クリムゾンの一節
@NatsumeHiromoto
After you said goodbye to the world.
そのとき紅野は、敬愛する上司と以前、戦争について語ったことを思い出していた。彼はこう言った。
『基本的に誰も望まなければ殺しあわずに済むということを、人は既に学んでいるはずだ。それでも戦争が起こる理由は二つ、一つは特定の人間の利益。二つ目は尊厳を守るため』
その言葉に紅野は疑問を覚えたのだ。
では、なぜ? と。
ひとりの男とひとりの女が、廃墟と化した建物の一室に居る。
男は四十代前半で、アメリカ製のデザートイーグルを両手でしっかりと持っている。 女の方はまだ若い。手足が長く、短い髪は紫外線で焼けたのか乾ききった茶色をしている。 手には、軍支給の二十口径のコルトを持っていた。
先に動いたのは、女だった。
体勢を低くし、床を縫うようにして横に飛ぶと同時に男の心臓をめがけて撃つ。 間一髪でそれを避け、男は女に狙いを定めて撃つ。 弾丸は、一瞬早く床に伏せた女のわずか頭上を過ぎた。床に伏せたと同時に彼女は、野性的な俊敏さで男の懐に飛び込む。
男は舌打ち、デザートイーグルの尻の部分を床に伏せた女の額めがけて振り下ろす。 それを横に払った拍子に女の手から銃が飛んでいくが、彼女はそれには気を留めず、男が体勢を立て直す前に銃を持っている男の手を右掌で押し上げた。
銃が男の手を離れて宙に浮いた瞬間、彼女はそれを左腕で後方へと掃うと、ほぼ同時に男の鼻柱を強かに頭突きする。 鼻の軟骨が潰れる音と鮮血。男が怯んだその隙に女は腰から出したジャックナイフで、男の咽喉を掻き切った。
一連の動きはおそろしく滑らかで、熟練していた。血飛沫が上がってから、銃が床に落ちた音が響く。 男は崩れ落ち、何度か痙攣を繰り返した後で絶命した。
彼女は背筋を伸ばし、つめていた息を長く吐いた。
直立したまま息を整えている女の目にふと、くすんだ銀色がとまった。
死んだ男の左手にあるリングだ。窓から射す夕日を受けて、控えめに光っている。
息が完全に整ってから、女は目線を男の薬指から剥がした。 赤く斑に染まったシャツを脱ぎ、黒いタンクトップ姿一枚になる。 脱いだシャツで丁寧に、ナイフと指や顔に付着した血をぬぐい、丸めると腰のポーチに詰めた。 ちょうどその時、耳に装着している無線機から混雑したノイズに混じって声が聞こえた。
「……第8ポイント、状況の報告をしろ。聞こえてるのか? 第8ポイント、状況の」
女は乾ききった唇を動かした。
「第8ポイント、異常なし」
本隊に合流しろとの指令に諾と返し、彼女は血の匂いが立ち込めはじめた部屋から出ようとして、ふとガラスのない窓から外を見た。 切り取られたキャンパスには、見事なグラデーションで夕暮れが描かれていた。 見渡す限り広がる灰色の廃墟を侵食する、紅。
しばらくしてから、彼女はようやく紅い部屋を後にした。
――――――――――――――――――――
「よう、紅野。こんな時間にひとりで食事か? 座っても?」
「もちろんです、志木中尉――失礼しました、“大尉”」
「いいよ。まだこっちも慣れてねーんだ」
軽い口調でそういい、志木は真向かいにプレートを置くと腰を下ろした。
夕食時はとうに過ぎているせいか、食堂に人気はあまりない。 何人かが彼らと同様に遅い夕食をとり、その他ではコミック本を熱心に読んでいる調理番らしき青年がいるだけだ。
「義手の調子はどうですか、大尉」
紅野はたずねた。
「悪くない。メンテナンスに金がかかるのが厄介だけどな」
「軍から助成金が出ますよ」
十三年前に起こった世界規模の“災害”で志木は片腕を失っている。 最近になってようやく義手をつけるようになったが、本人はそれに対して特にどうというわけでもなさそうだ。 元々、自分自身に対してややおろそかな人物でもある。 それでも片腕で大尉の地位までのし上がった志木は、下位の兵士らにとっては羨望の的だった。
「志木! ちょっといいか」
同僚らしき男が志木に話しかけた。なにやら借りた本を返しに来たようだった。彼は本の感想と、ついでに上司の無能さについて愚痴をこぼし、今度は隅でコミック本を読んでいる青年の方へと向かって行った。 聞こえ漏れる話し声によると、どうやらあの青年にも本を借りていたらしい。
志木は本を戯れにめくったあと、紅野の前に無造作に置いた。薄い本で、表紙はなかった。 一言断ってから彼女はテーブルに置かれた本を手にとり、ページをめくる。詩集のようだった。 どれもほとんどが四つの行でできている。目に留まったひとつを黙読した。
この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎をあかしてくれる人はない。
気をつけてこの旅籠屋に忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。
カレーを口に運びながら、志木が本を顎でさす。
「ルバイヤート。千年近く前に、アルコール中毒の爺さんが書いた」
「詩なんて読まれるんですか、志木少尉」
「実は嗜む。気になるんだったら貸すぞ。なんなら英訳もあるけど。かのフィッツジェラルドの翻訳だ」
「いえ、あの、遠慮します。わたしには必要ないと思いますし」
「なぜ?」
“なぜ?”と紅野は脳内で反芻した。志木は微かに笑っている。
「……役立てられないと、思うので。わたしには」
「誰にだって役立つもんじゃないよ、こういう類は。たとえば眉間に銃口つきつけられた状態でだ、この詩を朗読したところで」
といって、志木はさきほどの詩を中指でトンと差した。
「頭は弾け飛ぶしかない。だろ?」
「そうですね。相手がよほどのファンでない限り」
「はは、そういうこと。文学や芸術は役にたたない。けどなあ、人生を豊かにするんだよ。 そしてたまに自分を救う。他人ですら」
「はあ……」
「お前にはそいつが必要だと思うね」
「この本がですか?」
「いや、人生を豊かにすることが」
紅野は次に返そうとしていた言葉を飲み込み、その代わり「では、お言葉に甘えて」と本を手元に寄せた。 志木は軽く頷いて見せてから水を飲み、胸ポケットから煙草とライターを取り出した。 オイルが足りないらしく何度か振ってから、煙草に火を点ける。
そして気のない口調で、ところで、と話を変えた。
「ところで今日、東エリアの第8ポイントを見回ったのは紅野だったな」
「そうです」
「報告では、異常なしと聞いてる」
「ええ、そう報告しました」
「本隊に合流したとき、シャツを脱いでたな。タンクトップ一枚でいるにはまだ寒くないか?」
「……汗をかいたので」
「こっちに戻る途中、俺だけあの廃墟ビルに戻ったんだ。なにか虫の知らせがあってね。聞きたいことはふたつだ。 一つ目は、なぜレジスタンスが居たことを報告しなかったのか。二つ目はなぜ殺したのか。捕虜にしろという命令は知っているだろ」
「生け捕りにするには相手の腕が立ちました。応援を求める暇もなく戦闘に。 報告を怠ったのは命令違反を咎められるのを恐れたからです。申し訳ありませんでした。罰は受けます」
考えていた言い訳を舌にのせながら紅野は、ばれただろうかとコーヒーを飲みながら冷静に考えていた。
今日の夕暮れ、第8ポイントの廃墟街を見回っていた時、元銀行だった建物へ入っていく一般人らしき男を見かけた。 東エリア一帯は倒壊の危険がある建物が密集しているため、一般の立ち入りは禁止されている。 実際はその地下に軍の極秘研究機関があるからだが、表向きはそうなっている。 従って出入りする人間は軍人か、反政府活動を行っているレジスタンスたちの二つにひとつだ。
その男は旧型のモバイル形の無線機で、誰かと口論しているようだった。 そのため、気付かれずに側によることができたのだ。
レジスタンスたちは皆一様に注意深く、滅多に尻尾をつかませない。 だが最近になって急に目立つ行動をとるようになっており、それを踏まえて上層部から下された命令に、可能な限り殺さず生け捕れとあったのは当然なのだろう。 実際問題として、殺すよりも捕虜にする方がスキルを要するのだが。
本隊へ連絡しようとした時、口論をしていた男が押し殺した声を荒げた。
「志木、いいから軍を抜けろ! もう充分だ。他にもスパイは入っている。 こんなことは話したくなかったが……お前が大尉に昇格したことで裏切るんじゃないかと、疑心暗鬼になっている者が出てきている」
すっと、体温が確かに下がった。
男はなおも志木と呼びかけながら、半ば怒りを交えて説得を繰り返している。
軍を抜けろ、と。
「決行の時は近い。おまえがもし――」
男の声が突然、途切れた。驚きに見開いた目がこちらを見ている。 なぜばれたのかと考え、すぐに自分が無線機を銃で撃ち抜いたからだと思い立った。
おかしな感覚だった。現実感をわずかの間、失ってしまっていたらしい。
そのとき紅野は、敬愛する上司が以前、戦争について語ったことを思い出していた。――基本的に誰も望まなければ……。
だが次の瞬間には、銃のグリップをしっかりと握りなおした。
「直接的な死因は俺が見たところ、頚動脈切開による出血多量。実に思い切りのいい切り口だった。 現場に残されたデザートイーグルの残弾は十四、つまり一発もしくは二発しか使われていなかった計算になる」
志木は目をやや細めて、煙を吐き出した。
「最初から殺す気じゃないと、こう分かりやすい死体はできないな」
この男の、この目が嫌いだ、と紅野は思った。この心の隅々まで見通すような目。それが親愛を含んでいるとわかっているからこそ、嫌いでたまらない。
志木は信頼できる男だ。おそらく、彼の本質を知っている数少ない人間は口を揃えてそういうだろう。 彼自身がそう見せようと努力しているほど、いい加減な男ではない。ふらふらと根無し草のような行動と言動の背後に、ゆるぎない道徳と愛情がある。が、同時に底がしれない。
きっと痛んだことがあるからだ、と紅野は考えている。
過去に手ひどく痛んだことがある人間は、優しいが秘密主義だ。そして時に冷酷にもなれる。 底の深さを探ろうとする人間には容赦がないからだ。
「おまえは、何かを知ったんだろうか?」
独り言のようにそう尋ねた志木の目を正面から見据えて、紅野は口を開いた。
「なにも」
長い沈黙。皮膚がひりつく。
やがて志木は煙草を灰皿に押し付け、トレイを手に席を立った。
「ならいい。食事の邪魔をして悪かったな」
「いいえ。おやすみなさい、大尉」
「おやすみ」
一歩足を踏み出してから志木はふと振り返ると、テーブルの上の本を指差して笑った。
「その本、やるよ」
志木は厨房のシェフと少しだけ世間話をしてから、食堂を出て行った。 その背中が完全に見えなくなってからようやく紅野は、自分がまともに息ができていなかったことに気がついた。 酸素不足で動悸は激しく、手には汗を掻いている。
何度か深く呼吸をしてから、彼女はすっかり冷め切った手元のナポリタンを見た。 それを見詰めているうちに、確固とした予感が胸にこみ上げてきた。
きっと明日、彼は姿を消しているだろう。
そして次に会うときはおそらく、銃口を向けるのだろう。
テーブルの上には、開いたままの本がある。さっき黙読したその中の一節に紅野は目線を落とした。
永遠の旅路。彼はこの旅籠屋に、ただ立ち寄っただけのつもりだったのかもしれない。
目を閉じ、薄闇の中で彼女は、さようならと呟いた。その言葉の響きはどこか祈りに似ていた。
【引用】 ウマル・ハイヤーム(1018-1131)、ルバイヤート『万物流転』の章より46節。
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