第16話 家族(6)
「……は?」
予想外の反応に、流石にスイも呆気を取られた顔をした。
張景は一切構わず、更に一歩踏み出す。スイもそれに合わせて後退するが、先程とは別の意味で張景を警戒しているのは明らかだ。
「どうせ死ぬんだろ?だったらせめて、気の済むまで殴らせろ。いいですよね?流石に死体は殴りたくありません。あんただけ気持ち良く死なせてたまるか。殴らせろ」
「け、景くん、待て。落ち着け。自分がなにを言っているかわかっているのか?」
「そっくりそのままお返しします」
怒りを孕む言動に只事ではないと感じ取り、スイは身構えたが、もう遅い。
張景は次の一歩で大きく飛び出す。踏み込んだ右足には速度を上げる護符を貼っていた。走っている間に新たに作って使用しておいたのだ。これがなければ、スイに追いつけなかったかもしれない。
速度を瞬間的に上げた脚は、あっという間に間合いに入り、スイを捉える。
まずは一撃── を、既のところで躱された。拳が空を切るが、拳の速さで生まれた風圧の強さに、スイの顔色が変わる。
よろけそうになるのをなんとか耐え、スイは再び距離を取ろうとするが、張景がそれを許さない。短剣を構えようにも突きが飛んでくる。
そこは悲しき動物の性かな、スイは反射的に防御してしまう。
「……ッ!殴るぐらいならいいけどさ!限度ってものが……!」
「殴る『ぐらい?』このアホ!もっと自分を大事にしろ!!」
「めちゃくちゃだな!?」
打つ、打つ、打つ。躱す、流す、躱す。
スイは何度か刑天に武術の指南も受けた。呉老人からも手ほどきを受けている。が、いずれも身を守るためのものであって、攻めの型ではない。
対して張景だが、打ち合いの中スイは思い出していた。過去のやや物騒な言動の数々と、いつか雲中子に聞いた、張景のエピソードを。
『あそこの師弟ね。言いたいことズバズバ言える良い関係みたいだヨ。ただ……喧嘩すると最終的に殴り合いで決着つけるみたい。いつぞやの会合で、顔ボッコボコになってる広成子を観たことある』
つまり、妖獣に対してはともかく、対人戦なら。
彼は強い。
「脇が甘い!」
正面の防御でいっぱいいっぱいだったところに、張景の足蹴りが入る。紐なしロッククライミングを二百年間ほぼ毎日やっている足だ。質量が違う。
それをまともに喰らい、スイは真横に吹っ飛んだ。そしてそのままなだらかな斜面に転がり、張景はすぐさま後を追って飛びかかった。
転がり落ちながら、もみくちゃになる二人。起きようとしては殴られ倒れ、足蹴りにされて倒れ込んでは斜面をずるりと滑り落ちる。
スイには殴る道理はなかったが、次第に目の前の脅威に対抗するしかない。短剣は決して手放そうとしなかったが、さすがに使うことに躊躇いがある。片手の使えないハンデは、あまりにも大きく。
「やっぱり、ウッ、喧嘩慣れ、してないでしょ!」
「慣れて、ぐぇっ!け、喧嘩する余裕なんか、なかったんだよ!」
そんな言い合いをしては殴る蹴る。やや一方的に。張景に至っては怒りで涙が出ていたし、お互い泥や草でぐちゃぐちゃだ。
「だいたいあなたは!いつもそうやって!一人で抱えて!何度怒られたら気が済むんですか!」
「ぐッ、景くんには、関係ないだろッ!」
「関係……痛ッ!関係ある!あるから怒ってるんだろ!貴方の力にッ、なろうとした!こっちの気も知らないで!悲劇の主人公ぶってんのか!ふざけるな!」
「ッ!お前に、なにがわかる!二百年も、気の休まることなんて、あだっ、なかった!ようやく楽になれると思ったのに、邪魔しやがって!自死がそんなに悪か!」
「違う!でも貴方は愚かだ!残される者の気持ちを、自分を軽視するな馬鹿野郎ー!!」
やがて斜面を下りきると、スイが馬乗りになる形で止まった。お互いすっかり息が上がって、しばらく肩を上下させていた。
「……もう、いいだろう?」
短剣を振り上げて。スイが呟く。
「……悪いけど、これ以上邪魔するなら、これを使う」
「使えばいいじゃないですか」
張景は、やれやれと大袈裟にため息をついた。そしてぶっきらぼうに、言い放つ。
「首を絞めるよりは楽でしょう?」
その瞬間──、スイの顔色が変わった。大きく目を見開き、信じられないと言わんばかりだ。しかし、驚くというよりも、恐怖に近い。
「な、んで……」
張景は、じっとスイを見返す。
スイと、自分自身への怒りが胸の内でまだ燃えているというのに、目の前に視線が定まらないほど動揺している人間がいるからか、不思議と冷静だった。
「思い出したから、だからここに帰るってわかったんですよ。……兄さん」
「……あ、あ、ああ……」
スイはなにか呻きながら、滑り落ちるように張景の体から離れる。かと思うと、急に走り出した。が、脚は震えて歩き方がぎこちなく、今にも崩れ落ちそうで。
張景は急いで起き上がると追いかけ、背後から押さえ込んだ。
するとスイは錯乱し、ジタバタと暴れ出す。
「ああぁあぁああ!!!あ、ああ!!!」
「人の話を……最後まで聞け!」
張景は暴れるスイの右手を強く捻り、短剣を手離せることに成功した。短剣はそのまま地面に軽く突き刺さり、ゆっくりと倒れる。
「ごめん……ごめんなさい……ごめん……」
スイは狂ったように謝罪の言葉を小さく繰り返す。それでも振り解こうともがくので、張景は背後から押し倒し組み伏せた。
内心、思った以上に力が弱くて驚いた。
「……こっちだって、後悔したんです。なんであのとき、もっと良い子にしていなかったんだろう。僕がもっとうまく言葉が話せたら、あんなことにはならなかったのに……って」
「……ち、違う。オレは、オレ、が……」
「ああ、そうです。貴方にも責任の一端はある。そして、僕にもある」
「お前は悪くない!」
遮るように、スイが叫ぶ。嗚咽混じりの声で。
「……貴方が黙ってどっか行ったのは、貴方が悪いですよ。しかも、嘘つかれましたし」
張景はふぅ、と小さくため息をつく。
「でも、自分が悪だの罪だの背負って死のうとするのは、貴方の独りよがりだ。それが一番腹立たしい。こっちが何も知らないと思って勝手なことしやがって。そんなの絶対許さない」
「……なら、どうすれば良かったんだ」
「それは、いま言っても意味は無いですよ。過去に戻れる訳もない」
張景はゆっくり体を離し、その場へ腰を下ろした。スイは少しの間その場に伏していたが、観念したように起き上がり、張景と向かい合うようにして座った。
スイの顔は、先程までの殴り合いで、所々に紫色に近い青痣ができていた。それを見て張景は苦笑し、
「……ひどい顔」
「……そっちも似たようなものだぞ」
「僕はほら、内丹使えばすぐ治りますし」
「こっちも、一晩ぐらいで治ると思う」
「ええー?自然治癒力高いのずるくないですかー?手加減しなきゃ良かった」
「あれで手加減してたのか!?顔の骨が折れるかと思ったのに……はは」
スイが小さく笑う。張景もそれが嬉しくて、穏やかに笑みを浮かべた。
「……やり直しませんか?兄弟を」
スイは笑うのをやめ、目を丸くして張景を見つめる。
「結局、お互いこの苦しみは消えないから。それなら、一緒に背負って生きて欲しいんです。兄弟として。それに……」
「……?」
「……恥ずかしい話、天明さんと仲良さそうにしてるの、ほんのちょっとやきもち焼いてました」
「……マジ?」
「ちょっとだけですよ!?ちょっとだけ!誰にも言わないでくださいね?」
「……は、ははは!そ、それはそれは……」
スイは涙まじりに笑う。張景は恥ずかしかったが、その涙の意味を理解していたから、何も言い返せずにしばらく耐えていた。
涙を拭い、スイは姿勢を正すと、
「……不束な兄だけれど、改めてよろしく。洞操」
「……はい。帰りましょう。洞水兄さん」
それから二人は、丘の上に戻った。
朝露が昇る太陽に照らされ、キラキラと輝く。空は薄い雲が広く連なり、もうすぐ秋が来ることを予感させる。
明るくなったせいか、二人して転がり落ちた場所が顕著に見えてきて、張景は笑ってしまった。
スイは組み伏せたときに足を捻ったようで、張景におぶられながら、呟く。
「……大きくなったなぁ」
「でしょう?今度は僕が、いくらでも背負いますから」
背後で鼻を啜る音がしたが、聞かなかったことにして。
二人で墓石に額をつけて先祖に参り、森へと戻った。手順通りに桃源郷に足を踏み入れ、そこで待ち構えた警備隊に捕縛された。
桃源郷を無断で離れた罪状を読み上げられながら、二人は再び離れることになった──。
第一部 完
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