第18話 愛について(2)

 事の発端は、脱走事件の二日前に遡る。

 その日の天明は虚越泉に潜り、修行に励んでいた。

「──さて、今日も最初は精神統一を行う。己が何のために修行に励み、何を以って何を成すかを考え行動するように」

 毎回、この瞑想の後に修行本番となるわけだが、ここしばらくは体術がほとんどで、何時間も通しで水人形や宝器まがいの機械妖獣と組み手をする。

 もし雲中子が見ていたなら、『また無断で知らない宝器を持ち込んで!』と怒るか、『ワァ、少年マンガの修行編みたーい』と現実逃避するかの二択であろう。太乙真人および紫微はうるさく言われるのが嫌なので、修行内容を聞かれたら口裏を合わせるようにしているが。

 思った以上に天明が素直に指示を聞き、要領こそ良くはないものの、直感は良い為か着実に成長するのが見ていて明らかなため、紫微も最初よりは指導に力を入れている。

 が、最愛の愛弟子至上主義なのは変わらずで、弟子自慢が時折入る。特に休憩中はよく喋る。

 修行前半のダメ出しの後は決まって、

「まったく貴様というモノは。我が愛弟子なら柔軟に思考し応用をすぐ効かせていた。あの子は武の天才故にな。無論、それ以外も完璧だ。愛弟子である哪吒は文武両道容姿端麗、最早芸術!そもそも生まれる前から(中略)成長してからは物腰も柔らかく聡明になり、私の言う事も……言う、こと、も、……」

 紫微は言葉を搾り出そうとしたが、それ以上は出てこず、口を二、三度ぱくぱくさせる。そのあとは決まって、

「……再開だ。立て」

 と、何事もなかったかのように修行を始めるのだ。

 これがほぼ毎日の流れ。天明自身は持ち前の「そうなのか」で受け入れるため、比較をされてもケロリとしたもので。

 だが、問題のその日は上記のようなやりとりをした後、ぽつりと呟いたのだ。

「……このような身に堕ちようと、未だに捨てられんか」

 己自身を卑下するような、薄い笑みを浮かべる。その感情をどう呼ぶかは天明は知らない。故に、じっと紫微の言葉の続きを待った。

 紫微は天明の視線に気づいたのか、少しばかり眉間の皺を緩め、空を見上げる。

「かつては我が輩も、三清に迫るのではと期待される程ではあったが。どれほど完璧であっても捨てられぬものがあった。それが、愛だ」

「あい」

 天明でも、耳にしたことはある。長い旅の途中、言われたことすらある。だが、意味は理解していない。スイは『いまは、説明できる自信がない』と言っていたことは、覚えている。

 天明にとって、最も不思議な言葉だ。

「仙道とは、最終的には個を捨て宇宙と同化することにある。個を捨てるには、あらゆる関わりを手離さねばならん。家族も、友も、地位も、そして喜怒哀楽……感情の全てだ。捨てたはずだったが、結局は捨てられなかった。それで我が輩も天仙止まりよ。それは此処の太乙真人も変わらんがな。我が輩という存在は、クク、どう足掻いてもそうなる運命らしい」

 自嘲じみた笑いと共に、大袈裟に肩を落としてみる。しかしすぐに背を伸ばして、

「だが、この愛に後悔無し!我が愛弟子・哪吒に対する愛こそ、我が輩が我が輩たらしめんとする物。我が輩としたことがつい弱音を吐いてしまうとは。哪吒ちゃん成分を摂取せねば。ううぬ、『上の』我が輩め、こっちの哪吒ちゃん最新動画はまだか!」

 いつもの調子に戻ったのか、紫微は一人で納得して怒り出す。天明は何も言わずにじっと聞き返していたが、紫微は天明をちらりと見ると、

「……となると、最も“宇宙“に近いガイテンミョウジに意思を持たせるという事は、あの童は……」

 と、言いかけて、ふと閃いたように目を大きくさせた。

「兎も角、愛を学ぶことも良い機会かもしれぬ。どうだ、ものは試しに哪吒ちゃんファンクラブに入らないか。活動内容は、最新の我が愛弟子の写真を撮影して我が輩の端末に」

「……スイから、宗教の勧誘は、受けるなと言われている、ので」

「チッ」

 会話はそれで打ち切られ、あとはいつもの修行が続いた。しかし、紫微の言葉は天明の記憶の片隅に確かに残ったのだ。ほかの記憶よりも何故か、鮮明に。

 本人にすら自覚のないまま──。


・・・・


「……つまりお前は、紫微サマの会話で、『愛』がなんたるか興味が湧いたって事か?」

 検査室で一通り検査を終え、長いカウンセリングを行った末に、スイは恐る恐る尋ねる。

「…………」

 天明は向き合って質問を投げかけるスイの顔をじっと見たまま、ただ無表情であった。数秒ほど見つめ合ったあと、スイは椅子をくるりと雲中子の方へ向け、

「雲中子ー、自覚ないって」

「翻訳ありがとう。よしよし、脳波は相変わらずメチャクチャな数字叩き出してるネ。至って正常だ」

 部屋奥の机で検査結果をまとめながら、雲中子が返事をする。

「それにしても……愛、愛かぁ。人類永遠のテーマのひとつじゃないか。じゃあ天明、聞き方を変えよう。ボクが愛とはなんなのか、答えを知っているとしたら聞きたい?」

 天明は雲中子の方へと視線を向ける。先程と同じように、しばらくじっと見つめたあと、薄く唇を開いた。

「うん」

 回答を聞くなり、スイはうなだれながら両手で顔を覆った。非常に難しい顔をしながら。そして弱々しく、

「……道長、お願いします」

「キミってさあ、都合のいいときだけ道長呼ばわりするよネ!?ちょっとこっちに来なさい!」

 スイは渋々と雲中子の元へ移動する。雲中子は顔を寄せると、ヒソヒソと小声で話し始めた。

「そもそもキミ、愛って言葉の意味をちゃんと教えてる?いままで教えなかったワケないよネ?」

「……ほ、ほとんど、教えてない〜……」

 珍しく情けない声だった。

「教えてないって……なんで?理解はともかくホラ、夫婦とか家族とか、どういう者の間に生まれるとかサ……」

「常識を覚えさせるので精一杯だったんだって〜……。それに……」

「それに?」

「……オレも生きるのに必死で……、説明するほど、経験が……」

「デリカシーないこと言ってゴメンね!?」

「役に立たなくてごめんな……。もっとオレがしっかりしていれば……オレ、が……」

 徐々に、スイの呼吸が不規則になり──雲中子は顔色を変えてスイの肩に手を当てた。

「っ!スイは悪くないから!ほら、座って。息吐いて。ゆっくりだヨ。大丈夫、もうこの話おしまい!」

「……っ、……う、ん」

 うずくまりかけたスイを座らせ、背中を摩る。

 天明が即座に立ち上がったが、雲中子は「大丈夫。ボクがついてる」と言い聞かせた。

 スイを落ち着かせている間、雲中子は考える。

 彼の生い立ちは、事件後の張景の話からだいたい聞いている。それに加えて彼本人に、話を聞いたのだ。あの遺書の真意も含めて。

 ──結果、彼の心には他民族へのトラウマと自己嫌悪が渦巻いている。

 自分と他民族には決して破れない壁が存在すると、彼は信じている。もう自分と同じ民族が存在しないが故に、他者とは決して真に分かりあうことはできないと、心の底で他者を拒絶しているのだ。

 加えて自身の選択の後悔。結果だけ見れば彼は最善の行動をして、無事に弟を再会を果たした。少なくとも張景には和解の意思がある。

 一見素晴らしいことではあるが、二百年溜めた罪悪感は消えない。今も彼を苦しめている。

 過去が露呈したことによって、スイは己の事を以前よりは多少話すことはあったが、以前の(おそらく『そういうキャラクターとして』の)笑顔は少なくなり、代わりにネガティヴな発言が多くなった……ように、雲中子は感じている。

 今のように、自分を責めては体調不良を引き起こすことが増えた。過呼吸が特に多く、嘔吐のない吐き気や震えが止まらなくなることもしばしばで。

 天明もそうだが、スイにもまだ問題はある。

(これは、脱走の協力者を探るのはしばらく無理そうかな。ま、検討はついているケド)

 そう考えながら、雲中子はスイに優しく話しかける。

「……ごめん、迷惑かけた」

 しばらくして、呼吸の落ち着いたスイが申し訳なさそうに呟いた。雲中子はにこりと笑いかけ、

「気にしない、気にしない!それよりホラ、本題。愛とはなにかって話だったよネ。うーん」

 指を顎に添えながら、雲中子は思いに耽るような仕草をして、

「ボクも奥さんと子供に逃げられたクチだから、あまり偉そうな事を言える立場じゃないケド」

「反応に困る……」

「ハハハ、今となっては笑い話サ。でも天明、愛は一番難しいんだヨ」

 雲中子は天明の前まで歩き、トン、と指で天明の胸を軽く突いた。

「なにせ、人によって答えが違うんだ。気持ちも、対象も、方法もネ。こればかりは天明が自分で考えて、自分なりの答えを見つけなきゃいけない。何十年、何百年かかるかもしれない。一生わからないかもしれない。でも、考えてみるのはとても良い事だと思うヨ」

 天明はきょとんとした顔で見てくるだけで、果たして意味を理解しているのかは雲中子にはわからなかった。それでも雲中子はいつものふにゃりとした笑顔を見せて、

「そうだ。まずはみんなに聞いてみてはどうかナ?うん、それがいい。後で誰かに尋ねてみるといいヨ!」

「……わかった」

 天明の返事に、雲中子は満足げに頷く。

 その時だった。扉が数回ノックされたかと思うと、職員が入ってきたのだ。小柄で、綺麗に結われた黒髪が愛らしい印象の、少女のような仙女、蘇紅玉である。

 蘇紅玉は三人の姿を確認するなり、まず天明とスイに会釈をして、雲中子にツカツカと歩み寄る。

「所長、こんなところにいた。さっき仙界府から、住民説明会の原稿がまだ届いていないって連絡が来たんですけど。締切が今日だってお忘れですか?」

「あ、アハハ、忘れてないヨ。夕方までには仕上げるから……」

 蘇紅玉に詰め寄られて視線を逸らす雲中子──の目に、こちらに近づく天明の姿が映る。それに気付いた蘇紅玉も振り返り、ドキリと胸を高鳴らせた。なぜなら、その視線は間違いなく彼女に向けられていたからだ。いままでこんなに真っ直ぐ、情熱的(?)な目を向けられたことはあっただろうか。いいや、無い。

 天明は迷いのない目で、はっきりと、こう告げたのだ。

「愛とは、なんだ」


 間。


 蘇紅玉は硬直し、スイは頭を抱えて、雲中子はポカンと口を開けていた。

 そして、

「……あ、愛ぃ!?ああああああ、て、天明様が!愛、愛って!愛……あ、ヒィィィ!!」

「あーっ!紅玉ちゃんがぶっ倒れた!」

「天明、ステイ!ボクがみんなに周知しとくから!聞くのは一日待って!」

 

 こうして、天明のいつ終わるかも不明な宿題が始まった。のだが──。

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