第16話 家族(5)

 その人物は、この風景の中では明らかに異質であった。

 朝霧漂う草原に、全身黒い装いで歩く姿はまさに『影』──否、亡霊にすら見える。だが、足取りはどこか軽く、迷いがない。夕暮れに帰路につく子供のようだ。

 影は、やがて張景の足音に気づくと足を止め、振り返る。

「景くん」

 無機質な声色で、影──スイは名を呼ぶと、さも当たり前のように、持っていた短剣の鞘を抜いて捨てた。張景はドキリとして、足を止める。その距離、二十メートル弱。

「うん。聡い子だ」

 スイは薄く笑う。

 ぞっとした。その顔は、どこか幸せそうで。

 胸が、痛む。

「……話が、したくて、来ました」

 息を整えるために切れ切れに、慎重に言葉を選ぶ。いきなり話を切り出したら、どんな行動に出るかわからない。最悪、この場で喉を掻っ切りかねないのだ。今の彼は。

 スイは目を細めると、周囲に目を配らせる。張景以外に誰も来ていないことを確認すると、

「少し、歩こうか」

 そう言って歩き出した。刃は抜いたままで。張景も距離に気を遣いながら、後に続く。

 しばらくお互い無言だったが、張景の呼吸が落ち着き出したころ、スイが口を開いた。

「なんとなく、追いかけてくるなら景くんだと思ってた」

「……なんで、こんなことをしたんですか」

「はは、会話になってないよ、景くん。でも、うん。そうだな」

 歩みを進めながら、スイは少し考えて、

「ここまで来て、オレが何をしたいかまではわかってる?」

「……命を断つつもりでしょう?」

「これは驚いたな。正解だ」

 そう言っている割には、どこか淡々としている。張景は眉間に皺を寄せた。

「二百年だ。道士サマはようやく独り立ちする頃合いだろうが、人間にとっては長すぎる。オレの生まれた時代は、立て続けに戦争が起きた。五十年も生きたら万々歳だってのに、その四倍だぞ?もう十分生きたと思わないか?」

「だからと言って、自ら命を断つ必要はないじゃないですか。

「道長に、この気持ちはわからないさ」

「だから知りに来たんです」

 スイは朗らかに笑う。まるで計算の答えがわからず、苦戦している子供を見守るような顔で。

 張景は臆せずに続ける。

「あなたは、責任感の強い人だ。天明さんの話を聞けばわかります。でもなんで……途中で放るようなことを」

 途端、スイの動きが僅かに止まった。しかし、すぐに歩き出し、目の前のなだらなかな丘へと向かう。

「天明は大丈夫だよ。むしろ共にいた時間が長すぎたんだ。あいつも他者とのコミュニケーションも取れてきたし、頃合いなんだ」

「理由になっていません。それに……兄弟のことだって」

「景くん」

 語気を強めて、スイが言葉を遮る。張景は、確信した。

「逃げるんですか」

「……」

「答えてくださいよ。意味もわからず死なれたら、天明さんに顔向けできません」

 スイはやれやれと大きく肩を竦める。やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「生きるのが嫌になっているのは、本当だよ」

スイは短剣を持つ手で遠くを差す。しかしその先は、ただただ薄暗い平原が続くばかりだ。

「このあたり一帯は、オレの故郷だ。点在していた部族の中では大規模で、五世帯ほどで纏まって暮らしていた。人の多いぶん、財を溜め込んでいると思われたらしい。結婚式前夜に襲われて……無くなった。当時は飢餓に政治不信に反乱に、あちこちが困窮していた。それでも良い人はいたと思っていたさ。街から頻繁に通って、オレに勉強を教えてくれた劉先生とか」

「劉……」

 そこまで話を聞いて、張景も思い出した。

 確かに、時折どこからか服装の違う大人が現れては、スイに授業をしていた。確か職を無くしたところを、父が頼んで授業してくれているんだと、ずっと昔にスイが教えてくれたのだ。

 そのときに兄が「お前たちがもう少し大きくなったら、オレが教えてあげるからな」と、楽しそうに語っていたことも。

「結局は、裏切られたよ。花嫁道具がどういうもので、どれほど価値があるか、父から聞いていたそうだから。あの人の街での立場もあったんだろうけど、あの人を信用した自分が、いまでも腹立たしい」

 スイの声色は、徐々に怒気を帯びていく。こんなに感情的な彼を見るのは初めてで、張景は少し驚いたが、じっと話の続きを聞いた。

「……弟たちの事を桃源郷に頼んで、爺先生に拾われた。よその民族の人里で暮らし始めて、慣れない事も多くて苦労したけど、少しは馴染めると思ったさ。でもな、『あいつら』が事件のことを知って、何と言ったと思う?」

 不意にスイが足を止めて振り返り、張景は身構えた。その表情は、口元こそ笑っていたが、目は今にも泣き出しそうで──。

「忘れもしない。『襲われたのがうちじゃなくて良かった』、だと。ああ、あの時は心底寒気がしたね。人間は、こうも無自覚に悪意を振り撒く。自分達が良ければ、他人で良かったと無自覚に差別をする!あんな場所はもう嫌だ。あんな奴等と暮らして死にたくない!!」

 初めて聞くスイの怒声に、張景は僅かにたじろぐ。

「……こんなことを考えてしまう自分も、汚らわしい。醜い。嫌いだ。消えたかった。ずっと……死にたかった。でも、あんな場所で死ぬのは嫌だ。この国にも、桃源郷にも、オレの居場所は無いから。だから、どうしても帰りたかったんだよ。誰もいなくなっていても、何もなくても、オレの故郷はここだから」

 そう言ってスイは緩やかな丘を登りきると、その先にある岩のようなものを指差した。

「景くん。ここに何がいるか、わかるか?」

「何がって……」

 指し示した先にあるのは、長方形の大きな岩である。土の一部が岩剥き出しになっており、そこを土台として、ごつごつした岩が乗っている。

 まるで石棺のような大きさではあるが、見たところ開くようにはできていない。むしろ長いあいだ雨風に晒されて、ひどく痛んでいる。その岩の四方を、積み上げられた石の柱が囲っているのだが、これも朽ちており、ほとんど崩れて張景の腰下あたりまでの高さにしかなっていない。

 ただ、それだけ。それ以外には、なにもなかった。

「なにも、いませんけど……」

「……そうか」

 スイは少し寂しそうに呟くと、

「ここは、先祖の墓。でも、もうきっと誰の魂もいないんだろうな」

 そう言って、短剣を張景に向けた。

「話は終わりだよ、景くん。もう帰ってくれ」

 ──その声は冷淡で、それでいて孤独で。もう話し合いの余地がないことが嫌でも理解できる。

 ただ張景は、その刃をどこか冷めた目で見たあと、息を吐く。それはもう、大きなため息として。

「……あなたの気持ちは、わかりました」

 と、一歩だけ大きく足を踏み込む。スイがそれに合わせて一歩下がったが、歩幅は張景の方が広い。

 故に。会話中に少しずつ少しずつ、気付かれない程度に距離を詰めてこれた。あと少しで間合いに踏み込める。

「ひとつだけ、お願いを聞いて頂けますか?」

 だが──、話を聞く中で張景は徐々に、悲しいだの辛いだのという感情よりも、ある気持ちが芽生えていた。というよりむしろ、自覚したに近い。

 狂気には更なる狂気を。

 その感情はいままさに、臨界点を越えようとしていた。


「殴らせろ」


 張景は、ブチ切れた。

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