第18.5話 張景と白い犬

 里の西側──白虎門から出て南西は遊牧民族の末裔が暮らす平野が続いているが、北西に進むと山にぶつかる。

 山中にも仙郷エリアとを隔てる長い壁が続いており、これは仙郷側に生息する危険な妖獣から人間を守る役割がある。なお、熊なども普通に生息しているため、里側は仙郷より『比較的』安全ということは、念頭に置いておく必要があるが。

 ともあれ、この山にも人が暮らす集落がある。人口は里に遠く及ばないが、人の往来は多い。その理由とは──。


「はっはっは!早朝の山は清々しいですなぁ、張さん!」

 はつらつとした声が、山に響く。あまりにもよく通るその声に、近くの木にいたリスが驚いて逃げていくのを、張景は視界の端で見つけた。

「いや、それよりも硫黄臭くて鼻がだいぶきついです……」

「はっはっは!張さんはよく鼻がきくようですなぁ!ほれ、もう少しで終わりますよ。それっ!」

「わわ!う、ウーさん!合図してから崩してくださ……熱ぅっ!源泉あつっ!」

 声の主──里長のウーは専用の長いツルハシ(を、加工したもの)で湯の通り道にこびりついた白い結晶を叩くと、結晶はボロボロと崩れ、それを上流の熱湯が押し流す。下流にいた張景は作業を中断し、急いで通り道から離れた。様子を見て、ウーと一緒に残った細かい結晶をごそぎ落とす。

 最後に、同行していた道士が不備がないかチェックをして、まずはひとつ、今日の無償奉仕任務は完了だ。

「いやぁ、やはりインフラ整備は良い!満ち足りた気持ちになる!堤防作りも楽しいですが、源泉管理も清々しいものですなぁ!」

 爽やかな汗を流しながら、ウーが降りてくる。なぜか作業前より肌ツヤが良い。

「ウーさん、張景ー、こんなもんで大丈夫ッス、撤収しましょー!」

 更に下流より声がかかる。同行していた警備隊の道士だ。

「マオ、おつかれー……。思ってたより大変なんだね、湯守の人って」

「そうだろうよそうだろうよ。とは言っても、普段は里の人があと三人は来てくれるんだがよぉ。仕方ないわな、今の時期は祭りの準備もあるから」

 マオと呼ばれた道士はニヒヒと笑う。

 李昴歴(マオリ)は赤毛の青年である。張景より背格好はやや小さく、外見年齢も同じか数歳ほど若い。しかしその実、張景より十五年ほど年上でもあり、道士としても先輩にあたる。

 しかし道士にとってはその程度の年の差は些細なものだ。彼の師は劉憑という武に秀でた仙人であり、その劉憑の洞が比較的近い(具体的には二キロ圏内)にあるため、交流が多い。つまりのところ、張景の友人だ。

「ウーさん、ご協力ありがとうございました!ほら、張景は炭焼き竈門の見回りに行くぞ!」

「うー、警備隊は人遣い荒いなぁ」

「お気をつけくだされ、御二方!こちらは一人でも戻れます故に!」

 ウーと別れ、しばらく山を下ると集落の裏手に出る。このあたりまで来ても、硫黄の匂いが漂う。この集落は桃源郷では数少ない温泉地であり、湯治場でもあるのだ。

 それ故に、桃源郷では珍しく宿泊施設があり、人の往来が多い。また、良い質の竹も山にあるおかげで、桃源郷の竹炭生産の多くはここで行なっている。

 故に、この集落は『炭中泉』と呼ばれている。

 集落から少し奥の山道には、いくつも竹炭用の窯が作られている。周囲に貼られた獣避けのまじないの点検が、張景たちの今日の仕事だ。

 数は多いが作業内容自体は単純なので、あっという間に作業が終わった。

「……ん?おい張景、あれなんだ?」

 撤収しようかと思った矢先、昴歴が何かに気付き、一点を指差した。その先には集落の人間が作った、椎茸栽培用のクヌギ原木が組まれている。

 その陰に隠れて、白くて大きな何かが見える。風に吹かれるたびに、白いシルエットがふわふわと揺れている。

「あれは……犬?」

 その声に反応するかのように、白い影がひょっこりと顔を出した。

 確かに犬──なのだが、あまりにも大きい。おそらく立ち上がれば張景の身長ぐらいにはなるでるあろう、巨軀。大量の被毛はそれを更に大きく見せ、被毛に覆われているにも拘らず、その筋肉が隆々としていることはすぐにわかる。

 それが、紐もつけずにこちらを見ているのだ。二人は瞬時に警戒したが──、白い犬は二人を見るなり、その巨大をぴょんこぴょんこと揺らし、耳をこれでもかと言うぐらいに下げ、尻尾を振りたくりながら近付いてきたのだ。

「ウフ、ウフ」

 犬は小さく吠えながら一、二回ほどクルクル回ると、張景にぐいぐいと頭を押し付けようとした。

「わー!張景!?大丈夫か!?もしかして噛まれた!?噛まれた!?死ぬな張景ーッ!」

「噛まれてないし、勝手に殺そうとするな!ちょ、力強っ!あ、もしかして撫でろってこと?待って待って」

 バランスを崩しそうになったものの、昴歴に支えてもらい、犬の頭を恐る恐る撫でる。とてもふわふわだ。しばらく撫でると、犬は満足気に背中を向け──たと思いきや、その場に座ってチラチラとこちらを見始めた。仕方ないので、背中を撫でてやる。

「こいつ、マスティフじゃないか?一度下界で見たことある。にしても、かなりデカいけど……」

 確かに昴歴の言う通り、この犬は非常に大きい。体高は張景の腰よりもやや高く、大人一人を乗せて走ることさえできそうなぐらいだ。張景も図鑑で見たことはあるが、ここまで大きい犬というのは張景も初めて目にする。

「種類はともかく、ほら。首輪だ。多分、猟犬なんじゃないかな?獲物を追って飼い主とはぐれたんだよ、きっと」

 張景が被毛を逆撫でると、確かに頑丈そうな首輪に、金色のタグがついている。首輪自体は真新しいが、飼い主の連絡先などは書かれていないようだ。

「ウッフ、ウッフ」

 白い犬は急に立ち上がると、軽い足取りで山の奥へ歩いて行く。

「ちょ、ちょっと犬くん!?君の家はそっちじゃないよ!」

 張景は慌てて追いかけようとしたが、昴歴は驚き、

「お、おい張景!追いかけるのかよ?」

「さすがに飼い犬みたいだし、見過ごせないよ。大丈夫、保護センターで獣の扱いは教わってるし、山歩きは慣れているよ。いざとなったら連絡するから、昴歴は先に戻って飼い主を探しておいて!」

 張景は昴歴にそう言い残し、犬を見失う前にと急いで後を追いかけた。

 最初は道らしい道を通っていたが、山沿いにある墓地を横目に通り過ぎたあたりから、すぐに足に雑草がまとわりつき始める。進む度に道の草木は深く、高くなり、木は空を遮り視界は薄暗くなる。

 だが、犬は上機嫌に、迷いなくずんずん前へ進む。あまりに躊躇のない歩き方なもので、張景もついていくのがやっとだ。

「シロくーん、こっちおいでー。もう帰ろうよ?」

 仮称・シロとして何度か呼びかけてみるが、犬は何度か振り返りはするものの、足は止めない。止まりはするが、ちょっとばかり足元の匂いを嗅いでみたり、落ちていた『いい感じの枝』を咥えてみたり。

(自由を満喫している……)

 あまりにのびのびとしている様子に、張景は心配で疲労していたものの、微笑ましさと──懐かしさを覚えていた。


・・・・


 まだ、下界にいた頃の話だ。

 当時の張景はそりゃあもう泣き虫で、年子の弟とよく喧嘩して泣かされていた。とにかく口より先に手が出る弟だったものだから、しょっちゅう叩かれていた。

 大泣きして、集落内で家出して、どこかに逃げ込んでは泣いて、それを兄が探しに行くのがいつもの流れ。

 だが、兄の体調が優れないときは決まって、イェンの家に潜り込む。家のおばさんが良くしてくれたというのもあるのだが、一番は──。

「ううう、はんちゃ……はんちゃ、びえええ!」

 この一家には『ハン』と呼ばれる老犬がいた。体に斑模様がたくさんある、元・牧羊犬。

 ハンは、一日の大半を家の裏手で寝て過ごす。寒い日は家の中へ。この時代では珍しく、引退後も可愛がられていた。

 そんなハンは子供に優しい犬で、幼い張景が泣いてやってくると、疲れて眠るまで体をぴったりくっつけて寄り添ってくれたのだ。

 特に何もない日であっても、ちょくちょく顔を見に行った。餌をやったこともあったし、体を洗うのを手伝ったこともある。

 いつの間にかいなくなっていたので、恐らくそういう事なのだろうが、張景は、あの犬が大好きだった。

 それを、思い出した。

 あの呪いに邪魔されることなく。


・・・・


「君は、ハンちゃんとは全く違う性格なんだね」

 白い犬をがっちりと捕獲して、張景は少し困ったように笑った。小川で水を飲んでいるところでようやく追いついたのだ。

 支給されていた道具の中にロープがあったので、それを首輪にしっかりと巻き付ける。あとはもと来た道を引き返すだけだ。背後に道は無いが、今の張景には符術ですぐにわかる。

「……シロくん、ありがとうね。『昔を思い出す』って、こういうことなんだ。そうか、こういう……」

 張景は、親指で犬の眉間を優しく撫でようとして──犬は嫌がるようにブルブルと首を振った。

「ええっ、ハンはここ撫でられると喜んだのに……。同じ犬でも違うんだなぁ。ははは」

 少し考えたら当たり前の事なのだが。それでもそれが、今は本気で不思議で、おかしくて、張景は声に出して笑った。


 さて、戻るかと思った矢先、それでも犬は奥に進もうとする。あまりに力強いため転びそうになったが、なんとか踏ん張る。

「キューン……」

「こ、こら。飼い主さん心配するから、もう降りるよ……ん?」

 犬が悲しげに鳴くものだから、張景は不思議に思って犬の視線の先を追ってみる。すると、かなり草木が生い茂っているが、道のようなものが見えた。どうやらあの先に行きたいようだ。

「……仕方ないか。シロくん、もうちょっとだけ付き合ってあげるね」

 縄は離さないように、犬と同じ方向へ歩き始める。犬もそこに行って良いとすぐ理解したらしく、先ほどまでの悲しげな顔は何処へやら。ルンルンと歩き出した。

 限りなく斜面と言ってもいいほどの道を登り、水気の多い道をぐちゃぐちゃと音を立てて歩く。張景は作業服だからともかく、犬の足は泥まみれのひっつき虫だらけだ。正直あまり触りたくない。

 そしてようやく、目的の場所であろう、開けた場所に出ることができた。

「ここは……家?」

 そこには、かつて家だった物が鎮座していた。

 人が住まなくなってどれぐらいだろうか。壁や柱はすっかり朽ちて、屋根の重みを支えられなくなり潰れている。その周りには背の高い植物や苔が侵入しており、とてもではないが屋内へはまず入れない。

 その廃屋には目もくれず、犬は真っ直ぐの廃屋の先へ走っていき──墓標の前で止まった。

 朽ちた家とは対照的に、手入れの跡が残っている。雑草は他と比べてあまり生えておらず、墓碑は土埃こそ被っているものの、苔はついておらず。なにより供えられた碗はまだ新しいようにも見える。

 犬はそこら辺に落ちていた枝を咥えると、墓前に置き、ケッケッと呼吸しながらどてんとその場に横になった。

「これは……」

 張景が近づき、墓碑に刻まれた名前を読もうとした。その時だ。

「そこには誰も眠っていませんよ」

「えっ……!?」

 急に背後から話しかけられて、慌てて振り返る。するとそこには、意外な人物が立っていた。

「じ……二郎、真君……?」

 スラリと美しい長身、鴉の濡れ羽色をした長髪、見る者すべてがため息をつくほど整った顔立ち──顕聖二郎真君。仙界府庁の実権を握る男であり、眉目秀麗の武神その人だ。

「失礼。李昴歴殿から報告を受けた時には驚きましたが、うちの哮天犬が迷惑をおかけしました。そしてはぐれ犬にも慈悲を忘れないとは、真面目に奉仕活動をしているようですね。感心しました」

「こう、てんけん……?ってことは、つまり……二郎真君の神犬ですか!?」

「この子は猟犬でも、神犬でもないですよ。宝器です」

「え……えええ!?宝器って、もっとこう武器武器しいものじゃないんですか!?鋲足虫だってメカっぽかったし……」

「ははは、張景殿、宝器って実のところ、割となんでもアリなんです」

 二郎真君は朗らかに笑うと、張景の隣まで歩いて来る。さすがに府庁のトップが隣にいるとなると、張景は肩を少し強張らせた。

「哮天犬は厳密には生物ではありませんが、命令に従い、自分で考える知能は与えられています。それこそ猟犬に近い。私が命じない限りは人には絶対襲いませんし、粗相もありません。事務仕事の間はこうやって自由にさせているんです」

「はあ……。でも、なんでここに?それに……」

 ちらりと墓碑に目を遣り、先程の話の続きを促す。

「ここには、かつて仙道のご老人が住まわれていたのです」

「こんなところに、ですか?」

「仙人にはよくある話です。商王朝時代の御方で、桃源郷に移られてからは貨幣制度の安定に取り組まれていました。哮天犬はそのご老人に懐いていまして、隠居後もこちらに来るたびに遊びに行っていました」

「……そのご老人は?」

 二郎真君は首を横に振った。

「ある日を境に、姿が見えず。よくあることです。だいぶ御身体が朽ちておられましたから、風や土と同化されたのやもしれません」

 二郎真君は墓前の前で屈むと、哮天犬を優しく撫でる。哮天犬は嬉しそうに目を閉じて、もっと撫でてくれと鼻を鳴らした。

「自分の為ですよ。哮天犬が寂しそうにするものですから、私も心苦しくて。たまにこうやって参っているのです。そうしたらほら、この子も真似をして枝を供えるようになったのです。賢い子です」

「……褒めるわりには微妙に距離を取っているような」

「だって、ばっちいじゃないですか。こら哮天犬、張景殿がお散歩してくれたからって、はしゃぎ過ぎです。めっ」

 そう言いはするものの、当の哮天犬はマイペースにごろんと仰向けになってしまった。腹までひっつき虫と草木の水分で汚れていて、悲しいほど汚い。

「はあ……。昨日洗ったばかりなのに。張景殿、申し訳ないのですが裏手に井戸があります。枯れていない筈なので水を汲んで来てくれませんか?哮天犬で炭中泉までお送りしたいのですが、これだと乗る以前の問題で」

「ええ、それぐらいお安いご用ですよ。犬を洗うのは重労働ですから、お手伝いします」

「そういえば張景殿は保護施設で、こういう事は慣れていらっしゃるか」

「それもあるんですが……」

 張景は嬉しそうに薄く笑みを浮かべ、

「小さい頃、大好きだった犬がいて。それで、経験が」

「そうですか。それはさぞかし、良い犬だったのでしょうね」

 二郎真君も、優しく笑い返す。張景は、なんだか自分の事のように誇らしくなり、上機嫌で井戸を探しに向かった。

 改めて、二郎真君は墓標に向き合うと、簡単に拱手で礼をした。そしてひとつ、小さくため息をつくと、


「……貴方は何処に行かれたのでしょうかね。姜尚殿」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で、そう囁いたのであった。

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