事故という事になっているけど、全員、皇后陛下が手を下した。それでも、皇帝陛下が皇后陛下の元に渡られる事はなかったから、皇后陛下は今でも皇帝陛下の想い人を探している」

「…………」

 レンは、青ざめて言葉を失った。

「もし、レンが皇帝陛下の想い人だと知られてしまったら、間違いなくレンは殺される。だから今、毎日のように皇帝陛下と会っているのはものすごく危険な事だ。もうすでに、レンが皇帝陛下と会っている事は把握されているかもしれない。でも、レンは男だから、疑われていないだけかもしれない。だけどもし、皇帝陛下と一夜を共にするような事があれば、皇后陛下に勘付かれる可能性がある。そうしたら、レンが危険だ」

「どうしたらいいんだ……」

「レン、辛いかもしれないけど、皇帝陛下を遠ざける事はできないか?」

「それは……」

 レンは考えた。レンがケイと離れたいと言ったら、どれほどケイは傷つくだろうか。そして、レンも、ケイと離れるのは辛い。それに、レンが理由を言わずにケイから離れようとしても、ケイが納得するはずがない。

 しかし、本当の事は決して口にする事はできない。皇后のした事が公になれば、ジョ家の破滅を招く事になる。リョクに辛い思いをさせる事は絶対にできなかった。

 それからしばらくの間、レンとリョクは沈黙した。輿の中に、重苦しい空気が流れる。リョクはじっと何かを考え込んでいる様子だった。

 しばらくして、リョクが口を開いた。

「レン……。私と恋人同士のフリをしないか?」

「え?」

 思いがけない言葉に、レンは驚いて目を見開き、リョクを見つめた。

「レンを守るにはそれしか方法がない。私の恋人なら、父も妹もレンには手を出せない。それに、私と恋仲だと言えば、皇帝陛下から離れる事もできるだろう?」

 レンは首を振った。

「そんな事、リョクにさせられるわけないだろ? 周りからどんな目で見られるか……。それに、男の俺と恋人になるなんて、ジョ・ハク様が許すわけないじゃないか」

「大丈夫だ。私は、これまでに父と妹がしてきた事をすべて知っている。だから、父と妹は私の言う事を聞かざるを得ない。それに、私は、周りからどんな目で見られようと構わない。レンの命には代えられない」

「リョク……」

 自分を想う親友の気持ちに、レンは胸を打たれた。レンを守るために、リョクは大変な苦労を買おうとしてくれている。

「どうだ? できそうか? 皇帝陛下への想いを断ち切って、私と恋人を演じられそうか?」

 レンには自信がなかった。やるからには中途半端にはできない。リョクには絶対に迷惑を掛けるわけにはいかない。しかし、ケイへの想いを本当に断ち切る事ができるのか。一度はそうしようとしていたはずだ。だけど結局、真っすぐに自分を慕ってくれるケイを退ける事はできなかった。そんな自分が、今度こそ本当にケイを遠ざける事ができるのか。

「少し、考えさせて欲しい」

 レンはそう答える事しかできなかった。

 リョクと別れ、宮廷の宿舎の自室に戻ったレンは、これからどうするべきなのか、その考えだけが頭を巡った。

 しばらくして、部屋の扉が叩かれた。

「ソウ・レンはいるか?」

 レンは力なく立ち上がり、扉を開けた。そこには、ケイの側近が立っていたから、レンは青ざめた。

「ソウ・レン。皇帝陛下がお呼びだ」

「はい……」

 レンは力なく答え、いつもの部屋へ向かった。

 部屋に入ると、ケイはいつものように長椅子に座って、レンを待ち構えていた。

「レン、来て」

 レンは言われたとおり、ケイに近付いたが、長椅子には座らずに立っていた。

 ケイが、

「早く座って」とレンを促したが、レンは立ったままでいた。

 その様子にケイが、

「疲れているのか? それとも、昨日の事を怒っているのか?」と尋ねてきた。

「ごめん。ちょっと疲れてる。早く帰って休みたい」

 すると、ケイの方が立ち上がり、レンに歩み寄って来て、レンを抱きしめた。

「ごめん。でも、どうしても顔を見たくて」

 レンは胸が痛んだ。少しそっけなくしただけでもこんなに傷ついた様子なのに、別れを告げたらどんなに悲しむだろうか。

 レンはケイを押し退けるようにして離れた。そして、目を逸らしたまま、

「しばらく来られないから。呼ばないで」と言った。

 すると、ケイが必死な様子でレンの腕をつかみ、レンの顔を覗き込んだ。

「本当にごめん。もうレンを束縛するような事はしないから。だから、許して」

 レンはケイの手をつかみ、腕から離した。

「明日から忙しいから、来られない。だから、呼ばないでくれ」

 レンはそう言うと、ケイに背を向け、部屋を出た。

 ケイが「レン!」と呼び掛けたが、振り返らずに扉を閉めた。

 レンは、今が機会なのかもしれないと思った。この流れなら、レンがケイに別れを告げても自然な気がする。しかし、胸の痛みはとても消えそうになかった。

 翌日、レンとリョクはいつもと変わらずに業務をこなした。

 業務終了後、舎殿を出ながら、レンはリョクに話し掛けた。

「リョク、昨日の事だけど」

「うん」

「リョクの言うとおりにしようと思う」

「本当に?」

「ああ。リョクには迷惑を掛けるけど……」

 リョクが首を振った。

「そんな事はない。迷惑だなんて思わないから」

「ありがとう……」

「それじゃあ、私は父に話して許しをもらう。それで、皇后陛下にも話しておく。準備ができたら、言うから」

「ああ」

「それで、なるべく目立つように公表しよう。それからは、絶対にバレるわけにはいかない。私はレンを恋人のように扱うし、レンも私を恋人のように扱って欲しい。どんな事があっても、お互いに合わせよう」

「分かった」

 レンは深く頷いた。

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