第19話 妖獣保護センター・分館(7)
「逃げてください!」
静乃の一言で、二人は散開する。すると僅かに遅れて、巨手は二人のいた場所へ二人を押し潰さんと倒れ込んだ。激しい音と共に、地に倒れた腐虫達が一斉に動き出す。
張景は咄嗟に後方へ、静乃はやや遅れたが、持ち前の空中浮遊能力でなんとか逃れることができた。浮遊というよりは、空中にある透明な板を階段代わりに登った状態に近い。
「あれは、こいつの目玉だったのか……!」
先程感じた視線の正体に気付き、ぞわりと背筋が凍る。しかし怖気付くわけにもいかない。
きっと、応援は来る。今はそう信じて巨手を足止めするしかない。
「私が引き付けます!だから早く退去を!」
腐虫の群れが張景の元へと進む。同時に、巨手が震えたかと思うと、自身から腐虫を飛ばしてくる。
張景は後退しながらそれらを避け、
「囮なら僕が!静乃様は援護をお願いします!」
「なりません、危険です!いくら職員と言えど、貴方は……」
「引き際は見極めます。……どこぞの馬鹿兄みたいな自己犠牲的なことはしません。絶対に」
仙人といえど、全ての仙道が武術を学んでいるわけではない。張景のように対獣知識に疎いものもいれば、仙人に至るまでに武学を修めないものも少なくない。張景は静乃の動きを見たうえで、自分の方がまだ動けると判断した。
(あまり得意じゃないけど、無いよりマシか)
張景は、袖口からするりと何枚かの護符を滑らせるように取り出す。少し念を込めると、みるみるうちに札が集まり、柄の無い刀剣に似た形状になる。それを強く握りしめ、張景は巨手をきっと睨んだ。
再び巨手は腐虫を飛ばしてくる。張景は可能な限り逃げ回り、護符製の剣で応戦する。とは言っても、この剣に斬れ味などあるはずもなく、専ら飛んでくる腐虫を払い除けたり、足元まで寄ってきた個体を容赦なく叩き潰す程度である。
「張景さん、後ろ!」
それを援護するのは静乃の術である。静乃が得意とする冷気を操り、空中を文字通り走り回る。張景の死角にいる腐虫に気付くと、冷気を弾のように撃ち、動きを止める。それに気付いた張景が腐虫を叩き潰す。
だが、地上ほどではないが巨手は静乃の方へも腐虫を飛ばしてくるため、静乃は空中を逃げながらの支援となる。静乃自身が荒事に慣れていないため、どうしても支援は遅くなる。
足元には腐虫、巨手も迫ってきては張景を取り込まんと倒れ込む。その挙動は獲物を握り潰こうとしているかのようだ。
「痛っ……!!この!」
振り切れずに腕に噛み付いた腐虫を、張景は咄嗟に引っ張る。ほんの僅かの間しか噛みつかれていないはずだが、傷口は思ったより深く、噛み跡からだらだらと血が垂れ流れる。
「大丈夫ですか!?」
「まだ……いけます!これぐらい修行で慣れてます!それより……」
見ると、剣の先が溶けている。張景は、はっとして、
「符が溶けています!この虫、呪いの類いかもしれません!」
「なんですって……!少し、耐えてください!」
静乃は逃げながら、やや距離を取ると急いで巨手を注視する。先程からかなりの腐虫を飛ばしているというのに、巨手の大きさは変わらない。
しかしよくよく見てみると、巨手の目玉──腐虫と接触している境目から、じわじわと腐虫が"湧いて"いるではないか。
おぞましい様子に静乃は顔をしかめたが、
「……!あの目玉が本体です!腐虫は、おそらく本体を倒さないと無限に湧いて出てきます!」
「っ!どうりで、減らないわけだ!」
脚に噛みついてきた腐虫を突き刺し、力任せに引き剥がす。服の上から血が滲み出し、剣の先がまた溶けていた。
ちらりと巨手を見る。目玉の大きさは二メートル前後といったところだろうか。剣符の予備を使ったところで、二人だけでアレを退治しろというのは、些か無謀であるのは張景でもわかる。
「撤退します!静乃様も……ぐっ!?」
背後から、またしても飛びかかってきた腐虫を避けきれず、脚の同じ箇所を噛まれる。傷口を抉られ、張景は思わず膝をついてしまう。
「張景さん!?」
「い、いいから撤退を!こんなの、すぐに……ッ!?」
引き剥がそうとして、視界が歪む。張景は、すぐに理解した。
──呪毒だ。
何度か噛まれた際、傷口から呪毒が体内に入り込んでいたのだ。それが徐々に体に回り、今になって影響が出た。
張景はなんとか力を振り絞り、脚の腐虫を潰したが、脚に力が入らない。
「大丈夫ですか!?」
心配した静乃が、空中から降りてきて、急いで張景の体を支えた。張景は驚き、
「静乃様……、危険です、逃げてください」
「逃げません。あなたを逃します。少々手荒になりますが、術の応用であなた一人ぐらいなら逃せます」
「それでは、駄目です……。僕はなんとか、意地でも逃げますから、どうか、副所長なんですから……」
そうは言ってみたが、逃げ切れる自信が全くない。符術を用いても、走れるかどうか。そうこう考える僅かな合間にも、自身の体調が悪化するのが嫌というほどわかる。
全身から汗が噴き出る。脚の痛みは傷から腐り落ちそうなぐらいの激痛に変わっている。
(はは、こんな嘘ついて、誰かさんに顔向けできないや)
心の内で、自虐してみる。自分が情けなかった。
「拒否します。貴方を逃します。これは上長命令です」
静乃はすう、と息をつくと、小声でなにか唱え出す。詳細はいまの張景には聞き取れなかったが、次第に四肢にかかる重力が軽くなっていく。
そのとき、前方からまたしても金切り声が響く。あの巨手が、腐虫達が、総出で迫って来ている。しかも本体は先程よりも速度を上げて。
(……っ、間に合わない!間に合わせる!)
静乃の詠唱速度が上がる。張景はなにか言っていたが、すぐに息が上がり肩で呼吸している。
間に合え、間に合えと祈りながら、必死に唱え続けるが、あえなく二人を巨大な影が覆う。すぐ数歩先には腐虫、巨手はもうそこまで──。
「大丈夫、よく耐えたね」
その瞬間、聞き覚えのある声がどこからか響いた。
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