第2話 恋の始まり

 レンが家の前の掃除をしていると、近所に住む女の子が側を通りかかり、レンの前で立ち止まった。

「レン、ここ、破れてるよ」

 少女はレンの服の右腕の裏の辺りを指差した。

「え? あ、ほんとだ」

 レンは腕をひねって指差された場所を確認した。確かに、布が割けてしまっている。気付かぬうちにどこかに引っ掛けてしまったようだ。

「待ってて。縫ってあげるから」

 少女はそう言って、一旦その場を去ると、裁縫道具を手に再び戻って来た。

 二人は、レンの家の軒先に座った。そして、少女が器用にレンの服の破れたところを縫い合わせてくれた。

「はい、できたよ」

「ありがとう」

「どこかに引っ掛けたのかね」

「うん。多分。全然覚えてないけど」

「そういう時、あるよね。怪我しなくてよかったね」

 少女がレンの頭を軽く撫でた。

「うん」

「じゃあ、私帰るね」

「うん。ありがとう」

 レンは少女に手を振って見送った。そして、家の中に戻ろうと振り返ると、そこにケイが立っていたから、レンは驚いた。

「びっくりした。いたんだね」

 レンはそう話し掛けたが、ケイはムッとした表情でレンを見つめていた。

 レンはケイに、

「どうしたの?」と尋ねた。

「なんでもない」

 ケイはそう言って、寝室の方に行ってしまった。

 その日は一日中ケイの機嫌は悪いままだった。レンは心配したが、翌日になると、ケイの様子はいつも通りに戻っていたので、レンはほっとした。

 ケイがレンに、

「今日は、花を見に行こう」と誘ってきた。

「うん」

 レンは頷いた。

 レンとケイは家を出て、いつものように手をつないで歩き出した。

 すると、近所の子供たちが二人を見て、

「よお、夫婦! どこ行くんだ?」

「今日も熱いね」

と、はやし立ててきた。

 レンは子供たちを睨んで、

「やめろよ!」と言い、ケイの手を離そうとした。しかし、ケイはレンの手を力強く握って離そうとはしなかった。レンは驚いて、ケイの顔を見た。

「ケイ?」

 ケイはレンと手をつないだまま、子供たちを見据えた。

「私たちがうらやましいの?」

 子供たちの表情が固まった。自分たちが想像していた反応と違う反応が返って来たから、驚いているのだろう。

 そして、ケイは、

「私たち、愛し合ってるから、誰も私たちの邪魔しないで」と宣言した。

 これには、はやし立てていた子供たちも、その様子を周りで見ていた子供たちも、そしてレンも度肝を抜かれた。

「ちょっと、ケイ、何言ってるんだ?」

 レンは慌てたが、ケイは堂々とした様子で、静まり返った子供たちの前を、レンの手を引いて歩いて行った。

 ケイはどんどん歩いて行き、目的地の花の木の下までやってきた。

 レンは困惑していた。先ほどのケイの言葉は本気なのだろうか。それとも、あの場を鎮めるための方便なのだろうか。

 木から花びらが散って、二人に降って来る。ケイが手を伸ばし、レンの頭の上の花びらを取った。

 レンが、先ほどの事を訊こうと口を少し開いた瞬間、ケイがレンに顔を近づけた。そして、レンの唇にケイの唇が触れた。

 レンは頭が真っ白になった。まるで時間が止まってしまったかのようだ。今何が起きているのか、理解する事ができない。

 ケイがレンから離れると、とても愛おしそうな表情でレンを見つめた。それで、レンは確信した。ケイはレンに恋愛感情を抱いているのだ。レンの鼓動が急激に速まった。体中が心臓になってしまったかのように、全身の血管が脈打っている。

 ケイが頭上の木を見上げた。

「花、きれいだね」

「うん……」

 レンも木を見上げた。

「そこに座ろう?」

「うん」

 二人は木の根元に横並びで座った。

 レンは、ケイから愛の告白をされるのだろうかと思った。しかし、ケイはいつも通りで、ただレンの側にいて、他愛もない会話をするだけだった。しかし、言葉にしなくても充分にケイの気持ちは伝わって来る。

 レンは横目でケイの顔を見た。ケイがレンを見る目には、好きだと言う気持ちがあふれている。そしてそれが、恋愛感情だという事が分かった今、レンはケイの事を異性として意識せざるを得なかった。

《俺もケイが好き。すごく好き》

 レンはこの日、生まれて初めて恋に落ちた。

 その日を機に、レンとケイが恋人同士だという噂が街中に広まった。他の子どもたちも二人を冷やかす事はなくなった。レンとケイは堂々と手をつないで街中を歩いた。そして、たまに二人で出掛けては、人目を忍んで口づけを交わすようになった。レンは毎日が楽しくて、幸せな気分だった。

 しかし、ある夜、レンは父親に、話があると呼び出された。他の家族が寝静まった頃、レンは居間で父と向かい合わせに座った。

 父の表情が険しかったから、レンは緊張した。

「レン、最近街では、レンとケイは恋人同士だと噂されているらしいな」

 レンはドキリとした。

「はい」

「それは、本当なのか?」

 嫌な予感がした。父の表情は、レンとケイの交際を快く思っているようには見えなかったからだ。

「はい。本当です」

 それでもレンは正直に答えた。

「そうか……」

 父はため息をついた。部屋の空気はとても重苦しい。

 レンは黙って、父の次の言葉を待った。

「おまえたちはまだ子供だ。今の関係がずっと続く事はない」

 レンは、それは違うと思った。レンにとって、ケイの代わりはいない。レンは将来、ケイを妻に迎えて、一生一緒にいたいと考えていた。

「俺は、本当にケイの事が好きです。この気持ちは大人になっても変わりません」

 父はもう一度ため息をついた。

「レン。ケイはいつか、元いた場所に帰る事になる。そうなったら、もう二度とケイに会う事はできない。おまえたちは、いつか必ず別れる運命なんだ」

 父の言葉がレンの心に突き刺さった。

「父さん、ケイはどこの家の子なんですか? どうしてうちで引き取る事になったんですか?」

 ずっと気になっていた事だった。ケイがどこからやってきたのか、どういう理由で、うちで引き取る事になったのか、レンは知らない。父の言葉から察するに、きっと深い事情があるに違いなかった。

「それは、今は言えない。しかし、ケイがこの家を出て行くのは確実だ。おまえとケイは絶対に別れる事になる。だから、今が楽しいのはいい。しかし、いつか別れるのだと、そう覚悟をしておいて欲しい。でないと、おまえが傷つく事になる」

 レンは俯いて拳を握った。ケイといつか離れ離れになるなど、想像ができない。

「もし、ケイと離れ離れになったとしても、俺はきっと、ケイに会いに行きます」

「そうか……。今はそう思っても、後できっと分かるだろう。とにかく、覚悟をしておいて欲しい。もう何も言う事はない。もう遅いから寝なさい」

 その日の夜、レンはなかなか寝付く事ができなかった。ケイは何か事情があって、この家にいる事は間違いない。あの父の様子だと、ケイがいつかこの家を出るのは本当なのだろう。それでもなぜ、ケイがこの家を出たら一生会えなくなるような言い方をするのだろうか。レンの心は不安に苛まれた。

 翌日、レンは元気が出ず、ため息ばかりをついた。すると、ケイがレンの肩を叩き、

「レン、出かけよう」と声を掛けてきた。

「うん」

 レンは頷いて、ケイと共に家を出た。

 二人がやってきたのは、初めて口づけを交わしたあの木の下だった。今は、すっかり花が散り、新緑に覆われている。

 二人は木の根元に並んで座った。ケイがレンの手に手を重ねてきた。

「レン、私はずっとレンと一緒にいたい」

「俺も、ケイとずっと一緒にいたいよ」

「もし、私がここを離れなければならなくなっても、絶対にレンを迎えに来るから、信じて待っていて欲しい」

 レンはケイを見つめた。

「本当に?」

「うん。絶対」

 レンは、どうしてケイは急にこんな事を言い出したのだろうと思った。もしかしたら、昨日の父との会話を聞かれていたのかもしれない。

 ケイがレンに顔を近づけ、レンに口づけをした。レンは、このまま時が止まって、ずっとケイとこうしていられたら良いのにと思った。

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