第17話 不穏の種(1)
仙郷の連なる山々の更に奥深く。
──の、どこかの雪山。ひとり黙々と体を動かす男の姿があった。
二メートルに迫るほどの高身長、隆々と鍛えられた筋肉、そして放置して長くなった癖毛に無精髭。まだ二十代前半ほどの顔つきだと云うのに、雰囲気だけは高位の修行僧のように孤高だ。
だが、手当たり次第に岩を割ってみたり、震脚ひとつで周囲の木々に積もった雪を全て落としてみるなど、やっている事に一貫性がない。
やがて男は一息つくと、髪をまとめ上げてから岩陰に置いてあった荷物を出してきて、木にかけてあった上着の雪を払って羽織る。
「……はぁ」
特大のため息は白い吐息となり、ふわりと一瞬宙を舞い──次の瞬間には風に煽られてたちまち霧散する。それを目を薄めて見送った後、
「……そろそろ、降りるか」
と、誰に聞かれることのなく呟いき、その場を後にした。
・・・・
スイの脱走事件から、一週間が経つ。
その間、張景はずっととある場所に軟禁されていた。
そこは八畳弱ほどの広さで、クリーム色がかった白い壁の部屋。窓は無く、扉は内側からは開かない。出入り口付近に二つ扉があり、トイレとシャワールームに繋がっている。扉の反対側にはシンクとコンロがひとつ。戸棚にはヤカンがひとつとコップがふたつ。
部屋には病院で見るようなパイプ製のベッドに、机と椅子。机の上には何冊かの小説と、なぜか聖書が置いてある。
これだけだと単身者用ワンルームのようにも感じるが、一番の特徴は、部屋の隅に引戸が二つあることだ。これが特定の時間になると引戸の向こうから、
「張景さん、今朝はもうお熱測れましたか?」
「は、はい。六度七分です」
「かしこまりました。検尿コップ置いときますね。終わったら下段の引戸に入れておいてください」
「わかりました。お手数おかけします」
と、色々とやり取りをするのに使われる。
ここは隔離施設。
桃源郷の南東に位置する、病院の別棟である。
下界から迷い込んだ人間、あるいは下界の菌などに免疫の低い仙道などが、桃源郷に足を踏み入れた際にまずここに一定期間収容される。桃源郷の住民を下界の病原菌から守るためだ。
張景は後者──下界に殆ど降りたことがないため、あの後警備隊に真っ先に連れて来られた。
今日の検査で何も無ければ、外に出られるらしいのだが。張景はこの一週間、スイの安否が心配でならなかった。
(兄さん、どうしているのかな……。兄さんもここに居るとしたら、天明さんはあの後どうなったんだろう。さすがにセンターが爆発してたら、嫌でも耳に入ってくるだろうから、それはないと信じたいけど)
モヤモヤと考えが堂々巡りしてしまい、滞在中の張景はだいたい床で瞑想しているか、本を読んで過ごしていた。おかげで聖書に少し詳しくなったが。
午後に差し掛かり、ようやく扉越しに声がかかる。扉を開けたのは、白い制服に身を包んだ仙女職員だった。
検査結果は陰性。説明を受けて、簡単に片付けと退所準備をしてから外に出る。窓から差し込む一週間ぶりの陽光は、なによりも眩しく、しばらく目がチカチカした。
外に出ると、見慣れた人物が待っていた。
「景クーン!久しぶり!まずは検査結果が良好でよかったヨ!」
「あ、あれ?雲中子様?なんでここに?」
張景が困惑していると、雲中子は停めてあった巨大な葉を指差して、
「移動しながら説明するぜ、ベイビー」
指示されるがまま葉の上に乗る。雲中子も乗り込むと、葉は天高く浮上した。
「本来は広成子が迎えに行く決まりだケド。ボクが来たのはネ、キミの上司だからだ」
「え!?でも、僕はあのとき……」
「バッカだね〜!退職届も書いてないのに受理できるはずもないじゃん!」
「……すみません」
「いいってことよ。どっちにしろ、育ってきたスタッフをそう簡単に辞めさせてたまるかってんだ」
雲中子はくるりと振り返ると、にっこりと笑いかけた。その笑顔に、張景は少しだけ緊張が解れた。しかし、すぐにハッと何かに気づく。
あんなことをしておいて、雲中子から小言のひとつも言われないのだ。
猛烈に嫌な予感がして、恐る恐る尋ねてみる。
「その、もしかして、これから雲中子様と『職員として』行かなければならない場所があるってことです……よね?」
「はっはっは〜。ご明察!」
雲中子は、その笑顔のまま数秒ほどフリーズしたように動かなくなり、
「これからボクたちは、仙界府庁に行って、しこたま怒られます」
「うわ〜〜!!やっぱり〜〜!!」
「ボクは諸々の監督不届、景クンは無許可での下界往復と妖獣に対する暴力疑いネ。はっはっは、調書もしこたま取られるだろうから、覚悟するんよ!」
「ヤダーッ!自分で蒔いた種ですけどー!!」
張景が頭を抱えてうずくまるのを、雲中子がケタケタと面白おかしそうに笑う。だがそれが、逆に頼もしいというか、笑われていると次第に半分ほどどうでもよくなってきて、張景はしばらくしてようやく腹を括った。
雲中子もひと通り笑い終えて、
「ま、後者は大丈夫だと思うヨ。殴られた本人は『自分から襲ったから正当防衛』『ほとんどが逃走中に転んだ怪我』って言ってたらしいから」
「そうだ!スイさんはどうなったんですか!?天明さんも!」
「おっとっと!身を乗り出さないで!バランスが崩れる〜!」
張景は前のめりになった体を戻し、非礼を詫びてから咳払いをした。
「スイは本当なら一日早めに出る予定だったんだケド……熱が出たらしくて、まだあそこにいるはずだヨ」
「熱……」
「命に別状はないって。豪雨の中を脱走して、夜の平野を何キロもマラソンしてたんだから、そりゃ風邪ぐらいひくさ。まったく、心配ばっかかけて」
やれやれと、雲中子は肩をすくめた。
「天明は、今回特例で同じ施設にいる。といっても、さすがに対面はさせられないから、扉越しだネ。ずっと扉の前から離れないから、職員さんが困ってたみたい」
「そう、ですか……。とりあえず、お二人ともご息災で良かったです」
「安心したようでなにより。それじゃあ、景クン」
雲中子は前方へ向き直ると、ゆっくりと下方を指差した。いつの間にか仙郷に入っていたらしい。指差した先には、朱色の煌びやかな塔と、威厳ある巨大な建物がそびえ立っている。
仙界府庁。仙郷の仙道達をまとめ上げている組織の本拠であり、張景もよく知る場所。思わず緊張で肩が強張る。
「一緒に怒られに、行きますか」
張景とは裏腹に、雲中子はなんとも気の抜けた声でへらりと笑った。
これは怒られ慣れている人の顔だ、と張景は思ったが、口にしないことにした。
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