第10話 原爆にあった人


 原爆にあった人は固く口をつぐんで体験を話したがりません。それほど、思い出すのさえ嫌な辛い記憶で、話せる人の体験はまだましな方なのだそうです。「まし」といえども、相当悲惨な体験が多いので、いったいどんな地獄を見られたのかと、恐ろしいばかりです。


 広島市に住む人の親族や知り合いには誰かしら原爆にあった人がいます。


 私の母の職場の人(故人)は、原爆投下後、体は無事だったのですが、食べるものがなくて、とてもひもじい思いをしたようです。今と違って、政府が食料を運んでくれるわけではなく、食糧難でもありました。


 どのくらいで届いたのかはわかりませんがトタン板におにぎりが乗せられ、運ばれてきたそうです。それは、ついさっき遺体を乗せて運んでいたトタン板なのですが、その上に直接食べるものが乗せてあってもぜんぜん気持ち悪いと思わなかったそうです。悲惨な遺体も尋常ではない数を見ると、麻痺してしまうのでしょうか。空腹も限界だったのかもしれません。


 父は呉市に住んでいましたが、裏の柿の木に上っていると、空がピカッと光ったそうです。一年生だったので、

「お母ちゃん、アメリカが写真撮ったよ!」

 と言って、家に入りました。そのあと、出てみると、きのこ雲が見えたと言っていました。

 父は、小学校の体育館に被爆した人がたくさん寝かせられているのを見たとつらそうな顔で言っていました。電車で1時間近くかかる呉市の小学校まで使うということは、いったいどれだけ、やけどやケガを負った人や原爆症の人がいたのでしょう。県の北のほうにも運ばれていますので、相当な数だと思います。


 主人の祖父もあの日、家に帰らず、遺体も見つかっていません。探しに行った家族は入市被爆になりますが、幸いみんな元気です。しかし、差別を恐れて被爆者手帳をもらっていないので、手当や、医療費の免除などの支援は何も受けていません。そんな話もよく聞きます。


 知り合いの女性は、


「まだここにガラスの破片が残っとるんよ」


と言って、手の皮膚を撫でていました。爆風で刃物と化したガラスの破片が突き刺さったのです。


 東日本大震災の時、津波の後の街を見て、広島の人の多くが「原爆みたいだ」と思いました。私もその一人です。更に、原発事故まで起こり、大変な恐怖を感じました。放射能の怖さも原爆と重なりました。


 世界中にはたくさんの核兵器があって、廃絶に向かって全部処分していっても十年かかると聞いたのは、十年以上前のことです。もし、日本に核が落とされて助かっても、放射能に汚染され、コロナどころではない自粛生活になるでしょう。落とされるのが中国や韓国だとしても、放射能は黄砂のように風に乗ってくるだろうし、原発事故でも汚染されます。そんなこともコロナ自粛中に考えていました。


 核兵器は二度と地球に落としてはいけません。人の上なんて、もってのほか。きのこ雲の下で何が起こっていたのか、世界中の人に知ってほしいです。そして核兵器も原発もなくしてほしいです。


 原爆にあった人たちの願いは、責任の追及よりも、核の廃絶と世界平和です。私たちは身近なところから許し合い、争いをなくして笑顔で暮らしたいものです。


 今日は75年目の原爆の日です。



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