第107話 ティグルの選択(2)

 革命軍の男の剣が振り下ろされる、その寸前――俺は爪を振り上げた。


 地面を抉り、男と兵士の間を一直線に切り裂く。振り下ろされようとしていた剣の刃は両断され、鼻先を通り過ぎた死の気配に、今度は革命軍の男の方がよろめいて尻餅を搗いた。


 再び辺りを静寂が包んだ。革命軍を手助けしたと思われたのだろう俺が、今度は革命軍の仲間を攻撃したのだ。混乱もするだろう。


「俺は、この国の人間じゃあない」


 全員が足を止め、俺から距離を取り遠巻きに見つめる中、口を開く。


「けど、あなた達の状況は聞いているし、苦しんでいる人の姿を見たりもした。革命が必要だっていうのも、理解はできる」


 両腕を垂らして前を向いたままに話す俺の言葉に、幾人かが安堵したかのような息を漏らす。


「それでも、革命のために誰かが犠牲になるのは、死ぬっていうのは、ダメだ。納得できねえ」


 続く俺の言葉に、また誰かが息を呑んだ。場の空気は張り詰めたのが分かる。


「あんた達、言ってたよな。この国のために、未来の子ども達のためにって。けど、そのために、未来の百人のために、今の一人が犠牲になるのは仕方がないって思ってねぇか? 相手は敵だから、殺すのも致し方ないって思ってねぇか?」


 俺が革命に納得できなかった理由は、結局、これだったんだ。


 正義のため、大義のためなら、何かを犠牲にしても構わない。口には出していなくても、彼らの目はそう語っていた。そう思っていなければ、暴力を解決の手段として選びはしないだろう。


 冗談じゃない。


 俺は、人間が好きだ。それまで見ず知らずの相手でも、話しができたら何だか胸が弾むし、一緒に飯を食うだけで楽しい。名前も知らなくても、笑っている姿を見れば、こっちも嬉しくなる。

 必要だからと、その誰かを殺すというのは、我慢ならない。


 それに、議会場で議論していた人々の瞳に宿っていた熱。その奥から滲む、ぎろりとした光。俺は、それによく似たものを知っている。


 かつての、化け物だった俺にとって全てだったもの。敵を攻撃し、引き裂かずには入れない、どうしようもない気持ち。

 結局、あれは俺だけのものではなく、強弱の差こそあれど、動物なら誰しも持っている本能なのだろう。人間にとって普段は奥底で凍っているそれが、大義という熱に蕩かされ、滲み出て、加えて嗜虐的とでも言うべき陶酔まで得て、人々の心を満たそうとしている。


 それに身を任せた時にどうなるのかも、俺は嫌というほど知っている。だから、無意識にそれを、革命の熱狂が導く先を感じ取った俺は、恐怖を覚えていたのだ。

 そんなことは、絶対にさせねぇ。


「帝国の兵士だの革命の志士だの言っても、同じ国の人間だろ。同じ国に暮らして、飯食って、糞して、おんなじ地面の上で寝ている人間じゃねえか。なのに、それなのに、立場が違うからって殺し合うなんて、俺は、納得できねぇんだよ!」


 俺は聞いた。パン泥棒の少年を捕まえた警官は、少しでもまともな飯を食いたい、そのために警官になったのだと。

 その何がいけない? 望んでいることは、革命軍の人達と同じじゃないか。


 事情や立場が違ったって、みんな同じはずだ。俺に母さんや父さんがいるように、誰にでも家族がいて、テッドみたいな友達がいるかもしれない。腹一杯美味い飯を食いたいし、大切な家族を飢えさせたくない、幸せになってほしい。そんな当たり前のことを望んでいる、同じ人間のはずだろう。


 それを、敵だからって殺し合う?


 そんなの、悲しいじゃねぇか。

 やるせないじゃねぇか。

 そんなの、俺は嫌だ。


 あんたらは、かつての俺みたいな化け物じゃないだろう? 人間だろう? 気持ちや考えを伝えられる言葉があるじゃないか。思いやりや優しさっていう、本能なんかに負けない凄いものを持っているじゃないか。


 それが、大義なんて熱で曇っているというのなら――


「だ、だが! 戦わなければ、この国は変えられない! 戦いになれば、犠牲者が出るのは避けられないんだ! 理想ばかり言っては」

「そのために、俺はここに来た」


 革命軍の誰かの反論を、俺は遮る。


「この革命が、苦しんでいる人を助けるのに必要なのはわかってる。戦って、暴力で勝ち取るしか手段がないことも。その手助けはしてやる。立ち塞がる壁は、こうやって俺がぶち破ってやるよ。けど、殺すのは許さねぇ。帝国の兵士も、革命軍の人間も、誰一人とて殺させない。不可抗力だろうと何だろうと、絶対に止める。俺の目と、耳と、鼻で、この帝都のどこであろうと見つけて食い止める。……もし、それが承服できねぇってんなら」


 帝国軍の人間にも届くよう声を響かせ、最後に、首だけで後ろを振り向く。

 溢れ出る“力”で炯々と輝く瞳で立ち尽くしている革命軍を見据え、肩越しに開いてみせた手に鉤爪を剥く。


「俺が相手になってやる。まとめて掛かってこい」


 ただの我儘だなんてのは承知だ。

 愚かだ幼稚だと罵りたければ、好きにしろ。

 これが『ティグルという人間』の選択だ。


 息を呑み、周囲を取り囲む人々が一歩、後退る。熱に浮かされていた瞳が、冷や水を掛けられたみたいに勢いを萎ませるのが見て取れた。

 それでも幾人かは、邪魔をする俺への怒りと反発心を覗かせて、武器を構えようとして、


「ハハハハハハハハ!」


 突然上がった笑い声に遮られて、動きを止めた。振り返り、驚きながらその笑い声の主に道を譲っていく。


「一人の犠牲者も許さないと? つまり無血革命、いや、この場合は無死革命か? それを成そうというのか、君は? ふふ、クハハハハ!」


 割れた人垣の中から肩を揺らしながら現れたのは、頭の天辺まで仮面で覆った人物、この革命の指導者ロベスピエールだった。


 革命の邪魔をする俺に文句を言いに来たのかと身構えるが、


「面白い! 実に面白い! 何より素晴らしい!」


 愉快そうに声を弾ませたロベスピエールは、腕を大きく開いて、手の平を真っ直ぐに俺へ向けた。言葉の通り、まるで俺を支持するかのように。


「無死革命、結構じゃあないか! それこそ我々が真に望んだもの、本当の革命だ! 君のような力を持った者が手を貸してくれるというなら、その捨て去ったはずの理想も実現できよう! 良かろう! 皆よ、全ての同志に厳命するのだ! ただの一人とて殺してはならないと! どれほど憎かろうとも、決して殺すなと! 

 ……さもなくば我々は、千の軍隊よりも恐ろしい怪物を敵に回すことになる、とも付け加えてな」


 ロベスピエールの命を受けて、数人が伝令に走っていく。そして、ロベスピエールは広げていた腕を垂らして、ゆっくりと俺に近づいてきた。


 こんにゃろう、どういうつもりだ?


 まさかこんなにもすんなりと俺の脅迫が受け入れられるとは思っていなかったので、真意を探ろうと目を細めてロベスピエールを見やる。


 仮面で表情の読めない男は、肩がぶつかりそうなぎりぎりの距離で、俺の横合いを通り過ぎる間際、ふと歩調を落とした。俺より少し背の高いその腰を曲げ、俺の耳元に口を寄せる。


「……感謝する」


 他の誰にも聞こえない、微かな声でそれだけ告げると、そのまますれ違っていった。

 俺は目を見張り、背後へ流れるその背を見つめた。


 どういうことだ?


 俺は困惑していた。

 奴の言葉に、ではない。あいつとすれ違った瞬間、俺の鼻を掠めた匂いに、だ。

 俺は、この匂いに覚えがあった。

 俺は、どんな人間の匂いだって嗅ぎ分けられる。少なくとも、ここ数日で会った人間の匂いなら、全て嗅ぎ分け、覚えてもいる。


 けど、この匂いは――。


 驚く俺の視線には気づいていないのか、ロベスピエールは破壊された外壁を超えて進み、護衛の革命軍兵士がそれに続く。さらに、俺の両脇を他の人々も駆けていき、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。


「んだあの野郎、ますます胡散臭ぇな」

「あれライルいたの?」

「てんめぇが連れてきたんだろうがッ!? 首根っこ掴んで! 無理矢理!」

「いや冗談だって」

「こ、この野郎、放り投げた謝罪もなく……! で!? この先どうすんだ!?」

「とりあえず、革命軍の先頭にくっ付いて行って、人死にが出そうな状況を片っ端からぶっ潰す」

「む、無茶苦茶だなこいつ……」

「それを聞いてくるってことは、ライルも無茶に付き合ってくれるってことだろ?」

「だから、無理矢理巻き込んだのはお前だろう。ま、致し方ねぇ……ムカつくが、お前の言う通り、答えが見えずにウジウジ悩み続けるよりはな。ひと暴れしてスッキリしたい気分だし」

「うわ、野蛮」

「お前にだけは言われたくねぇ」

「いや、俺は気晴らしに暴れたりしねぇよ? ただいつも、差し迫った状況を打開する他の手段がないから、已むに已まれず」

「相変わらずどっちもどっちだと思う」


 我ながら不毛だなと思うやり取りにツッコんだのは、いつの間にか追いついたのか、剣を片手にぶら下げたサナだった。


「サナ。そっちはどうだった?」


 感じた疑惑は一旦頭の片隅に追いやって尋ねる。サナは帝都全体の状況など情報収集をしてくれていたはずだ。


「革命軍は全戦力をここに集結させているみたい。合流のための移動にも例の地下水道を使っているから、帝国軍と鉢合わせての小競り合いさえ起きてないね。とりあえずはここに集中してて大丈夫そう」

「そりゃあ好都合」


 とはいえ、万が一はあり得る。“力”で増大させた五感を研ぎ澄まし、帝都のどこであろうと闘争の気配を察知できるよう意識を張り巡らせつつ、革命の最前線へと走る。


 そうだ、誰一人だって死なせるものか。それに、


 ちらりと遠方を見る。

 丘の上に佇む城。この国の支配者、革命で倒そうとしている張本人が住む城。


 俺はあんたとも、話しがしたいよ。アベル=カペー・クロディウス。


 底が知れないからこそ、もう一度会って話をしてみたい。そんなもう一つの心残りを抱きながら、俺は駆けていった。

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