第7話 道の途中(4)

 広成子と張景の住まう洞は、一階に炊事場や餐厅や風呂場に客間などがあり、師匠や弟子の寝室は上の階にある。立地上一階一階は広くないため、更に上の階には修行場などと上に長い。

 普段は階段の登り降りなど張景にとっては苦でもなんでもなかったが、今朝からの不調に加えて無理して徒歩で通勤したせいで体力がごっそり落ちていた。体は正直なもので、部屋に戻るや否や張景は寝台に突っ伏した。

 糸が切れた人形のように、体に力が入らない。熱で頭は思うように働かないし、足の関節がズキズキ痛む。それでも今にでも睡魔に負けそうな目を、張景はごしごしと擦った。

(眠るのが……怖い)

 なんとか気力を振り絞って、履物を脱ぎ捨ててごろんと仰向けになる。

 単純に悪夢を見るのが嫌だ、というだけではないのだ。怖いと感じる原因を探ろうとするが、考えるだけで『それ』だけではない不快感と不安に襲われる。その正体がわからなくて、ひたすら気持ち悪い。

(そうだ、子牙さんと、帰りになにか話していたこと、が……何を……確か……)

 うとうとと意識が遠のく。あのとき忘れてはいけない何かを、何かを思い出しかけたような気がしたのだ。自身の願いについて。そのあと気分が悪くなって、そのとき何を考えていたのかもう思いだせなくなっていた。

(僕は……僕に……)

 そのまま、張景の意識は暗転した。


・・・・


 見た事のある夢だった。それだけはすぐ思い出した。

 幼い自分が、兄に手を引っ張られて歩く夢だ。ただ、景色が以前より鮮明に見える。夢の中の張景は幼い姿だったが、夢である自覚はあるのに明晰夢のように自在に体を動かすことはできない。まるで、体を座席に縛り付けられて観る映像のようだ。

(これは……過去の、夢?)

 辺りは何もない草原で、人の影は自分たち以外にない。高原なのだろうか、日差しは強かったが吹く風は強く肌寒ささえ感じる。

 幼い自分は、長く歩いて疲れていた。子供の『長い』は実際それほど長い距離ではないとは思うが、とにかく足の裏が痛くて、兄の背で寝ている弟が羨ましかった。

「にいさん、つかれた。コウだけずるい!ぼくもおんぶ!」

 当時の張景はまだ四歳で、わがまま盛りだっただろう。弟は年子で自分とそう変わらないのにと思っていて、余計待遇に不満だった。

 それでも兄は、怒りもせずにちょっと困ったように笑いかけた。今より更に幼い顔だった。そこで兄とは年が七つ離れていたことを思い出す。体は同じ子供よりしっかりしているが、それだけだ。どこにでもいる十二歳の少年だ。

「順番順番。ほら、あの丘に木が見えるだろ?あそこまで行ったら変わってあげるよ。それまでもうちょっとだけ頑張ろう。な?」

「ええー!やだ!あるくのいや!」

 幼い張景は駄々をこねながらしゃがみこんでしまった。それでも幼いスイは怒ることなく、辛抱強く張景を励ました。

「もーいやだ!おうちかえろ?にいさんかえろ?」

「駄目だ」

 スイがぴしゃりと言い放つ。それが怖く感じて、思わずびくりと体を強張らせてしまった張景に、スイは慌てて膝をついて目線を合わせ微笑んだ。

「ソウ、オレ達は叔父さんの家まで行くんだ。父様も母様もそっちにいるから、いま家に戻っても誰もいないんだ。だから、な?もうすぐだから」

「……ほんとう?」

「本当、本当。兄ちゃんが嘘ついたことあるか?」

 そう言いながら、スイは張景の頭を撫でた。そして背中で眠る末弟を起こさないようにそっと立ち上がると、再び張景の手を繋いで歩き出した。

(ああ、なんだ。このときから嘘をついていたんだ)

 当時は信じて疑わなかった。優しい兄が嘘をつくはずがないと。

 でも、今ならわかる。何度も見てきたから。たとえ幼い兄弟を安心させようとするためのものであると知ったとしても。

(……なんの為に?)

 ふと疑問が生まれる。張景には覚えがなかった。何故、こんな場所を子供だけで歩くことになったのか。スイの言葉はどこまで嘘なのか。わからないことだらけで、頭がおかしくなりそうになる。

(そもそも、僕たちはどこから来た?父は?母は?なんで僕は……)

 考えることが多すぎる。様々な疑問が頭を駆け巡り、視界がチカチカするような感覚を覚える。胸が苦しい。耳からキュウと音が抜けるように消えていく。苦しさに潰されそうになったとき、不意にあの声が聞こえた。


『汝の罪を答えよ』


 気付くと、張景は現在の姿で地に伏し、それをカイチがじっと見下ろしている。カイチの足の間からはあの兄弟が、丘の先へと消えていくのが見えた。

(嫌だ、行かないで。お願い、その先は……)

 這おうとしても、体が動かない。まるで、誰かに掴まれているかのようにーー。



・・・・・


「……景!張景!しっかりしなさい!」

 自分を呼ぶ声に、張景ははっと目を覚ました。広成子が腕を掴んで揺さぶっていたのだ。

 一瞬の沈黙が訪れる。張景は、そこで自分が息を荒げていることに気付いて、訳のわからないまま当たりを見渡した。

 よく見慣れた自室である。すっかり日は暮れていて、部屋は広成子が持ってきたであろう灯り以外に部屋を照らすものはない。

 落ち着いて、息を吸おうとしたときに張景は自分の呼吸が嗚咽混じりだということに気付いて、恐る恐る自分の顔を触った。目からは大粒の涙が今も溢れている。広成子は張景の目覚めを確認すると、ゆっくり手を離した。

「なかなか起きてこないから様子を見にきましたが……。どうしたんですか、そんなに取り乱して……張景?張景!」

 広成子の言葉など耳に入っていないかのように、張景は寝台から飛び起きると不安定な足どりで急いで机へ向かった。途中、家具に当たり物が落ちても気にする余裕もなく、非常に焦った様子だった。

「早く、早く早く早く書かないと……!!」

 暗がりの中、感覚だけで筆を探す。近くにあった竹簡を中身を確認せずに勢いよく開き、机に置いてあった資料がぶつかりバサバサと落ちてしまった。

 張景は墨をつけることすらも忘れ、震える右手で筆を竹簡に落とした。が、そこから手が動かない。広成子が息を呑んでその様子を見守るが、時間が流れるだけだ。

 額から流れる汗が竹簡に落ちる。その瞬間、張景はハッと我にかえったように筆を落とし、嗚咽混じりに泣きながらその場に崩れ落ちた。

「張景!大丈夫ですか、しっかりしなさい……!」

 広成子が駆け寄り、張景の肩を支えた。張景は泣き崩れながら、震える唇で「師匠」と小さく呼んだ。

「忘れて、しまうんです。忘れちゃ、いけないのに、忘れてたんです。大切なこと、忘れてたんです……。うう、うううううう……!」

 張景は広成子にしがみつきながら、思いを吐露した。

 自分が『過去を忘れている』ことを思い出したのだ。

 思い出そうとすると忘れてしまうことを思い出したのだ。

 張景にとっては、今はそれが何より辛く、何より腹立たしかった。今まで疑問に思わなかった自分自身に。

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