第16話 家族(4)
張景は臆することなく、姜子牙の手首をがっしり掴んだ。
「離すなよ」
姜子牙が話しかけたと思ったら、次の瞬間にぐわんと視界が揺れた。というより、目を開けても何も見えない。あるのは一面の闇と、周りを流れるように通過する気脈の数々。それらは目視はできなく、仙道だからこそ知覚できるエネルギーの糸のようなものだ。
そこで張景はようやく、姜子牙が土遁を使って移動しているのだと理解できた。
めまぐるしく、超スピードで地脈を辿っているのだ。慣れていないと酔ってしまうだろう。
「着いたぞ」
気付くと視界は開けていて、目の前には見たことのある光景が広がっていた。
鬱蒼とした森の中。その中で一際大きい大樹──もう忘れはすまい、桃源郷と下界を繋ぐあの大樹だ。
恐る恐るウロへ近づくと、大樹の根元に足跡を見つけた。葉のおかげで直接雨に打たれなかったおかげか、この大雨の中でも残っていたようだ。
誰かが、下界に行っている。少なくともつい最近。張景は息を呑んだ。
「じゃあ、俺はここでお別れだな」
「え、下界へは来ないんですか!?」
驚き振り返ると、姜子牙は少しバツの悪そうに笑った。
「忘れられているが、こう見えても療養中の身でな。下界で活動できるほどまだ回復しておらん。その代わり、ほれ。餞別をやろう」
姜子牙はポケットから細々としたものを取り出すと、張景に握らせた。
「この組紐は腕に巻くと良い。万が一、人間に見つかっても『人がいるな』程度に認識をぼかしてくれる。それに、下界はいま夜だ。獣には気をつけなさい。それと、帰り方だが」
「石像を左回りに二回、黄色い葉の大木を左、その先の細道をウロまで歩くんでしょう?」
「問題なさそうだな」
姜子牙は一歩離れ、張景はウロへ向かおうと歩き──数歩進んだところで一度振り返った。
「そういえば」
「ん?」
「二百年前に、僕たちを助けてくれたの。姜子牙さんでしょう?」
「……さあ、どうだったかのぅ」
張景は一度、深々と両手を前後に重ねる形で姜子牙に拱手をして。ウロへと飛び込んだ。
飛び込んだはずではあるが、なぜか半ば這い出るような形で、張景は下界へ足を踏み入れた。
辺りは一面夜の闇。空気もどことなく乾いていて、居心地が悪い。
まず張景は、慎重に足元を見渡した。明かりはないが、幸いにも下界は晴れ。今夜は月が明るい。目を凝らしてみると、足跡を見つけた。ウロの近くにあったのものと酷似している。
が、足跡は途切れていた。おそらくすぐ近くの茂みに飛び込んだのだろう。
「ここまで来てまだ警戒しているのか……」
内心、野生生物並の慎重さに少し腹が立った。が、張景は冷静に懐から木製の小箱を取り出す。いつも持っている霊符入れだ。
(大丈夫……。手がかりさえ見つけたら、『わかる』)
小箱から、一枚の霊符と筆を取り出す。筆は中に朱が既に染み込ませてある。霊符はよく見る黄札であるが、何も書かれていない。
張景は筆と霊符を構えてひとつ呼吸を置き、
「……清明」
とだけ呟き、霊符を書き始めた。
普通、霊符を書き上げる場合は身の浄化や道具を清めてから行う。そして書く前、書き上げの際(ものによっては書いている最中)でも符咒(ふじゅ)と呼ばれる呪文を唱えてから行う。これは神の加護を得たり、鬼を使役する為に必要な行為でもある。
だが、張景は違う。広成子という高名な仙人の元で二百年の修行を積んできた。
符咒が無くとも、霊符を書くための知識と『気』の入れ方さえ間違わなければ、工程などほぼ飛ばせるのだ。本来は。今までは『気』の入れ方がおかしかっただけで。
今は──、
(わかる。今なら間違わない。ここにいる理由を思い出した。兄さんが苦しんでいたら、助けてあげたかった。いま、兄さんは苦しんでいる。苦しくて、どこにも居場所がないから、こんなところまで逃げてきたんだ。僕が助けないでどうするんだ!)
突然身内がいなくなり、子供だけで放浪して。
気の迷いで助けるべき家族を手にかけようとしたが、できなくて。
罪から逃げても、苦しくて。
下界でも安寧の地が無くて。
天明に対しても、責任を感じて。
やっと、手がかからなくなったと思ったのだろう。
もう、苦しみたくないのは、わかる。
それでも──。
張景は一枚の札を書き上げる。星座を模した複数の丸と、陰陽を表す二点に線を引いた図。その下には『速やかに指し示せ』といった旨の道篆が記されている。
「……急急如律令」
張景は呟きながら、足跡に符を乗せた。すると符はみるみるうちに灰になったかと思うと、星のように輝き出した。やがて灰の一粒一粒がまるで糸のように、ある一点目指して伸びていく。
「いま行くよ。兄さん」
立ち上がり、埃を払うこともなく、張景は光の方向へ走っていった。
東へ、東へ。
見渡す限りの平原を、無我夢中で走る。
長距離走など修行の一環で慣れていたが、気持ち急ぐと息もすぐ上がる。それも構うものかと、張景はただひたすら走った。その間、何度も『もし間に合わなかったら』という考えが脳裏をよぎったが、それすら振り払うように、目の前の光を追うことに集中する。
次第に光は弱まっていき、やがて無くなってしまったが、ここまで来たらもう迷うことはなかった。
それが無意識に風景を覚えていたからなのか、道士としての直感なのかはわからない。時折星の動きは見ていたが。
途中、靴が煩わしくて脱いだ。服の裾が何かに引っかかって切れたが、どうでもいい。濡れた服が重く、体温を奪ったが、走り続けていたらやがて乾いてしまった。
とにかく走る、走る、走る。
やがて、空が薄明るくなる頃。
遠くに、黒い影を見つけた。
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