第34話 急襲

 突然、船が大きく揺れた。

 慣性で体が引っ張られるほどの勢いで食堂そのものが右へ振られ、あちらこちらで食器やら椅子やらのぶつかる音が響いた。短くない悲鳴もいくつか聞こえる。船体全体が軋み音を立てながら、なおも旋回を続けている。


「い、いきなりどうしたんだ、これっ? 進路を変えたとか?」


 俺も、せっかくの料理が落ちてしまわないよう皿を押さえながら、机に掴まる。こういった突然の揺れに備えてか、机は床に固定されていたのが助かった。


「普通、こんな急に舵を切ることはないと思う。それに……何か様子がおかしい」


 サナが、前半は俺の問いに対し、後半は自らの考えを確認するかのように呟いた。その視線の先は、俺を通り越した背後へ向けられている。


 その視線の先を追う。そこは厨房の、この船の船員たちが詰めている場所だった。

 船員の一人がしきりに伝声管とやり取りをしており、その背後で残りの者たちが抑えた声量で、しかし早口に言葉を交わしている。彼らの表情は固く、中には顔を青ざめさせている者までいる。


 ……確かに、尋常の事態ではなさそうだわな。


「少し様子を見てくる。ティグル君はここにいて」

「え? あっ、ちょっと!?」


 俺がどうしたものかと考えるよりも早く、サナが立ち上がった。椅子に掛けてあった外套を掴んだかと思うと、一寸のまごつきもなく歩き出す。


「大丈夫、すぐに戻ってくるから。船員の人から何か話があれば、代わりに聞いておいてくれるとありがたいな」


 廊下に繋がる扉へ手をかけた所でサナは振り返り、微笑みながらそう告げた。心配ないから安心して待っていろと言外に伝えてくる声音は、まるでずっと年上の大人から言い聞かせられているような、優し気ながら有無を言わさぬ雰囲気を纏っていた。

 俺が一瞬その雰囲気に呑まれて言い淀んでいる隙に、サナはさっさと廊下へ出て行ってしまった。


 聞いておいて、と言われても……。俺は食堂の奥へ視線を戻す。


 そこには他の乗客たちが押しかけ、一体何が起こっているのかだのドレスにスープがかかったじゃないどうしてくれるのだのと、まぁ大騒ぎだった。

 船員は船員で、それらの苦情を宥めるばかりで、まるで現状の説明をしようとしない。未だ伝声管で切れ間なく声を投げ合っている所を見るに、船員側でも事態を把握し切れていないのか、あるいは客への対応が決まっていないのか。どちらにせよ、現段階で船員から有意義な話を聞くのは無理そうだ。


 再び出入口側へ視線を向ける。開け放たれた扉から見える廊下には、何事かと様子を窺いに部屋から出てきた乗客が幾人もいた。依然続く揺れにその誰もが壁伝いにしか歩けていない中、サナだけが少しも足を取られることなく悠然と進んでいる。他の乗客の間をするするとすり抜け、もはや男たちの合間からその黒い髪がわずかに覗いて見えるだけだ。


 どうする? サナに言われた通りここで待つか? しかし、ここにいた所で状況がわかる見込みはない。とは言え、悪戯に動いて事態をややこしくしちまう可能性も……けど、悠長に構えていて手遅れになることも、いや、旅に慣れているサナが待っていろって言ったんだから、けど、でも!?


「……っだあああもおおおおう!」


 どうするのが良いのか考えようとして、考えが纏まらず、こんがらがり、結局俺は、考えることを投げ飛ばして走り出した。廊下に飛び出て、サナの後を追う。


 あれこれ下手に悩むのはやめだ、やめ! 俺みたいな頭の悪い人間が下手に頭を捻ったってろくな結果にならんし、何より性に合わん。

 それに、もし本当に非常事態なら、俺のヘンテコな“力”が役に立つかもしれない。サナの助けになれることもあるかもしれない。邪魔になったら、その時は謝ろう。それでいいだろう。なあ、コリン?


 すでにサナの姿は見えなくなってしまったが、俺にはこの鼻がある。サナの匂いはもう覚えた。

 彼女の匂いは決して強くはないが、春先の若草と土に似ていて、その中に、花弁が放つようなほのかな甘さが混じったものだ。清流に乗って流れる風の如き爽やかさと、鼻腔から胸の奥までじんわりと広がって気を鎮めてくれる温かさを併せ持った香りで、深く吸えばそれらに隠れていた甘みが……って、こんな時にナニ人の体臭をじっくりと評論しているんだよ俺は!? これじゃあまるっきり変態じゃあないか!

 いや、思った以上に好みの匂いだったもんでつい……。


「っと」


 誰に対してかもわからない言い訳を胸中でしつつサナの匂いを辿っていくと、外に出た。この船には、客に海の景色を楽しませるため、随所にバルコニーのような見晴らし台が設けられている。普段ならここで優雅に歓談などされているのだろうが、今は旋回している船の揺れに加え、時折飛んできた波飛沫が床板を濡らし、下手をすれば足を滑らせて海へ投げ出されかねない危険な場所となっていた。

 その縁に、サナは佇んでいた。


「っ、ティグル君? 待っていてって言ったのに」


 俺が近づくと、声をかけるより早くサナがこちらに気がついた。その表情は、怒っているというより、困ったという感じに眉根を寄せている。


「んなこと言われたって、あんな風にいきなり出て行かれたら、そりゃあ追いかけちゃうだろ。で、何かわかった?」


 指示を守らなかった後ろめたさから、若干早口で、自分でも理由になっていないと思う言い訳ではぐらかす。しかし、サナはそれ以上非難してくることなく、体を向き直した。


「あれ」


 サナが視線を海へ投げる。サナと並んで欄干の前に立ち、その視線を追うと、


「……なんだ、ありゃあ」


 船の斜め前方、おそらく舵を切る前までの進路上に、そいつはいた。

 海面から伸ばした、全身を鱗で覆われた姿。

 竜を彷彿とさせる巨大な魔物だ。

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