第7話 道の途中(8)

「あの、もしかして前に僕がスイさんの弟だって見抜いたのって、そう『視えて』いるからですか?」

 天明はどこかきょとんとした様子で、張景を再び見た。また無言の時間が流れるが、今度は先程よりも時間をかけることなく口を開いた。

「……生き物の、魂魄。いのち。には、熱がある。血や気が通ってる。体もそう。だいたいは。……その体には、スイと違うけど同じ血が在る。そう視えた。はじめてだ。だから、そう確信した」

「確信……」

 そう呟いて、張景は自分の胸に手を当ててみた。

 今朝気づいた自分自身への不安。記憶が無いことによる、己が己であるという確証が持てないことによる自信喪失。

 天明はそれをはっきりと『視える』という。紡ぐ言葉はたどたどしいが、それには一切迷いがないということは理解できた。彼にとって事実を述べているだけだろうが、今の張景には広成子の言葉と同じぐらいの心強さがあった。

 なにより、胸が少し暖かくなった。気がした。

「すごいな、天明さんは。なんでもわかっちゃうんだ」

「なんでも……」

 途端に天明が俯いた。張景はなにかまずいことでも言ってしまったのではないのかと心配したが、様子を伺おうと片手を床について距離を詰めようとしたところ、ぱっと天明と目が合った。

「わからないことが、ある」

「は、はい。なんでしょうか」

「空気」

「くうき」

「うん……うん?」

 張景の思考が一瞬止まったが、天明は構わず続ける。

「人の群れの中にあるらしい。気の流れでも、大気でもないらしい。俺には視えない。スイは視るのがうまい、らしい。わからない」

 ここでようやく、張景はそれがいわゆる『察する』だの『当意即妙』だのと言われているものだと気付いた。どこかの国では『空気を読む』とも言うらしいと、なにかで読んだことも思い出す。

 確かに、彼は浮世離れしている雰囲気があるし、実際人間ではないのだから人の輪とは本来無縁なのかもしれない。人の感情を察して行動するなど、先程までは考えにくかったのだ。

 だが、張景にはそれに解せぬと言わんばかりに首を傾げている彼が妙に人間臭く思えたし、そのせいですっかり気が緩んでしまったせいで、笑いが込み上げてきた。天明は相変わらずこちらをガン見しているので、張景は含み笑いでなんとか堪えた。

「うん、うん。天明さん、それですね、実は視るのすっごく難しいんです」

「そうなのか」

「そうなんです。でも、経験を積めばきっとわかりますよ。僕も手伝いますから」

「そうなのか……」

 なんだか納得したのかしていないのかわからない反応だったが、とりあえず理解はしてもらえたようなので、張景は立ち上がってうんと伸びをした。固い床の上に直座りだったので尻が少々痛いが、それが気にならないぐらい気分は晴れやかだ。今ので完全に余計な力が抜けたからなのかもしれない。

「天明さん、ありがとうございます」

「……?」

「ああ、その、さっきの元気の話。実は精神的にも参っていたんですが、天明さんと話していたらだいぶ楽になりました」

「そう、なのか」

 と言いつつも、相変わらず無表情なのに頭上に疑問符が浮かんでいるのが見て取れるようで、張景は内心和んだ。スイが時折天明を犬のように喩えるのもわかる気がした。

 一歩踏み出して日向に出てみる。真夏のそれほどではないにせよ、日陰からの明暗差に少々目がチラつく。しかしそれ以上に日光の暖かさが心地よく、張景は深く息を吸った。

「もうひとつ聞いていいですか?」

 天明からの返事はない。だが、それが拒否の意ではないことは張景でもわかった。

「もしも……」

 言いかけて、張景は口を閉ざした。

「……ううん、やっぱりいいです」

「そうか」

 相変わらずよくわかっていないような口振りで、天明が頷く。

(うん、これは僕が決めることだ。僕が考えないと意味のないことだ)

 張景は昨晩からの広成子との会話を思い返した。記憶を思い出す理由、リスク。正直なところ、今でも怖い。辛い思いをするかもしれないし、後悔するかもしれない。

(それでも、この心は知りたいと思っている。知る怖さ以上に忘れることが怖いんだ)

 それは天明との何気ない会話で気付いたことだった。昨晩あんなに取り乱すほど恐れたのに、色々と考えてしまい別の恐怖に上書きされそうになっていたことだ。

 張景はくるりと身を翻し、天明と向き合った。天明は赤い瞳でじっとこちらを見つめるだけだ。目を逸らしたくなるほどの真っ直ぐな眼差しに、張景は負けないぐらいの力強さを込めて見つめ返した。

「天明さん。僕、昔の記憶が思い出せないんです。でも、思い出してみせます。スイさ……兄さんに、僕はあなたの兄弟ですって胸を張って言えるように。だからそれまでは、もうしばらく内緒にしておいてください」

 そう言い終え、人差し指を唇に当てた。天明も理解したのか、真似するように人差し指を唇に当てて見せてくれた。それが嬉しくて、張景はくすりと笑った。

「……あ」

 ふと、天明が何かに気付いたように視線を外したかと思うと、突如立ち上がった。

「スイが起きた、と思う。行かないと」

「そ、そうですか……」

 そんな事までわかるのかと張景が驚いているのをよそに、天明はさっさと階段へ向かって歩き出した。と、一度ぴたりと立ち止まると振り返り、

「ケイ、また明日」

 と、一言告げるとさっさと階段を降りていってしまった。

 残された張景はあっという間の出来事にしばしぽかんと立ち尽くしていたが、はっと我に返り、

「……名前、初めて呼ばれた」

 しばらく言葉にできないぐらいの感動にふけっていたのだった。


・・・・


 同時刻、自室で仮眠を取っていたスイは寝台から飛び起きた。顔色は青く涙目で、全身汗だくで気持ち悪くなる。肩が動くほどに呼吸は乱れており、それに気付くとスイは自分を落ち着けるより先に、真っ先に近くに置かれた椅子へ視線を向けた。

(……いない、か)

 そこでようやく、息を深く吐く。普段なら自分が眠っている間の定位置に彼の姿はない。珍しいこともあったものだと驚いたが、それ以上に今の自分の醜態を見られなくて済んだことに安堵した。

(『兄ちゃん』が、こんな格好悪いところ、見せるわけにはいかないからな)

 そう自分に言い聞かせつつも、胸がまだざわつく。

 スイは雲中子に頼まれて、昨日から本だの映画だのを通して見続け、その都度レポートを作成していた。さっさと終わらせたくて夜通しで作業し、区切りのいいところで仮眠を取っていたのだが、昨夜観た映画のせいか、眠りは最悪だった。

(……まあ、今まで熟睡できたためしがないけど)

 悪夢を振り払うように、ガシガシと頭を雑に掻く。無論それで気分が晴れるわけもなく、スイはふらりと起き上がると、外の気配を気にしつつも疲れた足取りで戸棚に向かった。

 向かって右側の引き出し。ゆっくり引くと古ぼけた柄の短剣が仕舞われていた。

 皮の鞘に入っているそれは、数少ない彼のここに来る前からの私物であり、本来なら『保護生物』としては持ち込みはできないはずのものであった。雲中子の働きかけもあり、いくつかの条件つきで許可されたものだ。

 その条件に基き、いまは鞘を抜くどころかこの棚から取り出すことはできない短刀の柄に、そっと指先で触れる。馴染みのある感触にほんの少し気分が落ち着くが、同時に身の引き締まる思いになった。

「……父様」

 誰もいない部屋で、自分以外には決して聞き取れないほど小さな声で呟いた。懐かしい響きに胸が痛んだ気がして、スイは苦い表情を浮かべた。

「もうすぐ。きっと、もうすぐに……」

 そう言いかけて、遠くから聞こえる足音にハッと顔を上げた。まだ扉が完全に直っていないままだからか、廊下から聞こえる歩行音は扉の隙間からよく響く。

 よく聞き慣れた足音の主は、程なくしてこの部屋に戻るだろう。スイはそっと引き出しを押し戻し、自分の頬を軽く数回叩くと、『いつも通り』の表情を浮かべ、出迎えのため扉へ向かったのだった。

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