幕間3 傷は無自覚に抉られて

 やがて夏が迫ってきた頃、スイと呉蒙は麓の里へ買い物に出た。

 故郷の何倍も多い人混みは初めての経験で、スイは酔いそうになりながらも呉蒙の服の裾を掴み、はぐれないようについて行く。

 呉蒙の背負っている籠には、先日山で仕留めた熊の毛皮や胆嚢などが入っており、近くにいると結構臭う。それも酔いの原因のひとつではあるが、なんとか堪えてとある店に入る。

 薄暗い室内には、大小様々な毛皮や小動物の剥製に、皮の加工品が並んでいる。ここは動物の加工品を中心に取り扱っているようで、毛皮や漢方になるような動物の内臓などの買取もしているらしい。

「へえー!噂に聞いていたけど、その子がもしかして、呉爺さんのお孫さんかい?」

「甥の子だ。甥が北の乱に巻き込まれて、面倒を見れなくなった」

「そうか……。かわいそうに、こんなに小さいのに、苦労したんだな……」

 店主は人の良さげな笑顔を向けて、なにかあったら相談に乗ると笑ってくれた。スイは少し戸惑いながら、

「呉水と申します。その、まだここには不慣れで、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」

 と、自分ができうる限り丁寧に御礼を言う。すると店主は態度に感心して、買取金にプラスして、自家製の鹿肉燻製を包んでくれた。

 二人は足早に次の店へ行く。服を扱う店のようで、ここでも店の人間に声をかけられた。

 最初の店と似たようなやりとりを呉蒙とした後、またも自己紹介をする。必要最低限の衣類を見繕って貰っている間、店主婦人に、

「あんたみたいな堅物にも、こんな礼儀正しい身内が居たんだねぇ。あたしはあの人、正直ちょっと苦手でね。でもまァ、これで爺さんも少しは丸くなるかね」

 そう耳打ちされて、スイはどう返していいかわからず苦笑いを浮かべるしかなかった。

 次の店も、次の店も、同じ流れを繰り返す。途中から、自分の顔見せも兼ねていると気付いたスイであったが、同時に町人の呉蒙への評価が浮き彫りになったせいで、今後するであろう苦労に少々気が重くなる。

(でも……。ここの人はみんな、優しそうだ。オレも、馴染めたらいいな。……いいのかな、ここで暮らしても)

 安堵と罪悪感を覚えながら、ようやく最後の店に着く。日用品を扱う店のようで、どの店より人が多い。

 ずっと歩きっぱなしだったせいもあってか、少々疲れたスイは、挨拶後に店の隅で休ませて貰った。体力はまだあるのだが、行き交う人の涙や飛び交う声などの視聴覚情報が多すぎて、パンクしそうになる。

 それでも見知らぬ子供がいるという事もあってか、買い物客に何度か話しかけられた。

「あら、見慣れない子だね。どこから来たんだい?」

 見知らぬご婦人の二人組だった。スイは先程の呉蒙の話と辻褄を合わせながら、軽い自己紹介をする。ご婦人達は他の大人と似たような反応をするが、


「北の方って言うと、大丈夫だったの?噂だと数ヶ月前に異民族の暴動があったって聞くけど」


「……え?」

 思考が固まる。無防備なときに突如殴られたかのように、理解が追いつかない。ただ、「この人達は何を言っているのだろう?」としか思えなかった。

「あら?私は北の町と外夷とで武力衝突があったって聞いたけど」

「そうだったかしら?私は外夷が城壁近くまで来て、暴動があったとか。結局軍が返り討ちにしたって」

「やぁねぇ。年をとると記憶力が低くなっちゃって」

 その話を聞いて、見知らぬ中年男性が割って入る。

「いやいや、◼︎族側に攻め入ったのはうちの民族側だそうだぞ」

「まあ、そうなの?」

 少し、安堵する。複雑だが、自分達の濡れ衣は晴れたわけだ。この男性にはお礼を言わないと。

「でもねぇ」

 と、思ったのも束の間。

「それだけ恨まれてたってことでしょう?」

 その一言で、スイの心臓は凍りつきそうになって。

「そうさなぁ。よほどの事がない限り、攻め入れられることもないだろうよ」

「攻め入る側もどうかと思うけど、それだけ切迫してたって事でしょう?」


 ──違う。


 そう言いたかったのに、声が出なかった。

 どこも飢餓や政治悪化で苦しんでいたのは知っていたが、決して、表立って対立はしていなかった。なんなら近隣の住民を招いて仕事を与え、給与も払っていたはずだ。そして、こちらから侵攻はしていない。あの日は結婚式前夜だったのだ。そんなことしてはならない。

 言い返したかった。でもそれをしてはいけない。

 だって、ここは、

「やっぱり野蛮人は怖いわね……」

「みんな大変なのだから、もう少し歩み寄れないのかしら……」

「外夷の考えることはわからないさ」


 違う。違う。


 声が出ない。怖い。異質な生き物に囲まれたようで、息ができない。視界がぼやける。


「でも、まあ」


 誰かが、口を開く。もう誰が誰かは、わからなった。


「襲われたのがうちじゃなくて、よかった」


 この人たちは、何を言っているんだ?


「……スイ、顔色が悪いな。無理をさせすぎた。今日はもう帰るぞ」

 呉蒙が囲む大人達の間を縫い、スイの腕を掴む。やや強引に人の間を抜けて、引っ張って連れ出した。

 無言でしばらく歩いていると、街のはずれあたりから急に視界が倍速で動き──あっという間に山小屋へ着いた。

 スイは呉蒙の手を振り解き、急ぎ草葉の陰へ身を潜ませ、嘔吐し、しばらく咽び泣いた。呉蒙は何も言わずにスイの背中をさすった。

「……爺先生。オレは、あんなところで、生きていかねばならないの、ですか」

 ようやく絞り出せた声は、あまりにも悲痛で。

 しかし呉蒙は背中をさすってやりながら、淡々と答える。

「そうだ。小さきものが生きていく為には、大に紛らねばならぬ。大とは、社会全体を指す。社会は、渦だ。渦には善意も、悪意も混じる。善良であれと思えど、誰しも偏見や差別から逃れられぬ。そして殆どは無自覚である。あの者達のように」

 スイは口を拭い、よろけながら立ち上がる。呉蒙はいつもと変わらぬ真剣な顔で、話を続けた。

「儂には四年しかない。それまでは耐えろ。以降は、お前の好きなようにて構わない」

 そう告げると、呉蒙は全ての荷物を抱えて、小屋へ戻っていった。

 残されたスイは、しばらくその場で立ち尽くしたあと、

「……オレは、どこで死ねばいいんだよ」

 と、聞こえないほど小さな声で呟いた。


 その晩はひどくうなされ、二日ほど寝込むことになった。

 しばらくは山中で、勉強漬けの日々を過ごして、たまに里へ降りる。正直行きたくはなかったが、学ぶことは多い。

 あれ以降、スイは『愛想のいい子供』を演じることにした。いつも笑って、少し大袈裟に喜んで、たまに買い物中の婦人の代わりに少しだけ年下の相手をしてやる。それだけ。だが、里の人間はよもやスイが忌避している外夷とは思いもしないだろう。スイ自身が忌み嫌っていることなど露知らず。

 潤滑なコミュニケーションは、様々な情報を呼ぶ。人を呼ぶ。それが結果的に、彼が社会の中でどう立ち回るか、そして人を見る目を養うことができた。


 だが、皺寄せは精神を蝕む。

 何度も悪夢を見た。

 真夜中に飛び起きて、嘔吐することも一度や二度ではなかった。

 子供の相手をするたびに、胸が痛んだ。

 毎日のように嫌悪した。


 奴等にへりくだる自分に。

 少し安堵する自分に。

 偏見を嫌うも、自分自身も他人を見下すことの浅ましさに。


 スイは、次第に憧れた。

 呉蒙の生き方──否、死に方に。

 次第にそれは、憧れから計画になり。

 故郷で死にたいと、願うようになった。


・・・・


 四年後──。


「はあぁぁっ!」

「的がズレとる!右手は弧を描くように突き出せ!もう一度!」

「く……ッ、うおぉぉ!」

「まだだ。次は左手が下がっとる!もう一度!」

 早朝の山中に怒声が響く。後方の竹林から雀が一斉に飛び立つほどの声量で。

 負けじとスイも声を張り上げて、槍を構えて真っ直ぐ打つが、呉蒙は簡単にいなすどころか、その手の槍で絡め取り、地面に叩き伏す。

 老人とは思えぬ力強さに、スイ自身も引っ張られて足をついてしまう。

「いっっつ!爺先生!肩脱臼するかと思ったんだけど!?」

「お前の肩に余計な力が入っている証拠だ。もうちいと背が高ければ体幹も安定しただろうに、声ばかりでかくなってからに」

「背はまだ伸びますぅー。そのうち爺先生を余裕で追い越すんですぅー」

 スイが十六歳を迎えて半年ほど。

 朝の槍術訓練は、始めた頃は辛かった。今はすっかり馴染んでいるし、身についている自覚もある。

 呉蒙の鍛錬の成果か、ここに来た頃よりずっと体力も増え、力もついていた。とは言え、同年代の男達と比べると小柄でまだどこか頼りないが。

 対して呉蒙は、出会ったときから変わらずに、鋭い眼光に深い皺の老人であり、背筋も少しも歪まず凛とした佇まいをしている。

 逆になぜ変わらないのかスイは疑問に思うことはあれど、『爺先生だから』と思って深くは考えなかった。

 呉蒙については変わった、というよりも気付いたことの方が多い。

 彼は顔つきも言葉遣いも厳ついが、道理は弁えているためか決して頑固なわけではない。最初こそ堅苦しさはあったが、単に子供慣れしていないせいで、今となっては互いに軽口を言い合うほどにまでなった。

「……今日はここで終いにするか。朝餉の支度をしよう」

 その言葉に、スイは安堵した。

 教えてもらう槍術は実戦用のものではない。そもそも、もう槍で戦う時代では無い。故に体力作りの一環で始まった筈なのだが、呉老人は容赦がないのだ。

 加えてあの覇気ときたものだから、向こうが手加減しているとはいえ、緊張して心臓が縮み上がりそうになるときもしょっちゅうだ。そのおかげで、虎に睨まれても冷静でいられる自信だけはついたが。

「爺先生、蕪の葉を使い切りたいから汁物に全部入れていい?」

「構わんが、また端が繋がったまま入れるでないぞ?」

「食えればいいの、食えれば!」

 呉蒙は僅かに口角を上げると、薪を取りに小屋の裏へ行ってしまう。

 鍛錬や勉強の合間だと、呉老人は別段厳しくはない。それどころか、笑う時もある。深く刻まれた口元の皺が、笑みに合わせて柔らかく動く瞬間は、スイもつられて嬉しくなる。

 厳しくも暖かい呉蒙を、スイは尊敬していたし、親同様に大切にしていた。


「……本当に四日後に、死ぬのかな……」


 半信半疑だった。なにせ、あんなにピンピンしている。どこか悪いところもなければ、酒も暴食も一切なく、健康そのもので。

 しかし、呉蒙は己の死期を延ばすなどと言わず、出会った頃から律儀なまでにカウントを進めている。

 いっそ、いままで数えた寿命は全て誤りで、実はあと十年は生きるのではないか。そうとすら思えてくるのだ。


 だが、それこそ儚い妄想であると思い知ることになる。

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