幕間4 そして彼は旅立った

 穏やかに、慌ただしく時間は過ぎていく。

 二人は主に罠猟で生計を立てていたものだから、朝の支度を済ませたら罠を見回りに行き、獲物がいれば締めて解体する。

 山を降りるときは、六根清浄を唱えて歩く行者のように、詩の暗唱などをする。呉蒙が題名を口にしたら、スイがこれに答える。間違っていると最初からやり直し。今ではほとんど間違えはしない。

 里に降りて買い出し、里の人間と他愛のない会話をして戻る。帰りの会話中、突如英語で話せと無茶振りをされることもある。

 それでもスイは従った。自分がいま、生活できているのは、この『教養』のおかげだと理解しているから。それでも、些か詰め込み過ぎではないかとは思うが。

 帰宅後は午後の家事をして、ささやかな夕食の後に勉学に勤しみ、眠る。それがここに来ての毎日。

 あと少しで終わりを告げる予定の、日常。


 最終日、前夜。

 夕飯のリクエストを聞いてみたが、逆に『お前の好きなものでいい』と言われてしまい、悩んだ末に銀杏と百合根を炊いたものを作った。銀杏は呉蒙の好物だ。

「スイよ。また野菜が繋がったままではないか」

「む……。いいじゃん、別に。お互い歯は揃って丈夫なんだし。噛みきれないわけじゃあるまいし」

「まったくお前は……。最後まで口が減らん」

「爺先生こそ、小言ばっかりじゃん」

「言わせているのは何処の坊主だか」

「……むう」

 と、口を尖らせながら、スイは黙々と食事を続ける。その顔が可笑しかったのか、呉蒙は薄く笑った。

 普段と変わらない夕食。他愛ない会話と、少々の小言。本当に、いつも通りで。

「帰るのか、故郷に」

 突然、核を突くようなことを言われて咽せそうになる。スイは急いで喉に水を流し込み、落ち着きを取り戻すと、

「……他に行くところもないし」

 と、呟くように返した。

「やはり、ここには馴染めなんだか」

「ここの人たちは、悪い人じゃないよ。だけど、それはあくまでオレの素性を知らないからだ。それを知って居座るのは……すごく、気持ちが悪い」

「そうか」

「……爺先生は、オレが帰ったら、その……」

 しばし、重い沈黙が流れる。それを破ったのは、呉蒙だった。

「お前の好きにするといい。そういう約束だ」

「……うん」

 それから、また他愛ない会話を少しばかりし、片付けをして床に就く。

 静かな夜だった。至って平穏無事で、明日、呉蒙と別れると到底思えず。

 しかし不穏は心に積もる。不安で心臓の音が嫌にうるさく感じ、スイはなかなか寝付けずにいたが、睡魔には勝てず。

 気付けば、早朝。

 むくりと起き上がり、窓を見る。外は朝霧が立ち込みよく見えず、陽光もぼんやりしている。普段起きる時間よりかなり早い時間であることは明白だ。

「スイ、こちらへ来なさい」

 スイは驚いて寝床から飛び起き、呉蒙の方へ向かう。呉蒙は寝床に横たわったままだ。

 呉蒙の声は、枯れた草木のように弱々しく、昨日会話を交わしたときとはまるで別人のようだ。

「……爺先生、お水でも」

「構わん。聞きなさい」

 その一言で、スイは全てを察した。何か言いたげに口を開きかけるが、ぐっと堪えて背筋を正す。

「ひとつ、言わねばならぬことがある」

 呉蒙の、乾いた唇が動く。

「四年前、あの森に儂がおったのは、知人に頼まれたからだ」

「知人……?」

 一瞬、放浪の際に助けてくれた、あの声のことを思い出した。声色などはほとんど覚えていないが、老人のような喋り方だったような気がする。

「奴等、歩くのもままならんというのに、儂の元へ突如やって来てな。『あの子は下界に戻るだろう。しかし生きる眼をしておらん。あのままでは直ぐに死ぬだろう。助けてやってくれ』と、頭を下げてきた。あの鬼軍師と云われた男が、だ」

 呉蒙は口角を僅かに上げた。

「お前を拾ったのは天命だと言った。だが、葛藤はあった。儂は……勝手な男だった。傍若無人な振る舞いで、何度も師を困らせた。そんな男が、顔も知らぬ子供の面倒など見れるのかと。……だが、決意した。その選択が、天命と成った」

 呉蒙の視線が、スイへ向く。スイは真剣な表情で、呉蒙を見つめ返した。

「スイよ。儂の天命は天帝の意思に非ず。儂自身が、この道を天命とした。お前の道も、お前が決めなさい」

「……はい。爺先生」

 スイの言葉に、呉蒙はほんの僅かに頷くと、弱々しく手を差し出す。スイは強く、握り返した。呉蒙の手は、とても冷たく。

「なかなかに、楽しき日々だった。ありがとう」

 そう言い残し、呉蒙はすぅっと目を閉じた。

 その目はもう二度と、開くことはない。

「……お世話になりました。爺先生」

 この言葉も、誰に届くことはなかった。


・・・・


 陽が昇り切った頃、里から二人の男がやってきて、呉蒙の訃報を知り驚いた。

 男達はスイもよく知っている、漢方屋の主人とその友人の葬儀屋の主人だ。数日前、呉蒙に埋葬の手伝いを頼まれ、半信半疑でやってきたそうだ。

 どうやら先に金は貰っていたようで、不思議がりながらもスイを元気付けてくれながら、埋葬の準備をしてくれた。と言っても、生前に呉蒙が小屋の裏手に自身の棺と墓穴を準備していたので、思った以上に早く埋葬は済んだ。

「不思議な御方だったな。歳をとると自分の死期を悟るというが、こんなに手際がよいのは聞いたことがない」

 二人は最後まで首を傾げながらも、線香を立ててくれ、日暮れ前に下山した。

 残ったスイは小屋の整理を夜遅くまで行なった。月が明るい夜だったから灯りは不要だったが、久々に独りで過ごす一夜は、とても寂しく、恐ろしくて。部屋の隅で一晩泣いた。


 翌日。戸棚の一番下に新しめの木箱を見つけた。開けてみると、ヘソクリというには些か額の大きい金と、地図。地図には現在地と、はるか北に印がしており、その間に線が引いてある。

「……はは、爺先生は、本当にお人好しだな」

 滲み出た涙を拭って、大切に鞄に仕舞う。

 竈門の火は完全に消した。山に置いた罠も回収した。小屋に金目のものはない。支度は、済ませた。

 最後に呉蒙の墓へ参り、墓石に額をつけた。これが、スイの故郷での手の合わせ方だ。

「……いってきます」


 そう言い残し、スイは旅立った。

 ──故郷へ。

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