第5話 疑問、疑問、拒絶(2)
「あ」
厠の手洗い場で顔を洗い終え、所長室に向かう途中、張景は反対側から歩いてくる人物の顔を見て思わず足を止めてしまった。
「まったく、いくら桃源郷が閉鎖的とはいえ、手続きが簡単すぎやせんか?楽なのはいいが、俺でも申請すれば概ね通るのはいささ……あ」
向こうも、張景に気付いて足を止めた。
すらっと姿勢の良い佇まい、黒い髪と同じ色をした猫のような目。先日見たときと違うのは、ボロの道着に派手な羽織りではなく、清潔な白いシャツを着ていた事と、なにより実体があったことだ。
「姜子牙……さん!!」
「……おお、誰かと思えば昨日の。ここで働いとったのか」
子牙は別段驚いた様子は見せず、愛想のよさそうな笑みを浮かべた。実体がないときはどこか不気味で胡散臭かったが、姿がはっきりしていると普通の青年のようであると、張景は感じた。
手元の書類を封筒にしまうと、子牙はゆっくりとした歩調で張景に歩み寄った。
「そうそう、この体な、ひとまずあの粘土?を練り上げて作ってはみたんだが、急ごしらえにしてはなかなかだろう?俺って芸術家の才能もあったのかと自分でもびっくり」
「え、それって昨日の粘土で作ってあるんですか!?」
「そうとも、魂魄の一部を入れて遠隔操作で動いとる。まだまだ改善の余地があるがな。そうだ、ええとお前は確か……」
「張景です」
「そう、張景。張景、景……」
子牙は何度か繰り返し張景の名を繰り返し、ふむと指を軽く唇に当てて考える素振りをした。
「……この身体の素材提供者だから、感謝を込めて『マミー』とでも呼ぶべきか?」
「ぶっ飛ばしますよ」
「まあそれは冗談として」
こほんと小さく咳払いをして、子牙は続けた。
「俺はお前に恩がある。この身体のな。義だの礼だのは正直好かんが、恩を借りっぱなしなのも気分が悪い。そこでだ、特別にお前の願いを叶える事にした。喜べ。なんなら三跪九叩頭で崇めてもいいぞ」
「…………はあ?」
あまりに唐突な態度と言葉に、張景は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「あの、色々と理解が追いつかないんですが。殴ればいいんですか?」
「お前、大人しい顔して言動が怖いな……。なに、昔話によくある『いいことしたら神様からご褒美もらった』程度に考えとけ。魂盗るって訳じゃなしに」
「ええ……そうは言っても」
ふと、張景の脳裏にスイの顔がよぎった。それと同時に、自分のスランプを解決したいと思っていたことも。
(そうだ、昨日のことも、この前も、初めてここに来たときもそうだ……。ここに来てしばらく経つけれど、僕はなにも変わってはいない。何も進歩していない)
痛感したのは、己の力不足だけであった。張景は無意識に、服をぎゅっと握りしめた。
それを知ってか知らずか、子牙は大きな目をすうっと細めると、そっと囁いた。
「人間関係か、修行のことで悩みか?」
「ッ!?」
張景はぎくりとして思わず一歩後ずさった。子牙は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐさま「図星、図星」と言いながら、けらけらと笑い出した。
「な、な、にがおかしいんですか!」
「いやあ、ははは。わかりやすい。お前実にわかりやすいから。おもろい。うん。はははは!」
ひとしきり笑い終えると、子牙は大きく息を吐いた。
「人間の悩み事なんざ、大半が人間関係か、仕事と育児ぐらいだが、お前に子供がいるようには見えんし、仙道に暮らしの悩みはそう多くあるまい。残るは人間関係か仕事……修行ぐらいだろ」
「あ……」
言われてみればと、納得するしかなかった。それと同時に張景は、自分の態度に途端に恥ずかしくなり、かあぁと顔が熱くなるのを感じた。
「ふむ、特に思いつかないのならまた後日にしとうこうか。でもな、張景」
名前を呼ばれた瞬間、ぞくりと、張景の背筋に悪寒が走った。まるで蛇に睨まれたカエルのように体が緊張する。
先程となにも変化はないはずなのに、心を見透かされているような、内面を見られているような感覚に陥る。正直、かなり気持ちが悪い。
「それはお前が、自分を知らないと解決できんよ。いずれにしてもな」
「……自分、を?」
捻り出すように発したその言葉に、子牙は頷くと、張景の横を通り過ぎた。。
張景は少しして我に返ると、すぐさま子牙の方を振り返ったが、子牙の姿はそこになかった。
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