第5話 岐路(3)
「だめぇ!」
――目の前に、お母さんが飛び込んできた。
自分を抱き締めるように、覆い被さってくる。
ちょうど、自分とゴブリンの間へ入るように。
ごん、と鈍い音がした。
お母さんの頭が、跳ね上がった。
首が伸び切って、いつもは曲がらないくらいに曲がっている。
ゴブリンに殴られたんだ。
それがわかった時、何かが弾けた。
一気に、頭の中で、人になってからのことが思い出される。
赤ちゃんの時、泣いていると走ってきてくれたお母さん、不安な時はいつもおんぶして一緒にいてくれたお母さん、お風呂に入って一緒に歌を歌った時のこと、お漏らしをして困らせた時のこと、眠れない夜にお話しをしてくれた時のこと、お皿を投げて遊んだら怒ったお母さん、転んだら起きるまで励ましてくれたお母さん。
色んな時の、色んなお母さんが、頭の中でぐちゃぐちゃになってぐるぐる回る。
その度に、頭がガンガン痛む。痛くて、熱くて、堪らない。
「があアあああぁアぁあアアアアぁぁぁぁあああッ!」
叫ぶ。
牙を剥き出しにして、ゴブリンに向かって叫ぶ。
叫ばないと頭がおかしくなりそうだった。
ゴブリンがビクリと体を跳ねさせ、弾かれるように後ろに下がった。何度も転びそうになりながら、逃げていく。
逃がすもんか。
感じたことのない「衝動」が暴れる。よく知っている“衝動”とは別の「衝動」が、あいつを追えと命令する。
絶対に逃がすもんか。
捕まえて、食い殺してやる。
何度も、何度も何度も殴って痛めつけて、泣かせて、殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる、殺してやる殺す殺す殺す殺す殺す!
何よりも強い「衝動」に突き動かされ、走り出そうとした。
しかし、
ぐっ、と肩を引かれた。
全然強くはない力だ。けど、その力で体は動けなくなった。
肩を引っ張ったのは、お母さんの手だった。
「だ、め……ティグル。行っちゃあ、だめ」
お母さんが、ゆっくり頭を上げる。
自分の体を支えにするみたいにして、こっちを絶対に離さないようにして、体を起こす。
「お、母さん……」
何よりも強いと思った「衝動」は、嘘みたいに消えていた。
代わりに、胸から喉を絞めつける痛みが、じくじくと走る。
「行っちゃあ、だめ、ティグル。危ないことはしたら、だめ」
「で、でも。あいつ逃げちゃうよ。あいつは、お母さんを……」
「いいの。後は、大人がなんとかしてくれるから。それより怪我はない、ティグル?」
お母さんが、まっすぐにこっちを見ながら、聞いてくる。
その片目はひどく腫れて、少し上の場所が青くなっている。そして、頭から血が垂れてきていた。
なんで?
なんでそんなことを聞いてくるのか?
怪我なんてしているわけないじゃあないか。怪我をしているのはお母さんの方じゃあないか。そもそも、なんで庇ったりしたのか。どう見ても庇う必要なんてなかったじゃあないか。あんな攻撃、自分だったら当たるはずもなかったのに。なのに、なんで……。
言いたいことや聞きたいことが山ほど湧いてくる。
なのに、その言葉は、喉の手前に詰まって出てこない。
だから、「う、うん」とだけ答える。
その答えを聞いた途端、
「そう……よかったぁ……」
そう言って、お母さんの体が崩れた。
一気に力が抜けたみたいに、倒れそうになる。
慌てて手を伸ばすと、お母さんも手を回して、自分を抱き締めてきた。
「だ、大丈夫、お母さん!?」
「え、ええ、大丈夫。安心したら、ちょっとね……」
お母さんが、痛そうに、辛そうに、でも柔らかい顔で、笑った。
その笑顔を見たら、胸の痛みがどんどん上の方へ昇ってきた。
どうしてだろう。我慢ができない。堪らなくて、変な息が漏れて、涙が溢れてくる。
「ご、ごめんなさい……ごめんなざいぃ~!」
気づけば、謝っていた。なんで謝っているのか、なんで涙が出てくるのか、自分でもよくわからない。
なのに、止められない。
自分から、強くお母さんを抱き締める。
温かくて柔らかい感触が伝わってくる。知っている、お母さんの感触だ。
鼻に、よく知っている匂いが吸い込まれる。お母さんの匂いだ。
それを感じ、嗅いでいると、もっと涙が流れてしまう。
「ごべんなざい、ご、ごめん、おがあざぁぁんっ!」
「いいよ、ティグルが無事だったんだもの。でも、もう心配かけないでね」
「うっ、ひっ、うん! もう、ぼう、じんばっ、いっぐ! がげないがらああ!」
「……もう。何言ってるかわかんないよお」
その後も、自分はしばらく泣き止むことができず、騒ぎを聞きつけた村人が駆けつけてくる頃になって、ようやく家に帰ることができた。
母さんの怪我は、数針縫うことになった他は、数日寝ていればすっかり良くなった。
逃げたゴブリンはベンさんたちが見つけて、退治したそうだ。
結局、この日のことは、鶏五羽の被害と、村人一人が軽い怪我をしただけという、そう珍しくはない事件として幕を閉じた。
そして、さらに月日が流れ――
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