第19話 妖獣保護センター・分館(6)
二人はしばらく走って、走って、少し開けた場所まで来て、ようやく足を止めた。逃走の合間にも、例の腐虫が飛び出してくることがあったためである。隠れ辛いが、茂みや木の上に注意を払うことは無くなるだろう。
張景は息つく暇無く護符をいくつか取り出すと、気を込め、投げるように周囲の地面へ貼り付ける。すると貼られた符はうっすらと発光し、張景らを取り囲むようにして符の中が淡く光った。
「気配遮断の護符です。と言っても、完全ではありません。遮るのは音と匂いぐらいで、姿までは……」
「十分です。ありがとうございます、張景さん」
休憩とまではいかないが、腰を下ろしてようやく息を整えられた。少しの無言の後、先に口を開いたのは静乃だった。
「……事態は深刻です。想像以上に、この周辺には腐虫が拡がっているようです。私の見立が甘く、みなさんを危険に晒してしまいました」
「静乃様のせいでは……。さっきの二人だって、静乃様の指示ですぐに逃げることができましたし、僕だってそうです。それに、雲中子様がもうすぐ来られるはずです。もう少しだけ休んだら、ここを離れましょう」
「……わかりました。念の為、情報の整理をしましょう。あの生き物について、気付いたことを教えてください。どんな些細なことでも」
「気付いたこと、ですか。じっくり見ていないので、本当に間違っているかもしれませんが……」
張景は思いつく限り、見たこと、感じたことを伝える。
まず、あの巨大な手が腐虫を生み出していることは明らかである。
「腐虫の集合体というより、体の一部を切り離して動かしているような印象を受けました。白額とは方法こそ違っていますが、妖獣を襲って蓄えていると考えるのが自然ではないでしょうか」
「なるほど。つまり蟻のように巣穴に持ち込んでいた、と。……私からも共有を。分館であれを調べていた際ですが、哺乳類のような知性こそは無けれど、収容するまで職員に対する攻撃性を認めました。ケースに入れてしばらくすると大人しくなることから、嗅覚か聴覚で補って行動している可能性があります」
「視覚に頼っていない、ということですか?」
「あくまで仮説ですが、その可能性はあるかと。なので、この符術は有効だと考えます」
「……」
静乃の言葉にどこか引っ掛かるものを覚える。
彼女の仮説は納得できる。しかし、逃げる直前に感じたあの視線は、なんだったのだろうかと。
「貴方の報告書の、霊力ある者を狙う習性があの手にもあるやもしれません。……いざとなったら私が囮になります。その隙に逃げてくださいね」
「な……っ!?何を仰っているんですか?仮にも副所長という方が、そんな弱気で……」
「ふふ、驚くのも無理はありません。こう見えて私、戦闘の類はからっきしなんです。研究職ってそういうものでしょう?」
静乃は少し困ったように笑う。初対面の印象とはまた違う、柔らかい笑みだった。
「前任の副所長が十年前に隠遁された際、立候補したのが私なんです。師に仙人と認められたものの、私は浮いたり鍵を通り抜けたり冷気で足場を作ったり……そんな地味な術ぐらいしかできません。試練だって実は合格ギリギリだったんですよ」
その能力も大概では?と思ったが、張景は水を差さないように聞きに徹した。
「……副所長はですね、非常時にはあの施設ごと殉職することが第一条件なんですよ」
「……え?」
思わず聞き返してしまったが、静乃の表情は穏やかだ。張景はそこに、似た人物の面影を一瞬重ねてしまう。
「それぐらいの覚悟を持っているってことです。職員を守るのだってそうですし、なによりあの方との約束が──」
言葉を言い終える直前に、後方から激しい音がして、二人は急いで立ち上がり振り返る。木が何本か倒れたようで、音と共に土煙が上がり、鳥が何羽も飛び去っていくのが見えた。
土煙の中から、黒くうごめくものが見える。
まるで巣に群がる蜂のように、夥しい数の腐虫たちがグネグネと這い、徐々にこちらへ向かってくるではないか。間違いなく、先程の巨大な『手』である。
巨手はゆっくりと移動しながら、時折逃げ遅れた妖鳥へ腐虫を飛ばし、身動きが取れずに落ちた妖鳥を自身の中へ取り込んでいるようであった。
まだ距離はあるものの、そのおぞましい様子に張景は思わず後退りした。
「やっぱり、追ってきた……!」
より霊力を持つものを狙う習性──、あの白額と同じだ。
「少なくとも、あの二人は追わなかったようであるのは、喜ばしいことではあるのですが──」
静乃は一度、周囲を見渡し、
「分館の方角はわかりますね?万が一気付かれたら振り返らずに走ってください」
「だ、大丈夫です!それに広成子様直伝の符術です。そう簡単には気付かれません!」
そう言いつつも、嫌な予感がして身構える。巨手はじわじわと、確実にこちらへ向かってくる。
「……匂いで追ってきているようですね。鼻も無いのによく効くこと」
吐き捨てるように呟き、静乃は張景を庇うように前へ出る。張景も、いざというときのためにすぐ出せるよう、護符をいくつか忍ばせた。
程なくして、茂みの奥から滲み出るかのように、腐虫がわらわらと押し寄せてくる。腐虫の群れが、茂みから出てくるにつれて、徐々に全容が迫り出す。
──明らかに、最初に目撃したときより大きい。
這いずりながら捕食した可能性もあるが、おそらくは張景らが初めて目撃した部位は全体の一部であったのだと理解した。大きく“手“を広げたなら、その辺りの木の倍はあるだろう。
符術の間合いまで二、三十メートルほど。巨手の進行方向は二人よりややずれている。
二人の予想は正しかったようで、少なくとも目視で周囲を観察する様子はない。とは言っても、符術で守っているとはいえ、警戒して二人は一言も発さず、靴の擦れる音すらも出さないよう身動きは最小限だ。
このまま真っ直ぐ進んでくれさえすれば、やり過ごせるのだが──そうはいかなかった。
巨手は突如、動きを止める。すると辺りを見渡すように、腐虫がその場で蠢き始めた。
(匂いが途絶えたことに、気付いた……!?)
ほぼ直感だが、巨手がなにか違和感に気付いたような素振りを見せ、緊張が走る。
途端、先行して這い回っていた腐虫が、引く波のように一斉に巨手の方へと戻っていくではないか。
「……退却、する?」
静乃が驚き、小さく呟く。しかし張景は静かに護符をいくつか構え、
「嫌な、予感がします。副所長、いざとなったら──」
腐虫をすべて纏い、より一層巨手は肥大する。あらかた全ての腐虫が集合したかと思うと、巨手は突如震え出した。やがて、手のひらに相当する場所に、切れ込みのようなものが生まれ、
「頼ってください。僕だって、施設の一員なんですから」
切れ込みが上下にぱかりと開くと、中から赤く、巨大な目玉が現れた。
その目玉は周囲を見渡し、やがて二人を捕捉すると、
「────!!!」
まるで金切声のような音を発し、襲いかかった。
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