第3話 岐路(1)
「あら、ティグルちゃん。こんにちは」
お母さんと買い物から帰っていると、向かいに住んでいるアンナおばさんが話しかけてきた。
「こんにちは、アンナおばさん。おばさんは、いつも太ってるね。美味しそう」
「こ、こらティグルっ!? なんてこと言うの!」
「ふふ、いいのよメリル。豚さんみたいで美味しそうでしょー。なんなら齧ってみてもいいわよー」
アンナおばさんが、腕を差し出してくる。
本当にいいのだろうか?
でも、噛んだらお母さんに怒られる気がするので、やめておこう。
この体もほとんど自由に動かせるようになり、言葉もよほど難しいもの以外は、わかるようになった。
最近は、村の他の子どもと遊んで過ごしていることが多い。
あの「遊び」というのは、なかなか楽しい。
「そういえばティグルちゃん、聞いたわよ。駆けっこで、三つも年上の子に勝ったんだってね。足速いんだね~」
噂好きのアンナおばさんはどこで聞いたのか、そう言いながら頭を撫でてくれた。
この褒められるというのも、悪い気はしない。
「ええ、まあ……」
だけど、お母さんは、笑いながら眉毛を寄せる、なんだか不思議な顔をしていた。
「? どうかしたの?」
「実は、その……足が速かったり、運動が得意なのは、それは嬉しいんですけど。……この子、そのせいか、時々ひどく暴力的なことがあるんです」
最後の方はすごく小さい声で、お母さんは呟いた。
たぶん自分に聞こえないように話しているつもりなのだろうが、自分は他の子より目も耳もずっといいので、しっかり聞こえていた。
「何かと物を噛んだり、引っ掻いたり……子ども同士で喧嘩することもしょっちゅうで、しかも相手の子に一方的に怪我をさせて」
「うーん……。でも、このくらいの子って、やんちゃなものよ? 他の子に怪我をさせるのは、気をつけないとだけど」
「けど……それだけじゃあなくて。この間、ベンさんが飼っている犬を連れている所に、たまたま会って。そしたらこの子、本当に突然、犬に噛みつこうとしたんです。慌てて止めたので、お互いに怪我とかはなかったんですけど」
お母さんの言葉を聞いていたアンナおばさんが、驚いたように少し口を開けた。
「その後、どうしてあんなことをしたのって聞いても、この子、ぽかんとした顔で『どうしてダメなの?』って、逆に聞いてきて。……私、怖くて。近頃、どうしたらいいのか、わからなくて」
お母さんの声が、だんだん涙声になってくる。アンナおばさんが、母さんの肩を摩りながら話を聞いていた。
人の姿になってから知ったが、人は、他の人間や動物を傷つけることはあまりしないようだ。むしろ、傷つけるのは、よくないことらしい。
しかし、どうしてダメなのか、今一つわからない。
今になって考えると、人となる前の自分には、生き物を見つけると攻撃しないではいられない“衝動”のようなものがあった気がする。
今、それはすごく薄まって、だからこそ他の人間と一緒にいても襲いたいとは思わないし、遊んだり一緒に暮らしたりできている。
だけど、傷つけてはいけない理由となると、今一つ理解できないのだ。
邪魔な物は壊せばいい話だし、むかつく奴がいなくなればすっきりする。自分を傷つけるかもしれないものなら、先に倒してしまった方が安全ではないか。
ベンおじさんの犬のことだって、吠えて威嚇しようとしていたのを感じた。人になる前の経験が、それを教えてくれた。
だから、先に攻撃しようとした。
その何がいけないのだろうか。
お母さんのことは好きだけど、こうしてたまによくわからないことを言うのが嫌だ。
自分がちょっとムカムカした気持ちになっていると、アンナおばさんとの話がようやく終わったみたいで、お母さんが一歩後ろに下がって何度も謝り出した。
「すみません、お見苦しい所を見せてしまって」
「いいってば。初めての子どもで戸惑うことも多いと思うけど、いつでも相談して。五人のバカ息子を育てた経験は、伊達じゃあないからね。それじゃあ……って、いけない。大事なことを伝えるのを忘れる所だったわ!」
お別れをしようとしたら、アンナおばさんは足を止めて、またこっちを見た。
「そのベンさんから聞いたんだけどね。村の周りで、妙な足跡を見つけたんだって」
「妙な、ですか?」
お母さんが首を傾げる。たしかベンおじさんは、犬と一緒に、村の見回りの仕事をしているのだった。
「そう。人の子どもくらいの足跡なんだけど、裸足みたいで……もしかしたら、ゴブリンじゃあないかって」
「ゴ、ゴブリンですかっ?」
お母さんが驚いた顔になった。少し、怖がっているのもわかる。
「さっきベンさんが、村長に知らせにいくって走っていったから、すぐにみんなへも伝わるとは思う。あいつらは人家にまでは滅多に侵入してこないから大丈夫だろうけど、戸締りはしっかりした方がいいよ」
「は、はい。ありがとうございます」
今度こそアンナおばさんが向こうへ行った。その歩き方は、少し急いでいるように見えた。
「ティグル、待たせちゃってごめんね。さ、夜になったら危ないから早く帰ろう」
お母さんも小走りで近寄ってきて、手を握ろうとしてきた。
けど、その寸前に、変わったものに気づいた。
臭いだ。
いつもは嗅がない臭いが、今流れてきた風に混じっている。
いつもは嗅がない、けど人になる前はよく嗅いでいた臭い。
これは、血の臭いだ。
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