第7話 道の途中(5)

 広成子は張景をどうにか落ち着かせると台所に降りていき、白湯をつくり張景の元へ戻った。

 張景は寝台に腰をかけて疲れでうなだれていたが、広成子が扉を開けると反射的に背筋を伸ばした。広成子は茶器と急須の乗った盆を机に置くと、白湯を淹れて張景に渡した。茶器から伝わる熱に触れ、張景は自分の手がかなり冷えてしまっていたことに気付いた。

 張景がゆっくり白湯を飲み干し、広成子は優しい笑みを浮かべた。広成子は空になった茶器を渡すよう促し、張景はそれに従いおずおずと茶器を渡した。

「少しは落ち着きましたか?」

「はい……。すみませんでした師匠。ところでこれは……」

 と、張景は自分の額に貼られた霊符をつまみあげた。手鏡で確認すると、専用の黄色い用紙に朱で書かれたよくある形式の霊符である。しかし張景が教わっていないような紋様が重なり合って書かれている。

 張景が混乱した際に広成子が咄嗟に貼ったものであったが、貼られた途端に不思議と気持ちが落ち着いていたのだ。

「それは本来、呪いの進行を抑えるための霊符です」

「呪い……って、僕は呪われているのですか?」

 驚く張景を見つめながら。広成子はこくりと頷いた。

「正しくは、記憶に二重の封印がかけられています。残念ながら私は記憶に関する術には詳しくないのですが……、おそらくは一つ目は記憶そのものを直接封印する呪い。そしてもう一つは」

「……思い出そうとすると、思い出そうとすること自体を忘れてしまう呪いですか」

「……そうです」

 二人同時にため息をつき、数秒間の沈黙が流れた。その間、風で窓ガラスがカタカタと揺れる音だけが室内に響く。

 先程から感じる頭痛を抑えるように、張景は両手で頭を抱えた。少なくとも今だけは、はっきりと覚えている。今まで何度も疑念を覚えたり、何かを思い出そうとした途端にフッと考えていたことを忘れてしまっていたことを。

 しかし後者の呪いはともかく、何度思い出そうと試みても、過去の記憶は思い出せなかった。具体的にいつから記憶を失っているのか遡ろうとしても、頭の中が混濁しているようで少なくとも今は無理だった。

「なんで、僕にそんなものが……」

「わかりません。しかし……おそらくは、術らあなたがここに来る前にかけられたものでしょう。専門外とはいえ、弟子がこんな呪いをかけられて帰ってきたのなら流石に私でも気付きます」

「ということは、二百年以上も前から……?」

 広成子はふむ、と顎に手を当てしばし考え込んだ。悩んでいる、というよりは自分でも見抜けなかった術そのものにやや感心しているようだった。

「……師匠は、これを解けますか?」

「難しい質問ですね」

 張景はぱっと顔を上げ、困惑した表情で広成子を見つめた。広成子は落ち着かせるように、張景の頭にそっと手を乗せた。

「張景。私は記憶に関わる術は専門外です。しかもこれは今まで誰も気付けなかった程、巧妙な術です。無理に解こうとすれば、ほかの記憶に問題が生じる可能性があります。わかりますね?」

「……はい」

「それに、呪いだからと言ってその全てが悪いわけではありません」

「……どういうことですか?」

 広成子はゆっくり手を離すと、無言でゆっくり頷いた。張景は目を閉じて、言葉の意味を何度も頭の中で繰り返し考えた。

 呪い、という言葉だけ聞くと、人を殺したり苦しめたりするなどの負のイメージがどうしても強くなる。しかし呪術も道術も結局のところは、人に影響を与えるという点では同じなのだ。腐敗と発酵のように、人によってその結果が良いか悪いかというだけに過ぎない。

(そもそも、なんで僕にこんな術がかけられている?)

 頭痛を鎮めるように深く息を吐くと、少しだけ思考が澄んだ気がした。程なくして張景は目を開けると、ゆっくりと口を開いた。

「……知ってはいけないものを知った」

 その言葉に、広成子はもう一度頷くと立ち上がり、側にあった張景の筆と無記入の護符を取った。

「真相は、わかりません。しかしその可能性は十分あり得ます。もしも事件性のあるものなら、命を狙われる危険があります。惨たらしいものを見た可能性もあるでしょう。思い出すことで、あなたの精神に異常をきたすかもしれません。最悪、その両方かそれ以上か……」

 と、広成子は張景の顔色に気づいて口を閉じた。元々の体調不良と合わさり、真っ青になっていた。

「……その符を服用できるものに変えましょう。私の符で片方の呪いをしばらく抑えますから、そのあいだに自分がどうしたいのかゆっくり考えなさい」

「師匠……」

 広成子は張景の正面まで来ると、膝をついて目線を合わせた。本来、師が弟子の前で膝をつくことはありえないことだ。張景は戸惑ったが、広成子の真剣な表情に気付き、じっと目を合わせた。

「張景。これだけは言っておきます。あなたは、わたしの子同然だと思っています。二百年の歳月もこの桃源郷……いや、私にとっては短いものです。だから、いつでも頼ってください。あなたが考えて、どんな決断をしても、私はあなたの味方です」

「味方……」

「そうです。張景よ、だから一人で抱えこまないでください」

 その言葉に、張景は緊張の糸が切れたのか涙腺が緩みそうになった。普段より真摯なその声には嘘偽りがないと確信した。

 と、それと同時に張景はいままでの自分は、なぜいまの今まで師に相談しなかったのだろうと己を恥じた。こんなにも親身になって貰っているのに、これまでの事をなあなあにしていたのだろうと。

「……師匠、話したいことが、あるん……です」

 言いかけて、張景の視界がぐらりと揺れた。咄嗟に広成子が倒れそうになった張景の体を支え、そのまま寝台に寝かせた。先程の騒動と今の話が負担になったのか、熱がぶり返したようだ。

「待ってください、薬を持ってきます」

 そう言い残し、広成子は急ぎ足で部屋から出て行った。残された張景はぼんやりとした目で天井を仰ぎ、やがて安堵の表情を浮かべながら眠りに落ちるのであった。

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