第4話 岐路(2)

「ティグル?」


 様子のおかしい自分に、お母さんが困ったみたいな声を出した。

 けど、今お母さんのことは気にならない。今の自分は、懐かしいこの臭いのことで、頭が一杯だった。


 自分は、普通の子どもより目も耳も、鼻もずっといい。この臭いがどこから流れてきているのか、すぐにわかった。


 だから、走り出した。


「ティ、ティグル!? ちょっと待ちなさい! ティグルっ!」


 後ろからお母さんの声が聞こえるが、構わず走る。


 臭いを辿って着いたのは、村外れの家だ。たしかこの家の人たちは、夜までは畑に出ていて留守のはずだ。


 家の裏側に回る。そこは、村と林とを分けている塀のすぐ近くの場所だった。


 一本の大きな木のそばに、小さな鶏小屋が建っている。小屋の前は、草のあまり生えていない庭になっていた。


「ティ、ティグル。一体どうした、っ」


 あとを追いかけてきたお母さんが、そこにいるモノを見て息を詰まらせた。


 庭には、五羽くらいの鶏がいた。放し飼いにしていたんだと思う。

 でも、今はもう翼をもがれたり、腹を裂かれたり、喉から噛み千切られたりと、生きている鶏は一羽もいない。


 その鶏たちを掴んで、食べている奴らがいた。


 背は、自分とお母さんの間くらい。

 全身緑色で、頭の毛は少なくて縮れている。

 腹は丸く出ているのに、手と足は細い。

 鼻が膨れているみたいに長く、歯は鋭いけどガタガタだ。歯と歯の間に鶏の肉が挟まって、血が顎まで垂れているけど、食べるのを止めようとはしない。


「ゴ、ゴブリン……っ!?」


 お母さんが、震えた声で呟いた。


 そうか、これがゴブリン。初めて見た。


 ベンおじさんから聞いたことがある。

 ゴブリンは、モンスターの中で一番多くて、一番嫌な奴だって。

 子どもみたいな見た目だけど、絶対に近寄ってはいけない。

 奴らはずる賢く、弱い者いじめが好きで、いつも腹を空かせている。

 近づいたら最後、攫われるか、その場で食い殺されるかのどちらかだぞお! と、そう脅された。


 ゴブリンたちの後ろ、村を囲む塀が、少しだけ壊されているのが見える。

 たぶん、あそこから入ってきたんだろう。鶏小屋と庭の周りにも柵だったものがあるけど、これも力任せに壊されて、今はゴミみたいに地面に投げ捨てられている。


「ピギぃっ」


 お母さんの声でようやく気づいたのか、ゴブリンがこっちを見た。

 金色の、ぐりんと丸い目玉。三匹いるゴブリンの、六つの目が、一斉に向けられる。

 そして、こちらが人間の子どもと女――弱い人間だけだと知った瞬間、その目にぬるりとした光が流れた。


「ひっ!」


 お母さんが怖がった声を出す。

 ゴブリンはそれが嬉しいみたいで、笑いながら鶏から離れる。その手には、小さなナイフや太い木の棒が握られている。


 ゴブリンが、より近くにいる自分の方を見た。


 その目の光を見た、その時。自分の中で、何かが跳ねた。


 それは“衝動”。

 昔の自分を満たしていた、今ではずっと薄くなっていた“衝動”が、心臓の音と一緒にどんどん大きくなっていく。


「ティグル、早くこっちに来て! 急いで! お願い、ティグルッ!」


 お母さんが、聞いたことのないような声で叫ぶ。

 でも、聞こえているのに、頭に入ってこない。すごく遠くから聞こえているみたいだ。


 気づくと、自分は地面に手を突いていた。

 両方の手と足、四本で地面に立つ。

 人になる前の自分がそうしていたみたいに。


 ああ、懐かしい。懐かしい感覚だ。


“衝動”が頭を一杯にする。

 そして、“衝動”に合わせて、自分の中で広がっていくものがある。


 これは、“力”。


 人になる前、最初にこの世に産まれた時から持っていた“力”。

 使う前から使い方を知っていた“力”。

 人になってからは使うことのなかった“力”が、眠りから起きるように湧き上がる。

 “力”は、体中を満たし、そして体の外にまで溢れる。

 まるで火のように揺れる、黄色い光の“力”。それが全身を覆う。

 指からは“力”が長く伸び、鋭い形を作る。この形は爪だ。昔の自分に生えていた爪。“力”がその形になって、代わりになってくれる。


 これで、また前みたいに壊せる。


「ティ、グル……?」


 誰かの声が聞こえた。

 だけど、これは気にしなくていい声だ。今は、目の前のこいつらだ。


 ゴブリンが、こちらの様子が変わったことに気づいて、警戒している。

 けど、それは少しの間だけだった。

 こちらが、自分たちより小さな子どもであることを思い出したみたいで、すぐに歯を剥いてバカにするような笑いを浮かべた。


「ギニャアアアアアア!」


 ゴブリンが高い声を上げながら、飛びかかってきた。

 右手に小さなナイフを握っている。頭の上まで持っていったナイフを、こちらへ目がけて勢いよく振り下ろす。


 だけど、ナイフが届く前に、自分は動いた。


 手足に力を込めて、跳び上がる。

 ゴブリンの頭を簡単に飛び越え、そばに立っている木――お母さんの身長の倍くらいの位置にある太い枝まで、一瞬で届く。


 空中で頭と足を逆さまにし、足の裏で枝を蹴る。そのまま下へ跳ぶ。


 ようやくこちらの動きを追えたゴブリンと目が合う。口をぽっかりと開けて、丸い目をさらに真ん丸に開いている。

 その顔に向けて、“力“で作った爪を振る。


「ピ――」


 小さな声だけ漏らして、ゴブリンは切り裂かれた。

 ボタボタと、きれいに六つに分かれたゴブリンの体が、地面に落ちる。ちょっとだけ遅れて、血が辺りに池みたいに広がる。


「フ、フギャアぁ!?」


 近くにいたもう一匹のゴブリンが、悲鳴のような声を上げた。広がっていく血から逃げるみたいに、一歩後ろに下がる。


 けど、それより速く、自分が飛びかかる。


 口を大きく開く。爪と同じように、歯の上から“力”でできた牙が伸びる。

 ゴブリンの喉に噛みつく。あまり噛み応えもなく、牙がゴブリンの首を突き抜けた。

 口の中に、ゴブリンの血が溢れる。久しぶりの味。だけど、全然美味しくない。

 ゴブリンが、ヒューヒューと息を漏らしながら、手足を暴れさせる。

 だけど、すぐに壊れ切って、だらりと力がなくなる。


 牙を抜いて、頭を上げようとした時、最後のゴブリンが走ってくるのが見えた。

 その顔は皺くちゃになって、体全部が震えているのがわかった。怖がっているんだ。怖いけど、他にどうしようもなくて、棍棒で殴ろうとしてくる。


 遅い。ゴブリンが棍棒を振るより速く、こっちは爪を振れる。


 そう思い、体を回そうとして――


「だめぇ!」


 ――目の前に、お母さんが飛び込んできた。

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