第5話 登用初日

 翌日、レンは皇帝への挨拶を滞りなく終えた。ケイは高座にいて、距離があったから顔は良く見えなかったが、そこに皇帝として座っていたのは確かにケイだった。レンは、ケイは本当に皇帝なのだと、改めて実感した。

 皇帝へのお披露目を終え、新規登用官吏は早速研修に入る事となった。新人たちは、研修を受けるため移動を始めた。レンも行こうとしたが、カクに呼び止められた。

「ソウ君」

「はい」

「皇帝陛下がソウ君をお呼びだそうだ」

「陛下が?」

 レンは驚いた。皇帝が新人官吏を直接呼ぶなど、有り得るのだろうか。

「史上最年少で首席合格した君に、直接お褒めのお言葉を下されるそうだ」

「承知致しました。すぐに参ります」

 レンは、官吏に連れられ、建物の一室に通された。案内をした官吏はレンを残して去っていき、レンは一人部屋の中で待った。

 しばらくして、部屋の扉が開いた。入ってきたのは、先ほど高座にいた皇帝、ケイだった。

 ケイは扉を閉めると、足早にレンに近づいてきた。そして、レンの両手を両手で握った。

「レン、まさか首席合格だなんて。期待どおりだけどすごすぎて、本当にさすがだよ」

 ケイはまるで自分の事のように喜んでいる。

「ありがとうございます」

「本当にうれしい。レンがこうして近くにきてくれて」

「はい……」

 ケイがレンの顔を覗き込んだ。

「レン、二人きりの時は、敬語でなく、昔みたいに親しく話してくれないか」

 レンは驚いて、

「皇帝陛下に対して、そのような事ができるわけがありません」と答えた。

「私が良いと言っているんだ。頼むから」

「でも……」

「いいから」

 レンは迷ったが、ケイが引き下がりそうにないので、

「分かりました」と答えた。

 ケイが、「それが敬語じゃないか」と笑ったので、レンは、

「分かった」と言い直した。

 ケイがうれしそうにほほ笑んだ。

「これから研修だから、すぐに戻らなければならないだろう? 研修が終わったら、またこの部屋に来てくれないか? もう少しゆっくり話がしたい」

「……皇帝陛下が一介の新人官吏を特別扱いするのはまずいんじゃないか? 俺だって、他の人に変に思われたら困る」

「夜、こっそり来ればいいだろう? 頼むから」

 ケイがすがるような目でレンに懇願した。昔から、ケイのこういうお願いには弱いし、ましてや、今は皇帝の命令だから、レンには断る事ができなかった。

「分かった」

 レンは渋々、そう答えた。

 レンが研修室に戻ると、他の新人たちが一斉にレンに視線を向け、コソコソと何かを話し出した。空気の悪さを感じつつ、レンは自分の席に着いた。レンが席に着くのを待って、カクが講義を始めた。

 その日の講義が終わると、新人たちがそれぞれに散っていった。都に家がある者は、毎日家から宮中に通う。レンのように、地方出身の者は、宮中の宿舎で寝泊まりをする。

 レンは一旦宿舎に戻り、他の者たちがおのおの自由な時間を過ごし始めた頃を見計らって、宿舎を出た。

 外はすっかり暗くなっている。レンは、昼間ケイと会った建物に入って行った。部屋からは明かりが漏れている。もうケイはいるのだろうかと思いながら、扉を叩いた。

「ソウ・レンです」

 声を掛けると、中から、

「入って」と返事があった。その声はケイのものだった。

 レンは扉を開け、部屋の中に入った。そして、その光景に驚いて茫然とした。

 部屋の中には、昼間はなかったテーブルが置かれ、そのテーブルの上に所狭しと豪華な料理が並べられていた。そして、そのテーブルの奥に背もたれのある豪奢な長椅子が置かれ、そこにケイが座っていた。

「レン、早くこっちに」

 ケイがレンに手招きをした。レンは戸惑いつつも、ケイの方に近付いていった。

 レンがテーブルの前に立っていると、ケイが左手で長椅子を軽く叩きながら、

「ここに座って」と言った。

 レンは、言われたとおり、ケイの隣に座った。

 ケイが杯を手に取り、レンに差し出した。レンはそれを受け取りつつ、

「あの、これは?」と尋ねた。

「まずは祝杯を上げないと。レンが首席で合格したお祝いだよ」

 ケイはそう言って、レンの杯に酒を注いだ。

「これ、お酒?」

 レンが尋ねると、ケイが、

「そうだよ」と答えた。

 レンは杯をテーブルに置き、ケイの方に押し戻した。

「俺、酒なんて飲んだ事ないから」

「え? そうなのか?」

「あと、この料理は、まさか俺のために……じゃないよな?」

 レンはテーブルの上の料理を見つめながら言った。皇帝の食事なら、いつもこれぐらいが当たり前なのだろうが、レンのために用意させたのだとしたら、破格すぎる。

 レンの不安をよそに、ケイはご機嫌な様子で、

「もちろん、レンのために用意した。レンのお祝いだから」と答えた。

 レンはとんでもないと思った。

「こんなの、新人官吏が食べていい料理じゃない。俺は遠慮する」

 すると、ケイがハハと笑い、

「こんな量、私一人で食べられるわけないだろう? せっかく用意したんだから、食べてくれ」と言った。

「でも……」

「とにかく、乾杯しよう」

 ケイは、自分の杯にも酒を注ぎ、杯をレンの方に掲げた。レンは、渋々杯を手に取ると、ケイの方に掲げた。

 ケイは嬉々として、「レンの首席合格に乾杯」と言うと、レンの杯に杯を軽く合わせて、杯の中の酒を一気にあおった。

 レンは、ケイが普通に酒を飲む姿に衝撃を受けつつ、自らの杯に口を付け、少しだけ酒を口に含んだ。舌に強い刺激を感じ、慌てて飲み込むと、喉が一気に熱くなった。

 レンは思わず、「うわっ」と言って、杯を置いた。

 ケイがレンの顔を覗き込んだ。

「どう? 生まれて初めての酒は?」

「あんまり、好きじゃない」

 レンが答えると、ケイがおかしそうに笑った。

「かわいいな」

 レンは、なんだか馬鹿にされたような気がして、テーブルの上の杯をもう一度手に取ると、中の酒を一気に飲み干した。

 それを見たケイが、

「初めてなのにそんな飲み方したら、酔うよ?」と言った。

「平気だ」

 レンは杯をテーブルの上に置いた。ケイはレンの杯に酒を足し、それから、皿を手に取って、

「どれ食べたい?」と訊いてきた。

 皇帝に、料理を取ってもらうなど、それこそとんでもない事だ。レンは慌ててケイから皿を奪い取り、

「大丈夫。自分で取るから」と言った。

 そうして、結局レンは、料理をご馳走になるはめになってしまった。

 レンはふと、初めてケイが家に来た時、実家の料理を全く口にしなかった事を思い出した。

「こんなものを毎日食べてたなら、うちの飯が食べられないのは当然だよな」

「あの時は申し訳なかった。なんとか食べようとしたけど、どうしてもだめで。気分が悪かっただろう?」

「いや、気分は悪くなかったけど、心配だったよ」

「そうだな。レンはいつも私を心配してくれてたな」

 ケイが昔を思い出して、うれしそうな笑みを浮かべた。レンは恥ずかしくなって、ケイから目を逸らした。

 ケイがレンに、

「私が都へ帰ってから、レンはどうしてた?」と尋ねてきた。

「すぐに最初の師匠に弟子入りして、家を出たよ。その後、その師匠の紹介で次の師匠に弟子入りして、そこで勉強してた」

「そうか。レンは元々頭が良かったけど、そこで学んだから首席が取れたのだな」

「ケイが貸してくれた本を読んでた事がすごく役に立ったよ。あれで基礎は身に付いていたから。最初の師匠のところで学んだ事は、もう全部ケイから借りた本で学んでいた事だった」

「そうか。それはうれしいな。レンに本を貸して本当に良かった。だから、今こうしてまた会えたって事だな。私はあの後、すぐにトンサン市に使いをやって、レンを連れて来ようと思ったんだ。だけどレンはいなくて、居場所も分からなくて、本当に辛かった。やっと居場所が分かって、居ても立っても居られなくなって、自分で行ってしまったんだ。あの時は驚かせてすまなかった」

「あれは本当に驚いた。皇帝が一人で馬でやって来るなんて、あり得ないから」

「ハハ。それだけ、レンを愛してるんだよ」

 レンは顔を赤らめた。

「そういう事言うの、やめてくれないか」

 レンは箸をつかもうとしてつかみ損ね、箸を床に落としてしまった。

「あ」

 レンは箸を拾おうとしたが、ケイがレンの肩をつかんでそれを止めた。

「大丈夫。後で拾うから。新しいのを使えばいい」

 ケイが新しい箸をレンの前に置いた。

「ありがとう」

 レンは先ほどから顔が熱かった。頭も少しぼんやりするし、うまく言葉が出てこない気もする。

 少し落ち着きたくて黙っていると、しばらくの間部屋が沈黙に包まれた。どうしてケイも黙っているのだろうと、レンはケイの方を見た。するとケイは、レンの方をじっと見つめていた。こういうケイの表情は、昔からよく見た事があった。レンの事を愛おしそうに見つめる表情だ。そして、こういう表情で見つめられた後にする事は、いつも決まっていた。

《まずい》

 レンはケイから離れようとしたが、ケイはレンの腕をつかんでレンを引き寄せると、レンを抱きしめた。

「レン……」

 ケイがレンの耳元でレンの名を呼んだ。レンの脳裏に昔の記憶が一気に蘇ってくる。あの頃抱いていた淡い恋心も一緒になって思い出され、レンの心臓が激しく脈打ち始めた。

 ケイはレンを見つめると、顔を近づけ、レンの唇を塞いだ。その懐かしい感触に、レンは、時が昔に戻ったような気持ちになった。

 レンは先ほどよりもさらに頭がぼんやりとして、何も考える事ができなくなっていた。自分が自分でなくなったようだ。体もうまく動かせないし、何だかすべてがどうても良いような、そんな気分になってくる。

 レンがすっかり脱力していると、ケイがかすかに開いたレンの唇の隙間から舌を入れてきた。これは、子供の頃にしていた口づけとは違う。ケイの舌はレンの口の中で動き、レンの舌に絡んできた。レンは、ぼんやりとしながらも、我に帰り、両手でケイの体を押して引き離した。

 ケイが口づけを止めて、レンから顔を離した。

「俺、もう帰る」

 レンはそう言って立ち上がろうとしたが、よろけて倒れそうになった。

 ケイがレンの体を支えて、レンを再び座らせた。

「だいぶ酔ってるみたいだ。少し酔いを覚ましてから帰った方がいい」

 レンはそのままぐったりして、長椅子の背もたれに身を預けた。

 翌日の朝、レンは宿舎で目が覚めた。頭が重く、起き上がるのが辛い。昨晩、どうやって帰って来たのか、思い出そうとしてもぼんやりとしか思い出せなかった。しかし、ケイと口づけをした記憶は残っていた。レンは思い出して頭を抱えた。

《俺、何してんだ》

 レンはあの時ほとんど無抵抗だった。ケイがもっと強引に迫ってきていたら、レンはあのままケイに抱かれていたかもしれない。

《なんで俺、あんな風にしちゃったんだ?》

 レンは自己嫌悪でいっぱいになり、寝具に顔をうずめた。

 その日の講義には全く身が入らなかった。朝の内は酒も頭に残っていたし、昨日の記憶が次々と蘇って来て、その度に悶々とした。

 その日の講義が終わる頃になって、やっと頭がはっきりしてきた。レンはつくづく、酒は恐ろしいものだと思った。

 レンが研修室を出ると、そこに官吏が立っていた。昨日レンをケイの元に案内した官吏だ。

「ソウ・レン。陛下がお呼びだ。昨日の部屋に来るようにとのご命令だ」

 レンは青ざめた。一体どんな顔をしてケイに会えば良いのか。それでも、皇帝の命令だから従わない訳にはいかない。レンは、「はい」と答えて、ケイの待つ部屋へと向かった。

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