幕間 月のない夜に(前編)

 眠れない。

 全くもって、眠れない。

 布団に寝そべるのも居心地が悪くなり、スイはむくりと上体を起こした。

 元々物置だった部屋のためか、この部屋は窓がない。本来なら照明を全て消すと一切何も見えないぐらい暗いのだが、先日の事件で扉が歪んでからは隙間ができており、そこから廊下にある非常灯の灯りがうっすらと漏れ、部屋の中がかろうじて見えるようになっていた。

「……おはよう」

 すぐ近くにある椅子に腰かけていた天明が、声をかけてきた。

 一応パーテーションで区切られたスペースに自分の寝床があるはずだが、普段睡眠を必要としない彼は、夜はだいたいここに座っている。

 特に何かしているわけでもなく、暗闇の中でただそうして、スイを見ているだけだ。異様ではあるが、スイにとってはいつもの光景だ。

「おはよう。……眠れてないけどな」

「うん、知っている」

 天明には、スイの体調は筒抜けだ。はるか昔、スイに血を与えた影響だと思われる。スイはやれやれとため息をついて起き上がると、背伸びをした。

 机上の電子ランタンを点けて、時間を確認する。時刻はもうすぐ深夜三時。昼間に仮眠をしたとはいえ、ここまで寝付けないのは珍しい。原因はわかっているが。

「あー……。天明、オレ水飲んでくるわ」

「そうか」

 さも当然のように付いていこうと天明は立ち上がったが、スイは少し申し訳なさそうに笑ってみせた。

「悪い、今日は一人で行くよ。すぐ戻るから」

「そうか……」

 そう返すと天明は椅子に座り直した。表情も声のトーンも変わってはいなかったものの、どこか残念そうだった。

 スイは少し罪悪感を感じつつも、一人で食堂へ向かった。スイの部屋は二棟、食堂は一棟にあるのでそこそこ距離があるが、見回りの職員と会うことはなかった。スイにはそれが少しありがたかった。

 ふと窓から空を仰ぐ。中庭の木々に遮られているものの、今晩は曇りのようで星が見えない。せめて中庭にでも出て夜風に当たれないかとも考えたが、許可がないと夜間は出られない決まりだ。

「……動物園のモルモット」

 小さく自分の境遇に悪態をつきながらトボトボ歩いた。

 食堂まできたところで窓から光が漏れていることに気付き、スイは足を止めた。しかもどこかで嗅いだことのある匂いが漂っている。夜に嗅いではいけない禁断の匂いだ。そのまま少しばかり匂いの正体について考えを巡らせ、記憶に一致するものを思い出した途端スイははっと顔を上げ、勢いよく扉を開けた。

「……ニッスンの『おうちでラーメン亭豚骨しょうゆネギマシマシ味』だこれ!」

「わあッ!?え!?何?なに!!??」

 食堂では、雲中子が今まさにカップ麺に仕上げ用の風味油を入れようとしていた瞬間だった。驚いた拍子に油が数滴机に飛んでしまい、雲中子は落胆の声を上げた。

「あーあー、ちょっと溢れちゃったじゃないかぁ。この油が美味しいのに」

「こんな夜更けにラーメンなんて食おうとしてる方が悪い。あーあ、いけないんだ〜。仙人様が夜中にカップ麺なんか食うなんて〜」

 スイはお構いなしに雲中子をからかいながら、厨房へ向かった。コップを探し、冷蔵庫から冷茶を見つけて注いだ。

「いいんですぅ、仙人でも食べていいんですぅ。食べちゃいけないってルールないですからぁ。それよりスイだって、こんな時間に珍しいじゃないか。どうしたの?さては怖い映画でも観ちゃった?」

 雲中子も負けじとからかうように言ってみせたが、スイからの返答はない。これはしまった、と雲中子は後悔した。

 スイには下界調査のために、過去に何度も本や映画を渡しては内容を審査させてきた。これも下界に行く機会のない桃源郷の住民達が、正しく下界を知るために必要なことだし、スイも協力的だ。しかし何度か、途中で読むのを中断してしまったり、審査結果を提出できなかったことがあった。

(混じってたか、子供が死ぬ話)

 実話であれ物語であれ、スイは子供の死亡描写にはめっぽう弱かった。文章ならまだ辛うじて読めるようだが、絵や映像になると視覚に直接効いてしまうためか、途端に顔色が悪くなる。

 酷いときだと、人知れずトイレで吐いている。

 本人は隠しているつもりだが、雲中子は以前から知っている。やんわり指摘してもはぐらかされるため、見守るに留まっているが。

 なるべくそういったテーマの作品が混じらないようにしているが、どうしても完全に避けることはできない。

(そんなになるぐらいのトラウマを持ってるのに、『里の子達のためになるから』とか『金が貰えて天明のために貯金もできるから』って理由をつけて続けてるんだよなァ、この子は。まったく……)

 ふう、と雲中子は小さく息を吐いた。厨房にいるスイには聞こえないだろう。

(何に対しての罪滅ぼしなんだろうねぇ……)

 以前から薄々勘づいてはいたが、スイには身内や子供のためなら敢えて自分が傷付こうとする節がある。以前はこのような遠回しな行為だったため自傷行為とは断定できなかった。

 確信したのは先日の罔象絡みの事件だ。まさか子供に姿が似ているとはいえ、妖獣のために死のうとするとは思わなかった。

「ねえ、スイ。観るのしんどかったら、次は断ろうか?」

「……雲中子は過保護だな。うん、言う通り悪趣味な映画もあったけど、それ観てグロッキーになるほど繊細じゃないって!これはアレだよ、長時間作業したから、脳がまだ起きてて眠くならないってだけだから。平気平気!」

 と、スイは笑い飛ばすと、今日観た作品の感想を嬉々として話し始めた。あの本は読みやすいが誤植が多いだとか、あの映画は里の住民には刺激が強いかもしれないが雲中子は好きそうだとか、そういった話題を次々と投げて来る。雲中子はうんうんと相槌を打ちながら、ふきんで机の油を拭き取った。

 今のような探りは何度かしたが、スイはいつもそうやってはぐらかすだけだ。元より、自分のことは話したがらないのだ。

(……ああ、そういえば昔も今みたいなことがあったなァ……)

 偶然同じ場所に居合わせて、同じように歯痒い思いをした記憶。


 それはスイと天明が保護されてひと月が経とうとしていた頃の話だ。

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