亀の正体は?
「うぅ…リンロッドが…リンロッドが…」
無残にも地面の上に叩きつけられ、中の飾りを失った太陽の輪を地面から拾い上げ、首に掛けながら、さめざめと涙を流す僕。
「ごめんて…まさか折れるとは思わなくて…」
謝罪の言葉と言い訳を述べながらそんな僕に寄り添う凛。その手には元の長さの半分もないようなピンク色のステッキだった物が握られている。
「……」
地面を大きく凹ませながら倒れ、気を失っている巨大な亀の怪獣。
僕の展開した障壁の中では、この3つの生命体だけが存在していた。
周辺の景色は亀が倒れた時の衝撃で様変わりしていた。遊具や木々が薙ぎ倒されてしまっているが、たしかに公園だった事がわかる。戦いが終わったら元に戻すのに結構な魔力を消費する必要がありそうだ。
そう、今は泣いている場合ではない。
僕は涙を拭い、凛に向き直って魔獣らしく振舞う。
「さぁ、凛!亀の記憶を覗いて早く元に戻してあげよう!」
「えっ!あ、そうだね。これ、ごめんね。とにかく、やってみるよ!」
手渡されたピンクの棒。僕の想いがいっぱい詰まったリンロッド。なんと無残な姿に…。でも、亀の記憶を覗くために気を失わせる事は出来たのだから、本望だろう。本当なら魔力を込める事で遠距離攻撃ができたり、バリアを張る事が出来たりと、いろんな事ができる子のはずだったのに…まさか物理攻撃に使われるとは…。まぁ、凛だから仕方がない。
その凛はというと、亀の頭のそばにしゃがみ込み、しっかりと気を失っていることを確認してから、コツンと額に指輪を当てている。指輪を介して得られる情報は指輪をつけている本人にしか伝わらない。目を瞑り意識を集中させている凛は一体亀からどんな記憶を読み取っているのだろうか。
=====
「ご飯、俺作るから咲良と遊んでて!」
「えっ!悪いよ…。私がするから…」
「いいから、いいから。今日は美味しいスパイスカレー作るから楽しみにしててね!」
そういうとグイグイと背中を押されて、有無を言わせずにキッチンから追い出されてしまった。
小さくため息をついて、リビングの方へ目をやると、テレビを大人しく見ていた咲良が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ママー、ご飯はー?」
「あー…ごめんね。今パパが作ってくれてるから、もうちょっと待っててね」
「えー、お腹すいたよ…」
「そうだよね…」
ちらりと壁にかかった丸い時計で時間を確認する。11時半。また、ひとつ小さなため息がこぼれる。
「…パパ、頑張ってるからママと一緒に遊んで待ってよ!」
「…はーい」
トボトボと歩く咲良の背中をそっと押しながらリビングに戻り、積み木をガラガラと出して一緒に遊ぶ。
色とりどりの積み木でどんどんと町が出来ていく。町が大きくなるに従い、私の心の闇もどんどんと広がっていった。
—いつまでご飯作ってるの?
—スパイスカレーって咲良は食べられるの?
—栄養バランスは大丈夫なの?
—私が作ればもうとっくにご飯食べて、お昼寝してる時間なのに…。
「ママ…?」
咲良の声が急に耳に飛び込んだ。
ハッとして顔を上げると、少し眠そうな咲良が三角の積み木を持ったまま心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
—いけないっ! しっかりしないと…。
「大丈夫だよ、咲良。心配かけてごめんね? ここにもう一つお家建てようか!」
「うん、屋根これねー!」
子供は本当に親の気持ちを敏感に察知する。私が主人に不信感を持っているなんて、絶対にわからないようにしないと…。
再び時計を確認すると、すでに12時半。もう1時間も経っていた。嫌な予感がする。
「咲良…お腹すいたよね? ちょっとママ、パパの様子見てくるね」
「はーい」
眠い目を擦りながらも、元気にお返事した咲良を残して、キッチンへ向かう。
— なんだろうこの匂い?美味しそう?
恐る恐るキッチンを覗くと、赤や黄色、緑のキャップで色分けされたスパイスの瓶がいたるところに転がり、玉ねぎの破片がたくさん床にばらまかれているという惨状だった。その光景に目眩でも起こしそうだったが、なんとか堪えて、上機嫌にエプロンをつけてガス台に向かう背中に声をかける。
「…あのご飯、まだ?」
とてつもなくいい笑顔で振り返った主人は、嬉しそうだった。
「おっ! いいところに、もうすぐできるよ! 味見してみて! 」
スプーンでフライパンの中のスパイスカレーを一すくいして、私の口元に持ってきた。
たしかにいい匂い。美味しそうではあるけど…。そのまま、一思いにぱくりとすると、確かに美味しい。飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘さや様々なスパイスの香り、家庭ではなかなか味わえないような味に少し主人に感心した。美味しい、美味しいけども…。
「これ…ちょっと辛いね…」
「そりゃあ、カレーだからね。しかもスパイスカレー! レシピ通りにしたらカイエンペッパー結構入ることになってさー」
ウキウキでレシピ本を突きつけて、あれこれとご機嫌で説明してくれる主人には悪いが、私はもう呆れかえってしまっていて、何も頭に入ってこない。
「あ…そう。でも、これって咲良にはちょっと辛すぎるかも…」
「あー! かも! どうしよう…?」
—今頃が付いたのかこいつ!
もう気持ちが爆発しそうだったが、堪える。今はこいつに構うより、お腹を空かせた咲良にご飯を作ってあげなくてはならない。
「もういい! 今からすぐ作るから咲良と遊んでて!」
今度は立場が逆転して、私が主人の背中を押してキッチンから追い出す。床に落ちた玉ねぎの欠片が足の裏に嫌な感触だった。
ため息をついてから、意を決してご飯を作り始める。10分で作る。そう決め、頭の中で無駄のない手順を練り、行動を開始する。
スパイスカレーの入った邪魔なフライパンを隅に追いやり、鍋を二つ用意して湯を沸かす。
片方にカツオ出汁をとりつつ、冷凍庫からうどんの麺とお肉。野菜室から適当な野菜を見繕う。野菜を細かく切り、レンジでチンしておく。お肉も麺も解凍モードで解凍しておく。出汁ができたら、野菜を煮込み、解凍が終わったお肉を入れ、火が通ったら酒とみりんと醤油で味を整える。裏ではもう一つの鍋で麺を茹でておく。茹で上がったら、具材と麺を一緒に少し煮込んで、溶き卵を流し込んだら完成だ。少し麺を短く切って食べやすくしてから、咲良の元へ持っていく。時間はぴったり10分でできた。
「おまたせ! 咲良。ご飯できたよ!」
テレビを見ている主人の背中側で、一人で積み木で遊んでいた咲良はどんぶりを見て、目を輝かせた。
「わーい! うどんさんだー!」
子供用の豆椅子を自分で机まで持ってきて、お行儀良くおすわりして元気よく食べ出した。おいしいっと言って嬉しそうに食べる姿が愛おしい。それと同時に、空腹を限界まで我慢させてしまった罪悪感が押し寄せてきて申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
「俺も腹減ったー」
そう言って子守りもせずに見ていたテレビを消しながら、こちらを見遣る主人。
「…えっ?あー、わかった。準備する…。咲良が食べるのみてあげてね」
—咲良の世話をしているのに何故私が?
そう喉から出そうになったが抑える。喧嘩をしても、何も良いことはない。
キッチンに戻り、適当な皿にご飯とスパイスカレーを盛り付けて持っていくと、不機嫌そうな主人と目が合った。
「もうそれ冷めてんじゃん…。出来立てがうまいのに…」
「あ、ごめん、チンするよ…」
「もういいよ。頂戴…。せっかく俺がわざわざ作ったのに…」
「…ごめんね」
口に運んだスパイスカレーはなんだかさっきよりも苦味が増したような気がする。
主人は所謂イクメンだ。
育児に積極的なメンズでイクメン。
こうやってご飯は作ってくれるし、頼めば咲良の世話だってしてくれる。それ以外にも掃除や洗濯、買い物、なんだってしてくれる。
それを周囲の人たちには羨ましがられる。
「いいよねー! 旦那さんがご飯作ってくれるなんてー! うちなんて…」
「うちの人、掃除機使ってるとこなんて見たことないよー!」
「買い物任せられるの楽でいいねー!」
そう字面だけ見たらそうなのだが、実際は違うのだ。
ご飯を作れば、キッチンを長時間占領して子供が食べられないものを作り上げる。だから私は結局子供のご飯を作らなくてはならない。
掃除をすれば、片付けてるのか散らかしているのか分からず、子供の保育園用の荷物が行方不明になり、只でさえ忙しい朝にバタバタと探し回らなくてはならなくなる。
買い物に行けば、余計なものや高価な物を何も考えずに買ってきて家計を圧迫する癖に、家計簿を見て、もっと節約した方が良いとのたまう。
決して私は楽ではない。むしろ仕事が増える上に自分のペースで事が運ばなくてストレスが溜まる。
基本的に彼は自分本位なのだ。
私が不機嫌な雰囲気を出しているのを察知して申し訳なさそうにするのならば、まだ可愛いものだが、常にドヤ顔。ご近所さんに俺はイクメンだ! と自ら言いふらす程だ。
贅沢な悩みなのは分かっている。
「やってくれるだけマシ…あなたは楽をしている」
ママ友たちに相談しても、皆そう言う。
それがどれほどの私の負担になろうとも。
もう誰にも相談しない…できない。
主人にも文句も言わない…言えない。
咲良だけは幸せに…そう願い。
私は亀のように丸く小さくなって、心を閉ざした。
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