第7話 道の途中(2)

 時は遡ること数時間前。

 広成子は日が昇る前に目覚めると日課の瞑想を済ませ、玄関の花に水をやるため階段を降りていた。

 この住まい──桃源洞の早朝ルーティンは概ね決まっており、いつもなら台所で張景が朝食の下準備をしている音が聞こえる頃だ。しかし、今朝は様子が違っていた。

 断続的に聴こえてくる包丁の音が微睡んだようにトロトロしているし、ヤカンの湯が沸騰してカタカタ音を鳴らしているのに、それを止める気配がない。おまけに調理中はいつも着ているエプロンが、なぜか餐厅の椅子に着せられている。

「張景?どうしましたか張景……ワァ」

 気配に気づいて顔をあげた張景の顔を見て、広成子は思わず声を上げた。明らかにいつもより顔が真っ赤だったのだ。

 しかし広成子はこめかみを押さえて、やれやれとため息をついた。

「張景よ、もしやまた一晩瞑想していたのですか?」

「え、な、なんでわかったんですか?」

「わかりますよ。師匠なんですから。とりあえずヤカンの火を止めなさい」

 張景ははっと気づいて慌てて火を消した。

 広成子には覚えがあった。張景は悩み事があると瞑想で心を落ち着けようとするのだが、つい時間を忘れて何時間もその場に留まってしまうのだ。それが原因で体調を崩したことも何度かある。

「なにか悩み事でもあるんでしょう。この前の居眠り……夢のことですか?」

「……それは」

 張景は口ごもりながら、思わず視線を逸らしてしまった。

 兄のことは広成子には伝えていない。正直なところ、自分でもどうしたいのかわからない。少なくともどうしたいかを決めるまでは、言いたくはないと張景は考えていた。

 しかしそれ以上に、わからないことがある。


『汝の罪を答えよ』


 先日、カイチに問われた言葉。あの言葉が、張景の頭から離れなかった。

 あのとき確かに感じた罪悪感。しかし再度自分の胸に問いかけてみたが、その正体が思い出せずにいた。その気持ち悪さを払拭するように瞑想をしてみたが、一晩経っても思い出すどころか、いっそう不安感が積もっていくばかりだ。

(なんで……僕は、なんで……)

 張景の首筋に、汗が一筋流れる。それは熱からくる発汗なのか、それともこの戸惑いからくるものなのか、張景本人ですらわからなかった。

「……うまく、言語化できません」

 絞るような声で張景がなんとか答えると、広成子はしばらく間を置いてから、深いため息をついた。

「……わかりました。とにかく、その調子では仕事はできないでしょう。今日は安静にして」

「そ、それはダメです!この程度、体調不良のうちには入りません!」

 広成子の声を遮ると、張景は慌ただしく厨房から出てきた。

「僕は行きますから!師匠、すみませんが今日はご自身でご飯をよそってください!食器は流しに置いて頂けたら夜に洗います。果実水を飲まれるなら赤い蓋の方から飲んでください。では行ってまいります!」

 矢継ぎ早に言い終えると、張景はバタバタと大きな足音を立てながら出て行ってしまった。広成子はまたも小さくため息をついて、張景を見送った。程なくして張景が玄関を出て行き足音が遠のくと、桃源洞は静寂に包まれた。

「……やれやれ、頑固なところは誰に似たんでしょうか」

 広成子は困ったように薄く笑いながら、台所ではなく自分の部屋へ向かった。念のため雲中子に文を送っておこうと考えながら。


・・・・


 話は現在に戻って、妖獣保護センター所長室前。

 張景は若干おぼつかない足取りではあったものの、修行で鍛えた体力と筋力のおかげで特に問題なく施設に着いたのであった。が、一時間以上は歩いたせいで流石に張景の膝は少し震えていた。

「景くん、大丈夫か?どう見たって熱出てるじゃん。気分は?とりあえず仮眠室行くか?」

 スイが駆け寄ってきて、張景の顔を覗き込んだ。先日同様、また心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じながら、張景はにこりと笑ってみせた。しかし自分でもわかるほど、口角が引き攣ってうまく顔を作れなかった。

「へ、平気ですよ。微熱が出てるぐらいで、仕事に支障をきたすほどでは」

「……天明!」

 スイの呼び声に反応した天明は、素早く二人のもとへ移動すると、無言で張景の額に人差し指を当てた。少し力が強かったのか、押しつけられるままに張景の顎がくいっと上がる。そのまま数秒経つと、天明はゆっくり指を離した。

「三十八度六分」

「え、そんな能力あったのキミ?」

 ちょうど部屋から出てきた雲中子が驚きの声を上げた。スイは雲中子の方へぱっと振り返った。

「雲中子、景くんは……」

「わかってるよ。景クン、今日はお休みしなさい」

「このくらい平気……ムグ」

 反論しようとした矢先、張景の口を急にスイが塞いできた。驚いてスイに視線を向けると、スイは張景をじっと睨んでいた。まるで子供を叱りつけるときのような、真剣な目だった。

 雲中子は緩く笑みを浮かべながら、二人に近付いた。

「景クン、ここは生き物を扱う場所だよ。たとえ普段は大人しい妖獣であっても、生き物である以上は急に興奮したり暴れたりもする。そんな調子で、アクシデントに対処できるのかい?」

 雲中子の問いに、張景は何も言い返せず俯いた。普段より反応が鈍いのは自分でもわかっているが、遠回しではあれどこう正面から『今のキミは足手まといになる』と言われると、その通りと返すしかない。

 雲中子は張景の様子を見て、ぽんぽんと肩を叩いた。スイもそれを見て、手を離した。

「真面目に来てくれるのはありがたいよ!本当。そんな貴重な人材を、無理に働かせて怪我させちゃうのは絶対イヤなので、今日と言わず景クンには三日間のお休みを与えます。しっかり治してくるようにネ!」

「え……、でも、そんなに」

 戸惑う張景に、今度はスイが笑いかけた。

「平気平気。生きてりゃ誰だって体調崩すときはあるし、仕事のフォローはオレ達もやるから、安心しなって!」

「スぅーイぃー。キミはさっき頼んだ仕事があるだろう〜?」

「チッ」

 わかりやすく舌打ちしつつも、スイは少し安心したように表情を緩ませた。それにつられてか、張景も思わず肩から力が抜けていった。

 スイは張景が実弟と気付いていない。単に自分が新人だから何かと気にかけてくれているのだろうとわかっていたが、それでも自分のことを気にかけてくれているのは素直に嬉しかった。少し心配性が過ぎるような気がするが。

「……お言葉に甘えます。ありがとうございます」

 張景はふらつきながらも拱手で雲中子に感謝を示した。スイは慌てて張景を支える姿勢を取ったが、何事もなかったためほっと胸を撫で下ろした。

「ちょうどこれから仙界府に用事があったんだよ〜。景クン、送っていくから屋上まで歩ける?」

「屋上、ですか?」

 張景は雲中子に言われるまま、スイに(心配されすぎだと思いつつも敢えて何も言わず)支えられながら、同棟の屋上へと向かった。もうすぐ夏が訪れることを予感させる眩しい日差しに、張景は思わず一度ぎゅっと目を閉じた。

「うんうん、今日はほぼほぼ無風か。スピードは出ないけど揺れなくていっか」

 呑気な口調はそのままに、雲中子は懐から一枚のビワ葉を取り出すと、それに息を吹きかけながらそっと手を離した。するとみるみるうちに巨大化し、程なくして敷物ほどの大きさになった。

(……すごい、呪文も印もなく仙術が使えるなんて、雲中子様はすごい仙人様なんだ……)

 雲中子はゆっくり振り返ると、驚く張景に向けてのんびりとした笑みを浮かべながらちょいちょい手招きした。そのままビワの葉の上であぐらをかいた。

「大したものじゃあないさぁ。ささ、ちょっと乗り心地は悪いかもだけど、ボクの後ろへ。横になっても大丈夫だから」

 言われるまま張景は雲中子の後ろへ回って座った。正直生葉独特の青臭さが気になるところだったが、我慢した。

 雲中子は張景の着席を確認すると、葉に気を込めた。すると大人が二人乗っているにも関わらず、ビワの葉はふわりと宙に浮いた。

「じゃあスイ、行ってくるね。例の仕事はサボっちゃダメだよ〜」

「サボらねえよ!……景くん、しっかり休めよー!」

 張景がスイの声に返事をする前に、葉は空高く上がっていき、仙界府へと飛んでいった。スイはそれを見送ると、大きく伸びをした。そのまま背を少し逸らすと、当たり前のようにすぐ背後に立っていた天明と目が合った。

「さて……、観るかぁーーー……。天明はどうする?」

「……」

「……景くんのこと、心配か?」

「……わからない」

 天明の返答に、ん?とスイは目を丸めた。姿勢を戻してじっと天明の目を見る。普段と変わらない、まるで朝焼けのような眩しい赤い眼をしている。その目が揺らぐことはなかったが、スイは何かを読み取ったのかうんうんと頷いた。

「わからない、か。うん、よかったな」

「……?」

「行くぞー」

 頭上に疑問符を浮かべる天明をよそに、スイはさっさと階段を降りていった。天明はすぐさま後をついていくが、スイの寂しそうな笑みには気付かなかった。

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