カンガルーのその後

「ねぇ!ちょっと聞いてよ!」

 帰ってくるなり、興奮気味にそう僕に話しかけてきたのは凛だ。ちなみに悠人は晩御飯の支度をしていて、ゆきちゃんは僕のお腹の上に頭を乗せて、緑色をした耳の犬が出てくる教育番組を楽しそうに観ている。

 凛はというと、仕事終わりに買い物に寄ってきたようでエコバッグを両手に携えていた。えっちらおっちら、それらを運び、戦利品たちをポイポイとあるべき場所へ片付けていっている。鮮やかな手際だ。それが終わると手を洗い、うがいをして、着替えてから僕らのところに再びやってきた。

「ゆきーただいま!今日もかわいいねー」

「りー、おかえりー」

 そういうと、親バカ全開でゆきちゃんを撫で回してほっぺをぷにぷにとしている。その振動が僕のお腹にも伝わって少し苦しい。


「おかえり、凛。で、何を聞いて欲しいのさ?」

「そうだ、そうだ!さっき買い物してたらね…あのカンガルーのお母さんにばったり会ってね。なんと、旦那さんと一緒に買い物してたんだよー!」

 すごく嬉しそうな凛に対して、僕は何がそんなに喜ぶことなのかよくわからなかった。なのでその疑問をそのまま凛にぶつける。

「買い物を夫婦揃ってするなんて普通なことじゃないの…?」

「シロ、あまーい!あの夫婦は完璧にワンオペだったんだよ!かなりの進歩だよ!買い物中はお子さんのことは旦那さんの方が世話してたしね!」

 なるほどそういうことか…。


 子連れでの買い物というのは意外と厄介なものだ。自分一人で買い物に行くならば何も気にしなくていい事が、たくさんの障害になる。

 まず、買い物に行くタイミングを考えなくてはいけない。一人で時間が空いたからと手軽にはスタートすることはできないのだ。生活リズムをできる限りくずさないように、おやつの時間や、お昼寝の時間、ご飯の時間を外ずし、かつ比較的機嫌が良い時など、出かけるためには条件を揃える必要がある。そして、やっとお店に着いたら、ほぼ必ずカートを用意しなくてはならない。しかも、それに乗るのを拒否されたり、乗ったとしてもずっと大人しく乗っていてくれるわけではない。最悪の場合はずっと抱っこしながら買い物をしなくてはならなくなる。(もちろん、抱っこするのは幸せなことだが、買い物というのはミッション中は試練の一つになってしまう…)

 通りかかる通路では、興味があるものにはほぼ必ず手を伸ばすし、悪ければ口に入れてしまうこともある。もちろんその商品は棚に戻すわけにもいかず、不必要な出費となってしまう。

 やっと必要なものをカゴに入れ終えると、レジに並ぶという試練が待っている。子どもはとにかくじっとしていられない。もちろん、その子の個性によるだろうが…。長い列で何もなくただ並ぶというのは子供にとっては苦痛でしかない。それを飽きさせないように、しなくてはならない。

 なんとか会計を終えると、今度もまた試練、袋詰め作業が始まる。子どもが遠くに行ったり、他のお客さんに迷惑をかけないように、目を光らせながら、手早く自分の荷物をまとめなくてはならない。

 これを一人でするにはかなりの労力だ。

 育児に理解がない人は、買い物と簡単にいうが、相当な苦労が付きまとうミッションだと理解してあげてほしい。

 みんなも買い物中にお子さん連れを見かけたら優しい目で見てくれると嬉しい…。

 …僕は一体何を言っているんだろう?


 あの夫婦が協力して買い物に行くようになって、しかも旦那さんが積極的に子どもの世話をしていた。これはいいお知らせだ。

「良かった…きっと彼女はもう悪しきものたちの誘いに惑わされないね!」

「そうだよ!少しでも役立てたみたいで良かった、よかったー。しかも、連絡先も交換したからね!私の初ママ友だよ!早速、今週の土曜日に公園でみんなで遊ぶ約束したんだよー」

 凛の行動力に驚きながらも、一つの家庭が少し幸せに近づいたことに、自分の使命を果たせていないという無力感が少し和らいだ気がした。

「それに、他のママ友さんも連れてきてくれるらしいから、もしかしたら候補が見つかるかもしれないよ」

 どうやら自分のことばかりではなく僕のことも考えてくれての行動だったようで、とてもありがたかった。僕は熱くなる目頭を肉球で冷やしながら、凛にお礼を言った。


 その話の後は、凛はゆきちゃんとテレビを観ながら一緒に踊ったり、歌ったりと楽しそうに過ごしていた。

 僕はというと、先ほどしたお師匠様との話を思い出していた。


 —仮契約は1人につき3回まで…。


 凛とはすでに1度結んでしまった。つまり、残りはあと2回。それまでになんとか凛と本契約を果たすか、別の誰かと契約を結ぶか、二つに一つだ。さもなくば、この世界は滅びてしまう。ことは一刻を争う。

 楽しそうに遊ぶ2人と、険しい顔をしている僕に、悠人が陽気な声で呼びかける。


「ご飯できたよー。今日はカレイの煮付けだよー」

「やったね、ゆき、大好物きたね!」

「にちゅけー!」

 僕の悩みなんて御構い無しに、この一家はいつも元気で楽しそうで、何よりだ。


 みんなで食卓につき、声を合わせていただきますを言って食べ始める。

 ちなみに僕も魔力の消費を防ぐために、ご飯を頂いている。食事から得たエネルギーを魔力に変換して、少しずつクリスタルに貯蓄している。本来ならばパートナーからの魔力供給で行うべきなのだが、今の状況ではこうするより他にない。


 僕用に、と凛が用意してくれた猫がデザインされた食器の上には、美味しそうな魚な切り身が載っていた。サイドに置かれたほうれん草が彩を足していて食欲をそそる。一口食べると、カレイのまろやかな脂と煮汁の甘辛い感じが、口いっぱいに広がり、非常に美味しかった。悠人の作る料理はどれもこれも美味しい。

 ゆきちゃんも美味しそうにパクパクと上手にフォークを使って食べている。

 ゆきちゃんの一挙手一投足を眺めながら、ニコニコと食事を進めていく。


 悠人は一番はじめに食べ終わると、ゆきちゃんが食べるためのサポートに入った。ゆきちゃんくらいの子はまだ、ひとりではうまく口に運べなかったり、食べるのに飽きてしまったり、他に興味が移ると食べるのをやめてしまったりするので、箸が止まるたびに、ゆきちゃんの口に、悠人がご飯や煮付けを放り込んでいく。

「うまー!」

 おいしいとほっぺたを両手で抑えるゆきちゃんに、悠人の顔は緩みきっている。大の大人がここまで破顔する様はなかなか見られない。子どもの持つパワーはすごいものだ…。



 食事の後はみんなで少しまったりして、いつものルーティーンに入る。

 ゆきちゃんの入眠の儀式だ。

 大まかな流れは

 お風呂→お着替え→絵本の読み聞かせ→入眠

 というものだ。

 スムーズに行けば1時間半ほどで全ての工程を終えることができるが、ゆきちゃんの疲れ具合やご機嫌なよって3時間ほどかかったりすることもある。

 僕が手伝えるのは絵本の読み聞かせや枕になる事くらいだ。ここ最近は僕が枕になってゴロゴロと喉を鳴らしているといつのまにか寝ていることが多く、重宝されている。


 今日は、野ネズミがカステラを作る本を何度も何度も凛に読んでもらってから、僕のことを枕にしてゆきちゃんは眠りについた。

 重くなった頭を魔法で少し浮かせてから、するりと身体を抜き出して幸せそうな寝顔を眺める。


 —よしっ、明日もパートナー探し、がんばろっ!

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