第65話 “獣”だった人間
……あれ?
気づけば俺は、闇の中にいた。
他には何もない。ただ一人で闇の中に立っている。
たしか魔人と戦っていたはずだ。そして意識が遠のいていって……。
じゃあ、俺は今気を失っているのか? それで夢を見ている?
疑問に首を傾げ、視線を落とすと、手に鎖を握っていることに気がついた。
その鎖が伸びている先を目で追う。
すると、今まで誰もいないと思っていた闇の中に佇んでいるものがいた。
炯々と煌めく金色の両眼が俺を見つめている。俺を一飲みにできる大きな口には獰猛な牙が生え、地を踏み締める四本の足には鋭利な爪が備わっている。
闇の中には、獣がいた。
獣の全身は俺が握る鎖で雁字搦めにされ、身動きが取れないようになっている。
俺は、この獣を知っている。そんな気がした。
獣が咆える。その声の意味も、自然とわかった。
戦え、と。
爪を伸ばし、牙を剥き出しにして、自分を解き放てと、そう訴えている。
なぜか鎖を握る手が震え出す。
これもわかっているんだ。こいつを解き放てば、どうなるのかが。
戦えとこいつは言うが、こいつにとって戦うことに理由などない。ただ暴れるだけの、文字通りの獣だ。
俺は目を背けようとして、ぽたっ、と、何かが落ちてきた。
血だ。赤い血の滴が上から滴り落ちてきたのだ。
血が落ちてきた元を見上げる。
獣の全身に巻きついた鎖は、獣の肉に深く食い込み、奴が身動きする度にその身を傷つけていた。
獣が再び叫ぶ。戦え、と。
その咆哮が、ずんと、俺の胸に響く。そして、どうしてか頭に、サナの顔が浮かんだ。
この闇の中へ落ちる前に、俺が何をしていたのかを思い出す。
――俺は……俺はずっと、『人間』になりたいと思ってきた。
もう誰かを傷つけるだけの俺じゃあない、誰かを愛せる『人間』になりたいと。
だから、戦う力などいらないとも思っていた。俺が目指す『人間』に、爪も牙も必要ないと、そう思ってきた。
でも。
人にも、戦わなければならない時がある。戦わなければ守れないものがある。
爪と牙が必要な時がある。爪と牙があれば、守れるものがある。
だったら、再びあの笑顔の隣にいるためならば、俺は――
俺は、ゆっくりと瞼を開いた。
「ティ、ティグル君! 気がついたか!?」
シャクールが俺の顔を覗き込んでくる。その手には小さな瓶が握られており、口の中には味わったことのない液体の残渣があった。魔法薬の一種だろうか?
ありがとう。もう大丈夫だ。
俺は軽くシャクールの肩を押し退けて、立ち上がる。
どくっ、どくっ、と、心臓の鼓動に合わせて“衝動”が高鳴る。
……いや、もう誤魔化すのは辞めよう。
ずっと前から勘づいてはいたんだ。“衝動”なんて大層な名前で呼んでいたが、これはそんな特別なものじゃあない。
こいつは、俺の本能だ。
前世の俺の、転生しても魂にこべりついて残っていた、『化け物』としての本能だ。だから俺の命を守るために、俺の敵を倒すために、事ある毎に疼いていた。
こいつは、俺の一部でしかない。こいつも、俺だ。
それを認めた瞬間、俺の中から“力”が噴き出した。
幾本もの黄色の光の尾が屹立し、絡み合って一つの姿を形作っていく。
形作られたのは獣。“衝動”と呼んでいた本能と共に無意識の内に抑え込んでいた“力”が、獣の形となって、本来の輝きを解き放つ。
俺は今まで、俺はもう前世の自分ではないと、生まれ変わったのだと、前世の自分を切り離そうとしていた。
けど、土台それは無理な話だったんだ。
俺が化け物だった事実は変わらない。そして、化け物だったからこそ、今の俺がある。
化け物だったからこそ、愛を知らない俺だったからこそ、『人間』に憧れたんだ。
俺が母さんや父さんを、『人間』を好きになったのは、俺が獣だったからだ。
だから、今は爪を立てよう。今は牙を剥こう。守りたいものを守るために。俺は――
俺から立ち上がっている獣の姿が凝縮し、より輝きを増して、俺の、人間の肉体と重なる。
――俺は、『人間』で、元『化け物』の、ティグルだ!
「キキキリリリャアアアあアアぁアアアあアアアアアァあアアアアアア!」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
俺の姿に警戒心を剥き出しにした魔人が叫び、俺が本能のままに咆える。
二つの咆哮が響き合い、同時に飛び出す。
魔人の巨腕が振り下ろされる。大気ごと俺を押し潰さんと、轟と迫る。
俺が右の指を開く。“力”でできた鉤爪が膨れ上がる。より長く、太く、鋭く。
かくして、俺の手から伸びる爪が魔人の腕よりなお巨大な五本の刃と化す。
「オオオオオオオオオオオオオ!」
雄叫びを上げ、振り上げる。迫っていた魔人の腕を輪切りにし、吹き飛ばす。
「ギィいイいイイ、ジャアアぁアァアアア!?」
金切り声を上げて魔人が悶える。いい加減、その声耳障りなんだよ!
魔人が後退する。切り裂かれ押さえていた腕が蠢き、切断面から新たな腕が生えてくる。まるでトカゲの尻尾だな。
だったら、再生できなくなるまでバラバラにしてやる!
踏み出そうとする俺に魔人はさらに後退り、両腕を宙に掲げた。左右の手の間で魔力が渦巻く。先程食らった光線のようだが、さらに膨大な魔力が注ぎ込まれていく。
だけどな、俺もさっきまでの俺じゃあねぇんだよ。
本能がどうするべきか囁く。ああ、わかっているさ。
伸ばしたまま指を閉じて、手刀の形を作る。五本の鉤爪が一つに纏まる。
巨大に膨らんだ魔人の魔力が解き放たれる。視界全てを埋め尽くす光の柱が、一切を焼き払おうと迫る。
「ウッ、ラアアアアアアアアアアアアアア!」
俺は一本の刃となった爪を真っ直ぐに振り下ろした。
光の柱と刃が激突。刹那の拮抗の後、柱が真っ二つに切り裂かれた。二つに分かたれた光は、俺の両横を通り過ぎ、背後の壁を吹き飛ばし、研究施設を貫き通し、夜空の向こうへと消えていった。
「クイ、イいイィィイいイイイアあアア!」
口を引き裂いて叫び、魔人が両腕を振り回す。俺を近づけさせないようにしているみたいだ。
畳みかけろと叫ぶ本能に従い、俺は駆け出そうとして、
「う、うわああああ!?」
背後からの悲鳴を耳が捉えた。
魔人の攻撃に運よく晒されずにいたエルンストの部下の一人だ。しかし、今の攻撃の衝撃で転倒し、さらに破壊され落下してくる壁材がその頭上へと圧し掛からんとしていた。
ちッ、と俺は舌打ちし、本能の訴えを無視して駆ける方向を変更した。
俺は、もう己の本能を否定しない。けど、そいつに支配されるつもりもない。飼い慣らすんだ。
俺は元『化け物』であると同時に、『人間』なんだから。
跳躍し、落下してくる石の塊を蹴り砕く。
「邪魔だ、さっさと逃げろッ!」
俺の一喝に、男はびくっ! と体を跳ねさせて、走り出した。
しかし、見れば他にも魔人にやられて気絶している連中が大勢いる。建物の損害ももう限界で、いつ崩壊してもおかしくない。どうする!?
「ティグル君!」
魔人の動きに警戒しつつ頭を巡らそうとしていると、シャクールの声が届いた。
「彼らは我々が何とかする! 足手まといは気にせず、思いっきりやれ!」
シャクールとウスマーン、サフルが手分けをして気絶して転がっている連中を担ぎ出していく。ナイスだ、おっさん!
だったら、お言葉に甘えてっ。
俺が向き直ると、魔人が両の腕を左右から俺に振り下ろしてきていた。
こちらも両手の鉤爪を構える。そして、本能の中へと意識の根を伸ばす。先程奴の腕を切った時もやった。見極めるんだ。何を壊すべきかを。
あいつは、魂と魔力の集合体だ。憎しみと怒りと悲しみに囚われた、誰かの家族や友達だったのであろう魂たち。
今ならわかる。俺の“力”は魂さえも切り裂くことができる。切り裂いてしまう。
だから、見極めるんだ。魂ではなく、それらを繋ぎ、縫い留めている魔力だけを断つために。
人間としての俺が断つべきものを見据え、化け物の本能が見極め、研ぎ澄ます。
「カィヤアアアアアアアアアヤヤヤヤアヤヤ!」
魔人の拳が破壊の魔力を纏い、左右から大気を圧し、肌を舐める。
「ッ、ァァアアアアアアアアアアアアアアア!」
寸前、俺も両の爪を振り抜いた。
魔人の体を構成する魂を擦り抜け、魔力のみを断ち切る。
結果、魂同士を繋いでいた魔力を失った両腕は形を保てなくなり、切断されるという形で宙を舞った。
「ハ、グぎゃ、ハヒャアアアあアアアア!?」
魔人が絶叫し、失った両腕を振り立てのたうつ。
その隙をついて、俺は飛んだ。奴が腕を再生させるより早く。
目指す所は一つ。魔人の心臓部。
鉤爪を、指の周りだけ包む長さに抑える。そして跳躍の勢いのまま、魔人の胸へ突き刺す。
再び悲鳴を上げ、暴れる魔人。それに振り落とされないようしがみつきながら、さらに手を突き込む。
サナが捕らえられている膜状の球体へ手を伸ばす。
しかし、あと指先一つ分、届かない。
「っ、サナ!」
俺は必死に手を伸ばしながら、内部のサナに呼びかけた。
けれど、サナは眠ったように目を閉ざしたままだ。
「俺たち、約束したよな! このゴタゴタが片付いたら、俺の前世調べるの手伝ってくれるって! 俺、言ったよな! ここで置いていかれちまったら、俺泣いちまうぞって! お前は守れなくてごめんなんて言ったけど、俺許さねぇからな!? あんな一方的に約束を破るなんて!」
無茶苦茶を言っているのはわかっている。それでもいい。あいつがそれで離れていかないなら。
「俺は、俺は……もっとお前と一緒にいたいんだ! お前と一緒に美味いもん食って、くだらない話もして、もっと一緒に色んなもの見て! 俺はお前の隣にいたい! だから、だから!」
腕が千切れるのではと思うほどに、強く、深く腕を突き入れて。
「手ぇ伸ばせーーー! サナーーーーー!」
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