第6話 学友
レンが部屋の扉を叩くと、中から、
「入ってくれ」と返事があった。
扉を開けて中に入ると、昨日と同じく、テーブルの奥の長椅子にケイが座っていた。今日も、昨日ほどの豪華さではないが、テーブルの上に料理が乗せられている。
レンはまさか、と思った。ケイは今日もレンと一緒に食事をしようとしているのだろうか。
ケイがレンを手招き、
「早く座って」と言った。
レンは、今日は流されてはいけないと思った。
「なんで呼んだんだ?」
レンが尋ねると、ケイはにっこりとほほ笑んで、
「会いたかったから」と答えた。
「皇帝が、頻繁に新人官吏を呼び出すなんて、おかしいだろ? 昨日も言ったけど、俺は周りに変に思われたくないんだ。こんな風にされると困るんだよ」
「そうか。それもそうだな。じゃあ、毎日は呼ばないようにするよ」
何だか分かっているようで分かっていないような気がする、レンはそんな風に思った。
ケイがレンに、
「今日は具合大丈夫だった?」と尋ねてきた。
「ほとんど一日中頭がぼんやりしてたよ」
「そっか。初めてなのに結構飲んだからな。二日酔いがひどかっただろう」
「ああ。もう酒は飲みたくないよ」
ケイがレンを見つめた。
「昨日の記憶はある?」
レンは頬が熱くなった。
「途中までは。だけど、どうやって帰ったのかは思い出せない」
「どこまで記憶あるの?」
レンはどうしようかと思った。この際、すべて酒のせいにしてしまった方が良いのかもしれない。
「料理を食べてる途中ぐらい、かな……」
「そうか。それは残念だ」
ケイがそう言って立ち上がった。そして、レンに近付き、
「昨日のレンはすごくかわいかったのに」と言って、レンの頬に触れた。
レンは慌てて後ずさり、ケイの手を逃れた。
「何言ってるんだ?」
「覚えてないなら、昨日と同じことをしてみようか? そうしたら、思い出すかもしれないから」
ケイがレンの顔を覗き込んだので、レンはさらに後ずさってケイから離れた。
「しないよ!」
思わず反射的にそう言ってしまってから、レンはしまったと思って、ケイの顔を見た。案の定、ケイはしてやったりな笑みを浮かべていた。
「覚えてないのに、なんでそんなに嫌がるんだ?」
「それは、なんとなく良くない事のような気がするからだよ」
「そんな事はない。レンも喜んでたし、最後はレンからもしてくれたし」
「え?」
レンは固まった。レンにはそんな記憶は全くない。もしかすると、思い出せない時間の中で、ケイと色々な事をしてしまったのではないかと、レンは全身の血が凍り付くような気持ちになった。
すると、ケイがハハっと笑った。
「嘘だよ。レンが覚えている以上の事はしてないよ」
それを聞いて、レンはほっと胸を撫でおろした。
「びっくりした……」
「レンが嘘をつくから、やり返してやったんだ」
レンはため息をついた。
「分かったよ。認めるよ。ちゃんと覚えてるよ。だけど、あれは酒のせいだから。だから、もう二度と酒は飲まないし、あんな事は絶対にしない」
「もう飲まないの? それは残念だな。だけど、これから官吏になるのに、付き合いで酒も飲めないなんて、どうかと思うよ。少しは慣れておかないと」
「それは、そうかもしれないけど」
「じゃあ、お祝いの時だけ一緒に飲もう。レンの研修が終わって、赴任先が決まったら、その時にお祝いに一緒に飲もう」
「それは……」
「いいだろ? お祝いなんだから」
「分かったよ……」
レンは渋々、応諾した。
それからも毎日ではないものの、レンはケイに呼び出された。レンとしては、ケイと距離を保ちたかったのだが、皇帝に命令されれば行かざるを得ない。レンは、職権乱用だと腹立たしく思った。しかし、いざケイを目の前にすると、ついつい昔のように親し気に接してしまう。今も昔も、ケイのペースに乗せられてしまうのは変わらないと、レンは思った。
ある日の朝、レンはいつものように研修室に入った。レンが挨拶をしても、他の新人たちからは返事がない。レンは新人たちから明らかに敵意を持たれていた。
レンが席に着くと、少し離れたところにいる新人たちが、わざとレンに聞こえるぐらいの声量で言った。
「首席の格式が低いと、今年の新人官吏はレベルが低いと思われそうだよな」
「ジョ君だったら、こんな風にはならなかったのに」
レンは、ジョ・リョクの方に目をやった。席が離れているから、リョクには今の会話は聞こえていないだろう。
リョクは、いかにも良いところのお坊ちゃんという感じで、どこか気品があり、優雅な雰囲気を漂わせる少年だった。リョクの父はジョ・ハクという大臣で、ケイを即位させたクーデターの功労者であり、宮中では皇帝の次に権力があると目されている人物だ。リョクはハクの長男で、幼い頃から神童と呼ばれるほど優秀だったらしい。リョクはレンと同じ歳で、今年の官吏登用試験では間違いなく史上最年少で首席を取るだろうと、宮中の誰もが予想していた。ところが、首席を取ったのがレンだったから、ジョ氏を支持する者たちからすると面白くない事だったのだ。
首席を取った事は、レンにとっても予想外だったし、ジョ氏を邪魔するつもりは毛頭ないのに、とレンは思った。ジョ氏の派閥は大きいから、新人たちの中にもジョ氏を支持する者が多い。だから、レンはそういう者たちから敵対視され、他の新人たちも長い物には巻かれろという事なのか、レンとは距離を置いていた。だから、入宮から一か月が過ぎても、レンはほとんど誰とも話す事ができずにいた。
ある日、レンは宮中の書庫へ向かった。その日受けた講義で気になるところがあり、書物で確認をしたかったのだ。
目的の書がある棚へ向かうと、そこに先客がいた。
「あ……」
そこに居たのは、リョクだった。
リョクもレンに気付いて、少し驚いたような表情を浮かべた。
レンはリョクが手にしている書に目をやった。それは、まさにレンが探しに来た書物だった。
レンはリョクに近づいて、
「ジョ君も確認しに来たのか」と話し掛けた。
「うん。もしかして、ソウ君もか?」
「ああ。今日の引用は別なところにもあったような気がして。ただ、そのままではなくて少し応用されている気がしたから、原文をもう一度確認したかったんだ」
それを聞いたリョクが表情を明るくした。
「やっぱりそうか。私もそんな気がしたけど、講義中はいまいち自信がなくて。それで確認しに来たんだ」
「で? どうだった?」
「ここ、これだろ?」
リョクが書を開き、レンの方に指し示した。
「ああ。まさにこれだ。ああ、やっぱり。思った通りだ」
「ほら、ここのつながりから似てるけど、あっちの方がより端的になっていたな」
「意味を噛み砕いて、より分かり易くしたんだろう」
リョクがレンに笑いかけた。
「さすがだな、ソウ君。教典がすべて頭に入っているだけじゃなく、分析も的確だ」
「いや、ジョ君こそ。ジョ君と考えが同じで安心したよ」
「じゃあ、昨日の二限目だけど……」
レンとリョクはそのまま、これまでに受けた講義の中で気付いた事や疑問に思った事を議論し始めた。レンは、これまで誰とも話せていなかったから、頭の中で自己解決しようと思っていた事が次々とあふれ出て来た。リョクの考え方は自分と近い物があり、話が合う。二人は時間を忘れて、書庫で延々と立ち話をした。そのうちに、書庫を閉める時間となり、二人は管理人に追い出された。
リョクが笑顔で、
「ソウ君と話せてよかった。すごく楽しかった」と言った。
「俺こそ、ジョ君と話せてよかったよ」
「また、色々話させてくれ」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
リョクは、都に実家があるから、宮廷を出て家に帰る。レンはリョクを見送り、宿舎へと向かった。
《今まで全然話せなかったけど、ジョ君っていいやつなんだな》
レンはそう思って、うれしくなった。
それをきっかけに、レンとリョクは親しくなった。研修室でも、講義の合間に色々と話をするようになった。
リョクがレンに好意的な態度を示すようになったから、今までレンに陰口をきいていた新人たちが何も言わなくなった。そして、これまでそういう連中に遠慮してレンに話しかけてこなかった他の新人たちが、レンと普通に会話をしてくれるようになった。研修室の居心地はだいぶ良くなり、レンはリョクに感謝の念を抱いた。
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