幕間 月のない夜に(後編)
ある七月の深夜の出来事だった。
雲中子は現在と同じく妖獣保護センターの所長を勤めており、その日は水棲妖獣エリアの水槽に張られた術式の調整で、つい深夜まで作業をしていた。
集中して仕事をした後の疲労は酷いものだったし、翌日提出の書類があった気もするが、とりあえず茶でも飲んで休もうかと食堂まで足を運んだ。
夢中になるとつい時間を忘れる己の癖を反省しつつ、扉を開けると、」
「……あ。所長、さん」
そこには、先月保護した少年が食堂の隅で水を飲んでいた。
彼は外見十代半ばほどで顔つきがやや幼く、癖のある黒髪に、青々とした草原に似た色の瞳をした子だ。見た目は普通の少年だが、報告書によると実年齢は五〜六十代と見られるそうだ。
同時に保護されたガイテンミョウジという生物が関連している可能性が高いが、検査の結果として現状は『普通の人間』と変わりない。
なので、夜間でもシャワー室や便所などの一部施設は使っていいよう許可を出したが、まさかこんな時間にばったり遭遇するとは。と、雲中子は予想外の出来事に呆気に取られた。
「……そんなに見なくても、もう脱走しませんよ。ごめんなさい。あのときは気が動転してたんです。天明のことも、大変お騒がせしました」
「あ、ああ。違う違う!まさかこんな時間に人がいるなんて思ってなくてさ!呉水クン、だっけ?どうしたの?夕飯足りなかった?というかあれ、ガイテンミョウジは一緒じゃないの?初日あんなに……」
「所長さん、質問多すぎ」
呉水と呼ばれた少年(実際は少年ではないが)は、やれやれと言ったように肩をすくめつつ、首を掻いた。首には白いチョーカー型の発信機が付けられている。保護初日にまさかの単身脱走をした後につけられたものだ。それ以降はすっかり大人しくなったが、規則のためもうしばらく着けてもらう予定だ。
仕方ないとはいえ、ひと月も着けっぱなしだと流石に痒いのだろう。首周りが少し赤くなっている事に雲中子は気付いた。
「暑くて眠れないので、水を飲みに。彼は部屋に待機させています。さすがにこれぐらいなら、あいつも待てますから」
暑い、というのは少し妙な話だと雲中子は訝しんだ。呉水らが収容されている二棟の空調に異常はないはずだ。獣型用の収容スペースしか空いていなかったので、獣臭いかもしれないが。
雲中子は、暑いというのはおそらくただの方便で、他の要素のせいで眠れないのだと察した。それで日中ほぼ一緒のガイテンミョウジを置いてきたのだ。
呉水はこちらの様子を伺うようにチラチラと見てきたが、やがて居心地が悪そうに席を立った。
「もう、戻りますね。所長さん、おやすみなさい」
「あ!ちょっと待って!せっかくだし、よかったら少し話さない?」
雲中子が咄嗟に引き止めると、呉水はきょとんとした顔でこちらを見てきた。引き止められるとは思ってもみなかったのだろう。
「お仕事の邪魔にならなければ」
「うん、大丈夫だよ!ちょっと待ってて!」
そう言って、呉水が席に着くのを確認するや否や、雲中子は向き合う位置に座った。呉水は変わらずどこかバツの悪そうに、視線を少し外している。やはり脱走事件を気にしているのだろうかと、雲中子は考えた。
さて、引き止めたはいいものの、彼とは業務以外で顔を合わせるのは初めてだ。雲中子自身が多忙なことと、呉水本人がガイテンミョウジの付随品──おまけのような立ち位置でもあるため、ケアの殆どを担当者に任せてしまっている。
(呉水クン。出身不詳、血縁者なし、持病なし。報告によると、脱走後は大人しくて聞き分けも良い子。職員によく桃源郷について聞いているそうだけど……、再脱走の兆しは今のところはなし、と)
頭の中で情報をまとめたが、思った以上に彼自身の情報が無くて自分でも驚いた。無関心という訳ではなかったのだが。
とりあえず脱走事件の話題には触れないよう、雲中子は話題を探した。
「ええと……、ごめんね、まだ部屋が用意できなくて。布団を敷いてるとはいえ、床に直置きだから寒いだろう?」
と、言い切った瞬間しまったと雲中子は固まってしまった。つい先ほど呉水は暑いと言っていたではないか。話題を振ろうとして思い切り空振ってしまったどころか、呉水の嘘に切り込むような形になった。
「あ、あー……そのー……」
どうしたものかと困っていると、呉水はその様子を見てくすくすと笑いだした。
「所長さん、もしかして子供と話すのは苦手?」
「あは、ははは。そうかなぁ。そうかも?でもキミ、子供って歳でもないだろ?」
「そうだけど。人間ってどうしても見た目で捉えてしまうものですよ。それに貴方から見たら、オレなんて赤子同然ではないですか?終南山玉柱洞の雲中子様」
「お、封神演義。知ってるんだ」
と、雲中子が僅かに身を乗り出した。封神演義という物語の中に、雲中子も登場する。終南山という場所で閑居しているという設定だ。主要人物ほどの出番はないが、なかなかの好待遇で描かれているので雲中子もそれなりに気に入っている。
しかし、呉水はううんと小さく唸り首を僅かに傾げた。
「ほんのさわりだけ。昔読まされましたが、詩ばかりでつまらなくてすぐ飽きてしまいまして」
「ああ、なんだ……」
雲中子は前のめりになりかけた体を戻した。と、今の会話でふと気になったことを聞いてみることにした。
「そういえば呉水クン、キミってどこ出身?封神演義を読まされたってことは、もしや名のある文化人のご子息だったり?」
そう言われると呉水は一瞬眉をしかめ、困ったように笑う。
「いえ、そんな大した生まれでは。本当に。……オレのことはいいですから」
雲中子はまたもやってしまったと冷や汗をかいた。出自の事もあまり触れられたくないらしい。
呉水は知ってか知らずか、一呼吸置くと背筋を伸ばして雲中子に向き直り、真剣な表情で見つめてきた。雲中子は、途端に空気が張り詰めるのを感じて反射的に同じように姿勢を正した。
「……所長さん、天明は、蓋天明祇はこれからどうなるんですか」
「ん……」
雲中子はなんとも言えない表情で口籠った。
別に隠し事があるわけではない。検査結果も、不確定要素が多すぎるからだ。妖獣を研究して長い雲中子ではあったが、ガイテンミョウジはどの妖獣の系譜にも当てはまらない。謎が多すぎる。
雲中子としてはとても『面白い』生物ではあるし、この呉水も聞けばガイテンミョウジの血を啜り不老となっているというではないか。
仙人でさえも、その多くが極めてゆっくり歳をとる。不老を会得する者はごく少数だというのに、だ。
しかも検査結果はあくまで『ただの人間』。雲中子の興味は尽きないが、境遇を決めかねているのが現状だ。
「あいつは、もう人の世では生きていけません。どんなに隠れて生きようとも、あいつはどうしても目立ってしまう。あんな存在が全く姿を変えずに人の世をさまよっていたら、遅かれ早かれ人間ではないと気付かれてしまいます。しかも外国では写真、という技術が生まれたそうです。いずれ普及して誰しも使えるようになるでしょう。そうなれば、もうあいつは隠れる場所が無くなるんです。ここ以外に、安寧の場所は無いんです」
「……」
「あいつを人の世に連れ出してしまったのはオレの責任です。本来はオレが責任を取らなければいけないのはわかってます。でも、オレではあいつを守れなかった。オレはどんな処遇でも構いません。お願いします。天明を、天明だけは助けてやってください」
そう言って、呉水は深々と頭を下げた。雲中子はその真剣で外見以上に聡明な言いように呆気に取られてしまった。
(ああ、心配だったんだ。そりゃあそうだよね、彼にとっては家族のようなものだ)
報告書の内容を思い返す。彼は彼なりに自分の家族に害が無いように警戒していたのだ。この一ヶ月間、どれだけ不安だったのだろうか。そんな事にすら気にかけることはなかったのかと、自分を恥じた。
雲中子はひとつ咳払いをすると、しっかり呉水の目を見据えた。
「境遇は、今後の検査と観察結果により決定します。が、少なくとも彼を害する気はこちらにはありません。……ここは保護施設だからネ。まだまだうち預かりにはなるだろうけど、何かの実験台にするとか、えげつないことはしないから安心していいヨ」
その言葉を聞いて、呉水は顔を上げた。その表情は安堵が見てとれるようであり、先程見せた笑顔ですら警戒心が抜けていなかったものであったと思わせ、雲中子の胸を傷ませた。
呉水は座ったままではあったものの、作揖をしつつ再度深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。道長の御慈悲に感謝致します」
「そんな、大袈裟だって。それにさ、キミさっき『人は外見に引っ張られる』って言ってたろ?子供にそんなに畏まられると逆に緊張しちゃうから、もっと気さくに話してくれたほうが助かるヨ」
する呉水はぱっと顔を上げて、ニカっと笑った。
「え?あ、そう?いやあー、こっちとしても気を使わなくて済むから助かるな!そうだ、戸棚にあった饅頭ってアレ食べていいやつ?夕飯が少なかったから腹減っててさぁ」
「いや切り替え早くない!?」
雲中子の突っ込みに、呉水はケラケラと笑い声を上げる。彼とは何度か顔を合わせたことはあったが、こんな表情を見るのは初めてだった。
「これ、オレの得意技。気持ちの切り替えは速さが大事。ああ、もちろん礼度はわきまえるさ」
「はあー、得意技、ねえ」
「……さっきの言葉は本気だからさ。だから頼むよ、雲中子さん」
少しばかりぽかんと口を開けていた雲中子だったが、その言葉に頷くと、呉水は小さく頷き返した。
(じゃあ、なんで脱走なんてしたんだ、と聞くのは野暮かなぁ。本人も動転していたって言ってるし)
彼に対する疑問は残るが、その真摯な口振りに雲中子はそれ以上深入りすることはできなかった。
そのため、話題を変えることにした。
「そうだ。キミはどうなんだい?さっきからガイテンミョウジの話ばかりじゃないか。キミ自身の希望はないかな?」
「……は?オレの?」
なんとも素っ頓狂な声で呉水が返す。
「なんでも直ぐにとはいかないけどさ。部屋のこともあるし。食事が少ないんだったよね?明日から増やそう。本が読めるならいくつか貸すヨ。外出希望は……職員同伴になるけど来月……いや再来月ぐらいにはなんとか……」
「ちょ、ちょっと待った。なんで?」
「え?なんでって……なんで?」
呉水の制止に次は雲中子が訳がわからないと言わんばかりに首を傾げた。それを見て呉水は険しい顔をして眉間を押さえた。
「……あー、なるほど。そうか、そりゃそうなるか……」
呉水はそのまま、何秒間か小声でブツブツ呟きだした。雲中子はどういうことか訳がわからずひとまずその様子を見ていたが、やがて呉水は顔を上げた。
「じゃあさ、仕事が欲しい」
「仕事?」
「やることがなくて暇で仕方ないんだよ。賃金が貰えたらそれに越したことはないけど、無理ならここの雑用手伝いでもいい。簡単な作業なら天明でも手伝えるように仕込む。あいつの社会勉強にもなるし。……ダメ?」
呉水からの提案に、ううんと雲中子は腕を組んで考えた。
保護生物に仕事を手伝ってもらうなど前例がない。無論、機密事項に触れる仕事や危険の伴う仕事も存在する。
しかし、後手後手に回って着手できていない仕事が山のようにあるのも現実だ。
(むしろ前例を作ってしまえば他の妖獣にも応用が効くかもしれない。妖獣によっては貸し出しもできるだろうし、里に貢献できる機会が増えれば上から予算をふんだくれるかも)
乗り越えなくてはならない課題は多いが、やってみる価値はある。
「……よし、なんとかできないか掛け合ってみよう。その代わり、なんとかなったらどんどん仕事を頼むから、よろしくネ!」
「ああ、楽しみにしとく!」
その言葉を聞いた呉水は、嬉しそうに子供っぽく歯を見せるように笑っていた。
(……ん?)
しかし、雲中子はその表情に小さな引っ掛かりを覚えた。
些かわざとらしいというか、言葉と表情に感情が乗り切っていないような、気のせいと思えばそれで終わってしまうような、本当に些細な違和感を。
・・・・
「……子?うんちゅーしー?どうした?そんなボーッとして。麺が伸びちまうぞ」
そう言われて、雲中子はハッと我に返った。気がつくと、スイが真正面に座っており、盆を乗せて持ってきた急須と蓋碗を二つ机に並べているところだった。急須からは湯気と共にほんのり茶の香りがした。
「あ、ああ。ゴメンゴメン、ちょっと眠くなっちゃって」
「大丈夫かそれ……。夜食なんか食ってないで寝たらどうなんだよ」
「あははは、返す言葉もゴザイマセン」
スイは全くもう、と呆れ笑いをしながら茶を淹れた。当然のように自分の分まで持ってきてくれる彼の気遣いに雲中子は嬉しくなった。
あれから年月が経った。雲中子には短く、スイには長い年月だ。あの頃よりはスイの表情は豊かになったし、二人は打ち解けたと雲中子は信じている。信じたいのだが、あのとき感じた違和感は拭えずにいる。
実際に、スイは自らの過去は話したがらなかったし、たまに話題に出しても躱されてしまう。
誰にだってそれぞれ触れられたくない過去はある。それは雲中子も例外ではない。
だから表面上は親しくあっても、不可侵の部分には触れないよう、傷つけないようお互いに距離を取る。
多少なりとも人間社会の真似事をしている以上、当たり前の行為ではあるとわかっていながらも、時間が過ぎるほどに浮き彫りになる距離感と遠回し故の苦々しい拒絶に、どうしようもなくもどかしくなる。
「スイ、お椀とお箸持って来な。半分あげるヨ」
「え、いいのか?」
スイの声が弾む。その素直な食欲に雲中子は小さく笑みを零した。
「いいよいいよ、ささ、ボクとラーメンを食べて共犯者になってヨ」
「うーわー、犯罪教唆だー。いっけないんだー」
と言いつつも、スイは立ち上がるといそいそと再び厨房へ向かった。それを見送りながら、雲中子は小さくため息をついた。そしてそれよりなお小さく、自分にしか聞こえない大きさの声で呟く。
「ねえ、スイ。これぐらいなら、キミの秘密の共有者でいていいよね?」
その時、明かりのついた室内であるにも関わらず窓からすっと月光が差し込んだことに気付き、雲中子は窓から空を見上げた。
雲の切間からほんの一瞬だけ満月が顔を覗かせたが、それはすぐに雲の中へと消えていった。
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