第31話 空腹に導かれて

「おーーすっげーーー」


 動き出した船上で、甲板の欄干から身を乗り出して、過ぎてゆく景色を目で追ってゆく。

 海面を割って沸き立った白波が、瞬く間に後方へ置き去りにされ、青に溶けていく。しかし白波が絶えることはなく、海にまっすぐな線を引き続けている。線の向こうに見える港は、もはや輪郭がぼやけるほど遠く離れている。

 本当に水の上を進んでいるのだと、不思議な興奮を覚える。


「しっかし、話には聞いてたけど、こんなでかい物が動くとはなぁ」


 視点を移し、改めて船を眺める。

 俺が乗ったこの船は、船底の貨物室の上に、客室が2層連なり、さらには食堂や娯楽室なども備わっていて、その大きさは、俺の村の建物が全て収まってしまうのではと思えるほどだ。

 船の後方に目を向ける。そこには、船を両側から挟むように、二輪の水車が付いていた。船体の半ばほどの高さにまで迫る両輪は、絶えず回転して水を掻き、帆と協力して推力を生み出している。なんでも、魔力を利用した魔動機関とやらで動いているらしい。


 村を出てからというもの、見たことのない物や知らなかったことに驚いてばかりだ。港町に建っていた教会の巨大さにも度肝を抜かれたし……俺の村って本当にド田舎なんだなぁ、と痛感してしまう。


 この魔動機関のおかげで船はかなりの速度で進んでおり、目的地であるカルム近くの港には明日の夕方に着く予定だ。それまでは船内の娯楽施設でお寛ぎください、とのことだった。まぁ、ほとんど有料だけど。


「とりあえずは飯でも食いに行くか」


 金に余裕があるわけではないし、そもそもダーツだのカードだのの用意があると言われても、遊び方もわからん。俺ら田舎者にとって、最大の娯楽は食うことと寝ることなのだ。時間も昼近くになる頃だ。まずは食堂で腹ごしらえと行こう。

 そう思い、甲板から降りて、船内を進んでいたはず、なの、だが、


「…………迷った」


 気づけば、廊下の途中で立ち尽くしていた。

 かれこれ10分以上、同じ場所をぐるぐると回っている気がする。


「いやいやいや、ちょっと待て。さっき、あそこの角を曲がってきただろ。あれがここで、食堂がここだから……あれ? でも、さっきの道がこれか?」


 廊下の壁に掛かっている船内の案内図を見つめるが、解決どころか、ますます頭が混乱してしまう。端から端まで知り尽くした村の生活では、地図など使う機会もなかったので、そもそもが地図を読むこと自体に慣れていないのだ。森や山の中じゃあ、匂いや地面の痕跡を探れば迷うこともなかったし。

 だが、人工物であるこの船の中は、俺にとっての道標が少なすぎる。おまけに、こう階段での上下移動が多いと、位置感覚がかき回されて、もう訳がわからん。こちとら二階建ての建物までしか入ったことがないってのに。


「やっぱりここは、食い物の臭いをなんとか辿っていくしかないか……」


 密閉空間で色んな臭いが混ざっている上に、潮風にまだ鼻が慣れていないのでやや心許ないが、こんな場所で地図とにらめっこしているよりはマシだろう。そう思い、鼻をひくつかせながら、再び歩き出す。


 しかし、船内の廊下は非常に狭い。大人二人がなんとか通れるだろうかという程度の幅しかない。臭いばかりに気を取られていては、人とぶつかってしまいかねない。ちょうど今も、向かい側から人が歩いてきている。

 道を譲るように、片側の壁に身を寄せる。相手も、同様に反対側へ避ける。相手は細身の女性で、これなら別段譲らなくてもぶつからなかったかな、と思いながらすれ違い、



 その瞬間――女性の顔がちらりと目の淵に映った瞬間。頭の中で何かがひび割れ、押し寄せてきたものが視界に重なり、塗り潰された。



 光の中で映し出される顔。雪のような肌、まるで宝石を糸にして伸ばしたかのように煌めく不思議な青白い髪、そして、同じく透き通った青でありながら、涙で揺らめく瞳。細い腕が伸ばされ、俺の頬を、柔らかく、ゆっくりと撫でる。やがて、その手が、俺の頬から離れていく。俺は、俺は、その手を……――。


「――あの……っ」

「っ!?」


 耳に届いた現実の音に、意識を引き戻される。


 その時にはもう、視界を包んでいた光景はきれいさっぱり消えていた。映るのは、殺風景な客船の廊下だ。


 今のは……記憶?


 そうだ。前世の、俺が死んだ時に見た、あの少女の記憶だ。しかも、今までは思い出そうとしてもどこか靄がかかったようだったのに、まるで今まさに目の当たりにしているみたいに、鮮明に蘇っていた。


 けど、どうして突然……?


「……あのー」

「へ?」


 再びかけられる声。そこで俺はようやく、目の前の女性に顔を向けた。


「その……とりあえず、手を離していただきたいんですが」

「手?」


 言われて、自分の腕が伸びている先を目で追う。俺の右手は、女性の手首を握り締めていた。そりゃあもう、がっちりと。


「どわあぁあ!? す、すみません!」


 自分で自分のしていることにようやく気づき、慌てて飛び退く。現実と記憶の区別がつかず、見ず知らずの人にとんでもないことを仕出かしてしまった。


「えっと……大丈夫、ですか? なんだか普通じゃない様子でしたけど、具合が悪いとか」


 飛び退いた勢いが余り壁に激突した俺に、女性が遠慮がち――というか、若干警戒した様子で尋ねてきた。

 そりゃあそうだ。すれ違い様にいきなり手首を掴まれたら、警戒するなという方が無理な話だ。むしろ、よく叫んだり取り乱したりせずに話しかけてくれたものだと思う。


「い、いえ、大丈夫です! ただ、ちょっとその……知り合いというか、探している人に似ていたもので、それで」


 むしろ俺の方が、なんとかこの場を切り抜けようと、しどろもどろになっていた。

 というか、咄嗟の誤魔化しとはいえ、これではまるで下手なナンパみたいじゃあないか。テッドじゃああるまいし。


 しかも、言った後に改めて女性を見て思うが、言うほどに記憶の少女と目の前の彼女は似ていなかった。

 記憶の中の少女は、今の俺と同じかわずかに下の年齢かと思われるが、眼前の女性は、少し年上に見える。背丈も、記憶の少女は小柄だったのに対し、女性はすらりとしていて俺とそう変わらないくらい高い。

 髪は当然あんな不思議な青ではなくて、黒い長髪。それも、吸い込まれるような深い漆黒だ。顔立ちは、どちらも目が醒めるほど整っているが、青髪の少女は可愛らしいという印象で、こちらの女性はどちらかというと、きれいとか美人という感じだ。

 言い訳しながら、本当に顔が似ている人に会って記憶が呼び覚まされたのかなと思ったりもしたが、それはなさそうだ。だったら、どうして……。


「そう、ですか。それじゃあ、私はもう行きますね。もし本当に体調が優れないのなら、医務室へ行った方がいいですよ?」


 俺が再び思考に埋没しそうになった時、女性は軽く会釈して、再び歩き出そうとした。

 俺の顔が弾かれる。胸の奥で、何かが叫んでいる。


 どうしてだろう。なぜか、このまま彼女と別れてはいけない気がする。ずっと探していた、記憶の少女の手がかりかもしれないからだろうか。それとも、別の……。


「あ、あの!」


 自分の気持ちも判然としないまま、俺は反射的に彼女を呼び止めていた。女性は、わずかに小首を傾げながら、振り向く。


「そ、その……そう、食堂! 食堂の場所、教えてくれないか!? 俺、道に迷っちゃって。だから、知ってたら、案内してくれるとありがたいなぁと、思ったり、していたり……」


 始めこそ勢い込んで喋っていたのに、口を開く度に、気恥ずかしさやら俺は何をやってんだという思いが込み上げてきて、声が萎んでいってしまった。


 てか、せめてもうちょっとマシな呼び止め方はなかったのかよ!? これじゃあ、本当にただのナンパじゃねぇか! テッド、ごめん! 俺、お前のこと「何バカなことやってんだか」とか思ってたけど、俺も同じ穴の貉だった!


 俺が顔を真っ赤にして頭を抱えたい衝動に耐えている間、彼女はというと、きょとんとした顔で、俺の目を見つめ返していた。なんとも居心地の悪い沈黙が流れる。

 これは、マズい。下手したら、本気で不審者扱いされてしまうかも。そう思い、弁明に口を開こうとした途端、


 ぐぅ~~~。


 なんとも間抜けな音が、俺の腹から鳴り響いた。


 再びの沈黙。


 なんでだよ!? なんでよりにもよって、このタイミングで腹が鳴るんだよ!? 確かにそろそろ空腹も限界ではあったけれども! ちょっとは空気読めよ俺の胃袋!

 今度こそ俺は顔を覆って蹲ってしまった。あぁ、穴があったら入りたい。


「……ぷっ」

「…………?」


 けれど、返ってきた反応は、拒絶でも、嘲笑とも違う、どこか柔らかい響きの笑いだった。


「ご、ごめんなさい。でも、可笑しくって。本当にお腹空いてたんだと思ったら……くくく、あははははっ」


 堪え切れないといった感じで、女性が声を上げて笑う。初めは大人びた印象の彼女だったが、今の姿は俺と年の近い、少女と表現するのが相応しく思えた。


「あ~……でも、あなたも悪いと思うよ? 道に迷ってたのなら、普通に声をかけてくれたら良かったのに」

「いや、それは、ちょっと事情があったというか……」


 どう説明したものか、再びしどろもどろになる。すると、未だ床に手を突き項垂れたままだった俺の目の前に、手が差し伸べられた。


「私の名前はサナ。あなたは?」

「……ティグル。俺は、ティグル」


 柔らかく、やはりどこか大人びた笑みを向けられ、俺は何度目かわからないむず痒い恥ずかしさを覚えながら、その手を取った。

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