第18話 愛について(4)

 二棟裏手のフェンスの向こう──敷地外で、一人の男がああでもない、こうでもないといった様子でウロウロしていた。

 ボサっと纏まりのない赤毛が目を引く、二メートル近くはあろう大男だ。身長に見合った立派な体格ではあるものの、薄汚れた道着は、先程まで過酷な場所にでもいたのかと思うほど痛んでおり、顔も髭の剃り残しがある。

 二十代前半程度の外見ではあるが、下手すると浮浪者に見えなくもない。

 天明は、この男に見覚えがある。以前、ちょうど此処で出会ったのだ。

「……あーっ!お前はこの前の!」

 男は天明を見るなり、きっと目を釣り上げながら指を差す。天明はお構いなしに近付き、脳内の記憶を全参照して、

「……エツ」

 張越。

 張景の弟、つまりスイの弟でもある。そして天明が師事している紫微と似て非なる存在──太乙真人の現・末弟子。

 前回は一方的に罵倒されただけだが、今回は、

「お前……えーと、まあいいか。張景はいるか?」

「ケイは、しばらく休み」

「んだよ、また無駄足かよ……」

 張越は気だるそうに頭を掻く。

「しばらくって、どれぐらいだ?」

「二四日後に復帰、予定」

「どこに居るかは知っているか?」

「家」

「あー……、ってぇ事は、広成子さまンところかぁ……。うー……じゃあいいか、挨拶は」

 居場所を聞いた途端、張越は苦々しく顔をしかめた。少しの間、どうしようかと考える素振りをすると、天明の方をちらりと見る。

「お前は──そういやお前、名前聞いてなかったな。なんていうんだ?」

「盖天明祇」

「がい、みょ……何?」

「……」

 少し考えてから、フェンスまで近付く。近くに落ちていた木の枝を拾い、しゃがんで地面に文字を書き始めた。ずっと昔、スイが当て字を決めた時を真似しての事だ。

「がいは、フタの盖。天が明ける、祇はまさに」

「ふーん……。つまり、どう呼べばいいんだよ」

 張越もしゃがみつつ、フェンス越しに地面を見つめる。

「天明」

「最初からそれ言えばいいのに、変な奴」

「……」

「……」

 少しの間、何もするわけでもなく沈黙が流れる。張越の表情はどこか物憂げで、居心地が悪そうであった。

「……じゃあ、そろそろ行くわ」

 ぽつりとそう呟き、張越は立ちあがろうとした。重い体を引き摺るように。

 その瞬間、

「エツ」

 と、思わず声をかけてしまった。

 天明は、自分が声を上げたことに驚いた。理由がわからない。何か言わなければならない事があったのか?と、自問自答してみたが、答えが出ない。

「なんだよ……。ていうか、張を付けろ、一応」

 気怠そうに張越が返事をする。天明はぽかんと張越を見上げたまま、しばらく考え、

「……なぜ?」

「おれが聞いてるんだけど!?」

「……?」

「なんだよ、呼び止めておいてその顔!?……っぷは、顔はいいのに間抜けでやんの」

 張越はケラケラと笑いだす。笑った顔を見るのは初めてだった。

 と同時に、なんとなく『スイに似ている』と思った。顔はあまり似てはいないというのに。天明は不思議そうに張越を見つめていた。

 ひとしきり笑い終えると、張越は、

「で、なんだよ」

「少し、待って」

 天明は考える。目の前の、この男にどのような言葉をかけたかったのか。

 ようやくある程度理解して、それで内容を精査する。どうしても避けられないあの名前。張景との約束はまだ守る必要があるのか。色々と、本当に色々と考えて。

「相談」

「……相談だぁ?」

「うん。ス、世話になっている、人が、異動するかも、しれない」

 とりあえず、ぼかして伝えてみることにした。

「その人に、迷惑かけないように、先生に稽古をつけてもらっていた。でも、その人は行くと言う。わからない。俺は、人ではないから」

 張越は、訝しげに天明をジロジロと見ている。天明はその意図がわからず、ひとまず話を続ける。

「異動したら、もう会えないらしい。そんなこと、言う奴ではないのに。なぜか、わからない」

「……」

 どしんと、張越はその場にしゃがみ込むと、天明をじっと見ている。ほとんどガンつけに近いが。

「……そいつは、何も言わずに勝手に出ていくような奴かよ」

「それは、……」

 天明は何も言えなかった。

 張越は、眉間に皺を寄せながら、

「お前のことは知らねーけど、でも、そいつがスッゲェムカつく奴なのはわかった」

 と、吐き捨てるように言い放つ。天明は、はっと顔を上げた。

「お前はムカつかねぇのかよ。悔しくないのか、ワケもわかんねぇで、捨てられて」

 怒気を隠そうともせぬ口調。

 その理由を未だ知らぬまま、しかし天明はその問いに対しては、明確な答えを持っていた。

「違う」

「……は?」

 迷いのない返答に、張越は面食らったように目を丸くする。

「違う」

 確信に満ちた、しっかりとした口調でもう一度、口にする。

「俺は、捨てられていないよ」

 その言葉をどう受け取ったのか──、張越は顔を真っ赤にして立ち上がると、そっぽを向いて歩き出した。

「ケイ」

「うっせえ!気安く呼ぶな!」

 フェンス越しに呼んでみるものの、天明の声は張越の怒声にかき消されてしまう。

「なんだよ、悩んでいるとか言っといて、お前は、お前は──」

 ギリ、と奥歯を噛み締める。そして一度振り返ると、

「……ばーーか!!!もう知らん!!!」

 と、吐き捨てて走り去っていった。馬すら追い抜かんとする速度で。

「…………」

 その後ろ姿はすぐに見えなくなったものの、天明はなぜか張越が気になって、張越が向かった方向をじっと見ていた。

 ずっと見て、幾許かの時間が過ぎ──空模様が怪しくなり始めた頃、パラパラと小雨が降り出した。天明は濡れる事はあまり良しとしなかったが、どうしても動けないでいて、まるで石像か何かのように微動だにしなかった。

 すると、

「やっと見つけた!なにしてるんだ、濡れるぞ?」

 背後からの呼びかけにようやく振り返ると、そこには傘をさしたスイが立っていた。少し顔が赤く、息を切らしている。走り回った直後のようだ。

「あーあー、こんなに濡れて……珍しいな。こんなところで何してたんだ?」

「……」

「……」

「……考える、とは」

「そうか、とりあえず中に入るか」

 やれやれと困ったように笑いながら、スイはめいいっぱい腕を上げて、天明を傘に入れる。そして二人は屋内までの距離を、少し無言で歩いた。

 そこで最初に口を開いたのは、天明だった。傘に視線をやり、少しばかり考えるように視線をあちこちに移し、

「スイ」

「ん?」

「別館の」

「……ん」

「これが、理由?」

 天明が指差し差した先には──、傘を持つスイの手。

 スイは目を丸くして天明の顔を見上げて、少しだけ、泣きそうな顔で笑った。

「そうだ」

 そして少しの無言の後、

「オレは、兄ちゃんだからな」

「うん」

「兄ちゃんは、弟を守らないといけないから」

「そうなのか」

「他の所は知らないけど、オレはそうなんだよ」

「俺は弟なのか?」

「えっ」

「ん?」

 二人は顔を見合わせて、やがて堪えきれなくなったスイが肩を揺らして笑い始めた。天明は意図がわからず、とりあえず傘を落としそうなスイの代わりに傘を持ってみる。

「……勝手に決めたことは謝るよ」

 息を整え、スイがぽつりと謝った。天明は、しばらく言葉を探して、

「わかったから、大丈夫。怖くは、ない。……ただ」

「ただ?」

「……なんで、俺に最初に話さなかったのか、とは、考える。うまく、言語にできない、けれど。そこは、理由がないと、不安になる」


 その瞬間、スイの中でなにかが爆ぜた。


 そのままスイは辺りを見渡すと、数十メートル先の三棟の軒下で、夔の助産が終わり一安心しながら外気で涼む雲中子を見つけ──一目散に駆け出した。アツユに追い回された時をも凌ぐ程の速さで、

「雲中子ぃぃぃ!!!て、天明が!!天明がやきもち妬いたぁぁぁぁ!!!!」

「な、なんだってーー!!??」

 騒々しくなにやら慌てふためく二人を、天明は遠くからきょとんとした顔で眺める。その意味を理解はしていなかったのだが、

(あれ、これは)

 いつの間にか、胸の内がなんだか少し晴れたような気がして。

 その理由を言語化できるようになるのは、もう少し先のことになるのだが、今は遠くで呼ぶ声に、天明はゆっくり足を向けるのであった。


・・・・


 小雨が煩わしい。

 張越は、不機嫌そうな面構えを隠す事なく、トボトボと砂利道を歩いていた。彼以外に人影はなく、いつも自分の前にある斜陽で伸びた影も、今は雲に隠れて姿を現さない。

「……なにが違う、だ。それじゃあ、おれがまるで……」

 ぶつくさと一人ごちても、相手がいないようでは賛同も否定もされないただの堂々巡りになる。

 それは彼が一番よく知っている。だが、

「……哪吒の兄貴はいまどこで仕事してるんだろう。師匠も、どこにいるんだ……」

 一抹の望みを賭けて立ち止まり空を見上げる。が、風火輪を操り空を駆ける兄弟子はおろか、鳥の一羽すら飛んでおらず、張越は肩を落とした。

 重い足取りで再び歩こうとしたその時、張越はふと何かを思い出し、きた道を一度振り返る。

「あいつの名前、たしか、ガイ……テン、みょ……ミョウジ?だったか」

 記憶を手繰りながら、しばらく考え込み、やがてひとつの答えに行き着いた。


「そうだ。修行に行くときに声をかけてきた変なヤツ、あいつの探しもの?が、確かそんな名前だったな……」


 その変な人物とはそれ以降は会ってはいないが、会うことがあれば聞いてみるかと考えながら。

 張景は夜の気配漂う道を一人、歩くのであった。

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