番外編 ある男の半生と独白
もう随分と昔の話です。
当時の私は西岐で役人をしていました。役人と言っても地位はあまり高くなく、下っ端に足の生えた程度です。
土地の測量をして、年貢の量を計算する仕事が主で、毎日いろんな場所を駆け回っていました。
家族は嫁と子供が二人。嫁は静かな性格の女性で、見合い結婚で結ばれました。今にして思うと、よくもまあこんなつまらない男に何年も付き添ってくれたものだと、感心してしまいます。
子供はふたつ離れた兄と妹。兄弟仲は……よく覚えていません。なにせ、下の子が三つになるかならないかの頃に、上の子は病気がちになり、よく熱を出していたからです。
ご存知の通り、当時は医者も、現代のような医術すらもありません。思えば上の子は気管支が弱く、喘息を患っていたようでしたが、今となっては病名も原因もわかりません。
上の子は歳を経るごとに、床に伏せる時間が長くなり、食も細くなりました。薬を飲ませてみても、体に良いと言われた薬膳を与えてみても、一向に良くなりません。なにせ我が家の長男ですから、与えられるものは可能な限り与えました。
圧迫する家計、周囲からの目、疲弊する家族、良くならない長男……。
私はそれらから逃げるように、必死に仕事に打ち込みました。
仕事さえしていれば、少なくとも家の為になる。そう思うことにしていました。
ただの思考放棄です。仕事という大義名分があれば、親という体裁を保っていられるという安易な保身。
日に日に弱っていく長男とも、いつからか寄り付かなくなった下の子とも、妻からの期待されていない眼差しからも逃げることができたから。
結果、長男は十歳を迎える前に亡くなりました。
その後のことは非常に断片的で、いまだに思い出そうとすると手が震えてしまいます。……今でも弱い男のままで、情けなくなってしまいます。
こんな父親でしたが、子供達は愛しているつもりでした。ただ、長男の葬儀を行ったことは覚えているのですが、今も記憶がごそっと抜け落ちています。
そして、長男の葬儀から数ヶ月後か、数年後か……。ある日、日暮れ前に家に戻ると、普段いるはずの嫁と娘がいませんでした。
私は必死になって探しました。当時は外灯なんてつけている家もそうそうありませんでしたから、日没したらもう辺りは真っ暗闇です。大人といえど、とても出歩けるものではありません。
それでもギリギリまで探し回って、成果が得られずにトボトボと帰路につくと、見かねた隣の◾︎◾︎◾︎が訪ねてきて、妻と娘が出て行ったことを知りました。
そのときの私は、◾︎◾︎◾︎で◾︎が崩れ◾︎◾︎、◾︎◾︎◾︎◾︎──。
結局、◾︎◾︎◾︎は──で、────。
割愛して。
仕事だったと、思います。その日は少し遠いところにある町へ、◾︎◾︎と出向いて、仕事をしていると、ふいに遠くから見覚えのある顔が見えました。
間違えなどするものか。あの妻と娘が、仲睦まじそうに歩いているではないですか。
──知らない男と共に。
その瞬間、私はもう、全てがどうでもよくなりました。
裏切られたことへの怒りも、自分自身の情けなさも、親類からの世間体も、すべて混ざり合った『どうでもよい』が、濁流のように体内に流れ込み、気が付いたら時には半狂乱で走り出していました。
妻たちが私に気付いていたのか、それは知りません。私は狂気のまま無我夢中で走って、走って、走って──、遂には名も知らぬ山中を彷徨っていました。服はあちこちにひっかけてボロボロ、履き物も片方脱げています。特に顔なんて酷かったでしょう。なにせ涙と鼻水で顔中ヒリヒリと痛かったですし。
夜も更けて、あたりは獣の声や風で木々が揺れる音しか聞こえなくなりました。本能的に怖くはありましたが、それ以上に『これで妖獣に遭って喰われてもいいや』と、清々しいまでの自暴自棄でどんどん奥へ進みます。
するとどうでしょう。奥から木が爆ぜる音がします。よく見るとほんのり明るく、誰かが火を焚いているようでした。
他に行くあてもなく、やはり心寂しかった私は、虫のようにフラフラと光源へ引き寄せられるように進みました。
そこで、彼に出会ったのです。
・・・・
「エイヤァーー!!ヤッホッホ!!ホホイヤ!ホッホッホーー!」
異常な光景でした。
そこにいたのは、全裸の男でした。
全裸の男が、こんな山奥で、奇声を上げながら、焚き火の周りで珍妙な踊りに耽っているではありませんか。しかもその顔は真剣そのもの。訳がわかりません。
あまりにも現実と剥離した光景に、私は思わず腰を抜かして、その場にへたり込んでしまいました。言葉にすれば滑稽ですが、当時の私はそれを視覚情報としてダイレクトに見てしまったわけですから、衝撃はすさまじかったと思ってください。
男の年齢は三十前後──私よりやや下ぐらいの風貌で、長髪で色白、糸目と言えるほど細長い目が特徴的でした。決して悪くない顔の、いい歳した男が、なぜこのような奇行に勤しんでいるのか、わかりたいような、わかりたくないような。
「……おや?珍しい。こんなところに人が来るとは」
「ヒッ」
男に気付かれ、私は短く悲鳴を上げました。何をされるかわかったものではありません。
「すすす、すびばぜんあだじいぼどではははは」
「何を言っているかわからないのですが。酒しかありませんが、一杯飲んで暖まりなさい。師匠からくすねてきた秘伝の酒ですよ」
全裸の男は思ったより親切で、酒を取りに少し離れた茂みまで歩いていきました。私は足腰が動くようになったので、這うようにして火の近くまで移動しました。自覚はありませんでしたが、火に当たった途端、自分の体がどれだけ冷えていたかに気づき、驚いたことを覚えています。
全裸の男は酒をなみなみと注いで戻ってきました。正直なところ、ついでに前だけでも隠して欲しかったのですが。
仕方ないので我慢して、有り難く頂いた酒を一気に飲み干しました。味はよく覚えていません。男は驚いたようでしたが、すぐに上機嫌になり、
「あなた、よい飲みっぷりですね」
と、ニヤリと笑って更に酒を振る舞ってくれました。お言葉に甘え、もう二杯ほど飲み続けると、すっかり身体も暖まり。
「……あんた、ここで何をしてるんだ?そんな格好で」
つい、聞いてしまいました。思い返せば、これがパンドラの箱というやつなのかもしれません。
男は意味ありげに間を含ませて、こう言いました。
「──私の道(タオ)に、必要だと。ふと思い立ち、踊っていました。夕暮れ時から」
「…………は?」
意味がわかりません。
「己と他の境界とはなにか、考えていました。考えた末に、まずは自然そのものに感謝を捧げ、歩み寄ってはどうかと思いました。南西の部族がやっていた儀式をうろ覚えでやっていましたが、多分これ、意味ないですね。しかし遠回りもまた道、と思うことにしました」
この人は、というか人なのでしょうか。おおよそ人間という摂理から、かけ離れた生き物なのではないかと思いかけた頃です。
「申し遅れました。私は広成子。崑崙山で仙人をしている者です」
「あ、ハイ、私は◼︎◼︎という者です」
悲しいかな役人の性。名乗られると自然と名乗り返してしまいます。こんな不審者に本名を教えてしまったのは、正直どうかと思います。
しかし広成子と名乗る仙人(かどうかも怪しい)は、ふんふんと頷くと、
「それにしても、どうしたのですか。こんな夜更けに一人で。遭難ですか?よければ明け方に麓まで送りましょう」
そう、予想外に親身になってくれたものだから、酒のせいもあって、気がつくと私は目から大粒の涙を溢していました。そして嗚咽混じりに、これまでのことを男に吐露しました。
男はふんふんと頷きながら、黙って私の話を聞いてくれました。そしてひと通り聞き終えると、すくっと立ち上がり、
「──踊りましょう」
「……はい?」
「せっかくこうして出会えたのです。今日を悲しいままで終わらせるのは勿体ないです。幸い、師匠からくすねてきた、よくわからない楽器もあります。踊り明かす準備はできていたのです。なんてことだ、これが真の道だったのか」
「あの?勝手に提案して勝手に納得しないでくれます?」
広成子は私の意見などには耳を貸さず、さっさと準備を始めてしまいます。
「それに、わたしは踊ったことがありませんし、第一……」
「未経験者で結構!それになにより、あなたの姿をご覧なさい!ほぼ私と同じではありませんか!ダンスパーティーコーデ、ここに極まれり!」
何を言っているかさっぱりわかりませんでしたが──。なるほど確かに、改めて自身の格好を見ると、ボロボロではありませんか。
衣服は乱れてほぼ脱げており、服も枝葉にひっかかったのか裾は所々破れ、汚れています。ほぼ全裸に近いといっても過言ではありません。
広成子が私に琵琶を渡してきたと思うと、高らかに、連結太鼓を叩き鳴らします。
「……こうなりゃヤケだチクショーーーー!!!」
私は、もうどうにでもなれと、琵琶をかき鳴らしました。弾き方なんて知らないのでいい加減で、とても音楽とは呼べません。
ただ、でも、生まれて始めて、自由だと感じました。
めちゃくちゃな演奏に、唄に、踊りに、時々酒。その宴は一晩中続き、気がつくと私たちは、陽が随分高く上がった時間帯まで眠りこけていました。
二日酔いで多少気分は悪かったですが、不思議と気分はスッキリしていました。
広成子はけろっとしており、こちらを見てニコリと笑いかけます。ちゃっかり自分は服を着ていたのが、少し解せなかったですが。
「今更ですが、昨日の儀式は動物除けを施していたのです。普通なら人も弾きますが、あなたは違った。どうやら仙道の素質があるようです。どうです、崑崙山で修行をしてみませんか?私が推薦しましょう」
その提案に私は驚きましたが、
「……ああ、それも私の道ってことなら、やってみようかな」
それは昨日までの自棄ではなく、私の本心で。やってみよう、そう心から思えたのです。
そこからは崑崙山に連れられ、百数十年の修行後に仙人と認められ、植物の研究を初め、一悶着あって弟子を貰い、弟子が育てていた桃を盗み食いしたら鳥人間になってしまいひと騒動あり──、それがきっかけで神獣や妖獣の勉強も初めて、なんやかんやあって──。
・・・・
妖獣保護センター・所長室、の奥にある雲中子の私室。
本来は資料室になるはずだったのだが、雲中子がここで寝泊まりを初めてからはすっかり彼の私室と化している。土足禁止のスペースには、ちゃぶ台にスノコに布団直引き、コタツにギチギチの本棚、積み上げられた海外ドラマのディスクボックスの上に、アナログ・デジタル問わずの様々なゲーム。はじめてここに訪れた者は、これが仙人の部屋とはとても信じられないだろう。
その部屋の持ち主である雲中子は、コレクションのひとつである黒いエレキ・ギターを磨いていた。ピカピカの鏡面仕上げに満足していると、横から、
「……雲中子ってさ、ギター弾けるの?」
スイが話しかけてきた。
時刻は夜の十一時。眠れないため本を借りに来ていたのだ。無論、その横には天明もいる。
雲中子はふふんと得意げに笑い、
「弾けないネ!」
「なんで誇らしげなんだよ。ということは、弾けないギターを持ってるってこと?しかも、三本も」
スイの言う通り、部屋の隅にはケースに入った残り二本のエレキとアコースティック・ギターが立てかけられている。それを指摘されると、雲中子はふにゃりと笑った。
「弾けないんだケド、昔から弦楽器が好きなんだ。練習する時間がないから、たまにジャンジャン鳴らすぐらいだケドね。そうだ、弾くならスイに一本あげようか?音楽はいいヨ、気分転換になる。オススメはこの、戦国・ザ・ロッキューコラボの慶次KABUKIモデルが」
「いや、今はいい……」
あっさり振られて、雲中子は残念そうに口を尖らせる。
「それよりも、仕事がしたい。毎日することがなくて、暇すぎて頭がどうにかなりそう」
「それは自業自得だヨ。キミが触っていいものや、侵入可能範囲を再検討している間は我慢して。それに、精神判定がかなり黒寄りのグレーなんだから、刃物・農具接触禁止。爪切りだけでも許可されたぶん幸運と思いなさい」
「ぐう……」
「ま、いまはお仕事お休みさせてるんだし、せっかくだから趣味のひとつでも持ちなさいな。興味があったらいつでも貸すから、ネ?」
「趣味……趣味ねぇ……」
生返事をしながら、スイは本を探す作業に戻る。
思えば、スイはよく働き学びはすれど、これといって休暇に趣味などを楽しむ、という姿を雲中子は見たことがない。強いて言うならば彼の趣味といえば貯金ぐらいだろうか。あれも実態は遺産貯金だったのだが。恐ろしさで身震いしそうになる。
と、
「……うげ」
見るからに嫌そうに、スイが顔を歪ませる。何事かと思い身を乗り出すと、スイの手には一冊の詩集。李白のものである。
「どうしたの、李白、嫌いなの?」
「いや、うん、ちょっと。……あ」
ふと、何かに気づいてスイは立ち上がり、窓際まで移動する。僅かに開いていたカーテンを全開にして、窓の外を指差す。
「ほら、今日は満月だ。どうりで明るいと思った」
その瞬間──、雲中子は言葉を失った。
・・・・
あれはいつだったでしょうか。
家族が寝静まった夜に、ふと目を覚ますと、珍しく長男が半身を起こして、窓から部屋に差し込む月光をじっと見ていました。どうやら寝床に光が当たって目覚めたようです。
「……どうしたんだい、◼︎◼︎。眠れないのかい」
妻たちが起きないように小声で呼びかけると、長男は少し驚いたようにこちらを見て、柔らかい笑みを浮かべて、
「とう様、ほら、お月様。あんなにおっきい」
長男が指を差した先には、確かに見事な満月が窓から顔を覗かせていました。
しかし私は、息子の話なぞ興味はなく、
「早く寝なさい。風邪をひいてしまう」
と、長男を撫でて寝かしつけました。
……ああ、思い出しました。そのときの表情は、とても寂しそうで、私は未だに心の奥底で後悔しているのです。
あれは──。
・・・・
「そうだ、ちょっと待ってて」
急に何か閃いたかのように、雲中子はいそいそと道具をしまい、机とその周りを片付けて始める。大半が物を移動させただけだが、ひとまずスペースは確保すると、手招きした。
スイは訝しげに雲中子を見ながら、恐る恐る近付き、向かい合って座る。天明もそれに倣って、スイの斜め後ろに座った。
「眠れないならさ、眠くなるまでおしゃべりしようヨ」
「……ええ、そんな若い子じゃあるまいし。いいよ、今更話すことなんてないだろ」
「ある。大アリ。だってスイ、自分のこと話さないし。キミの計画が失敗して──それこそ今更キミに隠すことなんてないじゃないか」
「それは、別に教える必要もないし」
「必要かどうかじゃなくて、ボクが知りたいんだ。キミのこと」
「……」
言い淀むスイに、雲中子はニコニコと笑って、
「ほらほら、天明だって!スイが小さい頃どんな子だったか、知りたくない?」
「あ!ずるいぞ!別に興味ないもんなーお前は?」
急に話を振られて、天明は目をぱちぱちさせる。恒例の長い間の末に、出した答えは、
「……スイは、たまに小さい、と、言われる」
「それは言わなくていいぞ、天明」
「……これより、小さかったのか?」
「ぐわあぁぁぁ!!教育の敗北!!」
二重の意味で頭を抱えるスイに、嬉しそうにガッツポーズをする雲中子。お互いの意図が理解できず、天明は僅かに首を傾げた。
「ほらほら、天明の為にもお話聞かせてヨ。……話せる範囲でいいからサ」
スイはちらりと天明を見て、それからどこか気恥ずかしそうに俯いた。
「……話すって言っても、何から話したらいいか」
その言葉に、雲中子はパッと明るい表情を見せて、
「そっか。じゃあインタビュー形式にしよう!はいはーい、スイ選手!さっき李白の本を嫌そうに見てたけど、なんでですかー?」
「……それは、その、昔、爺先生が──」
・・・・
あのとき、息子は私と話したかったのだと思います。
仕事に明け暮れてろくに顔も合わせない父を、知ろうとしてくれていたのです。
きっと嫁も、娘も、私と話したかったはずです。
私が未熟なばかりに、現実から背を向け、彼女たちを不幸にして、私から逃げ出した。それを己が不幸だと思い込み自棄になるなど、なんとおこがましいのでしょう。
数千年生きていても、私の罪は、私が赦さない限り薄れることはないのです。生き続ける限り、私は向き合わなければなりません。
私は無意識に……彼に家族の影を重ねていました。
ただのエゴだと言われても、その通りなのですが──、私は今度こそ、彼と向き合うと決めました。
だって、
「……はい!オレが話したから次は雲中子の番!」
「え、ええ〜?じゃあ鳴ちゃんを拾ったとき、子捨てと勘違いされて修羅場になった話でも……」
「なんだそれ。オレの話よりずっと面白そうじゃん」
「ははは、そうだネ……あれは天気の悪い日で……」
私たちは今、こうやって話せるのですから。
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