第4話 神を名乗る男(8)
三人は獣道に戻り、周囲を気にしながら茂みを掻き分けつつ進んだ。男の呪いである程度離れたらあの場所に戻ってくるとはいえ、離れ離れになるわけにはいかない。時折お互いがいるかを確認しながら、少し道を逸れたところでスイが立ち止まった。
「確かこのへんだったと思うけど……」
「どうしたんですか?」
「さっきここを通ったときに見かけたんだよ……っと、あった!」
きょろきょろと辺りを見渡していたスイが何かを見つけると、腰につけていたナイフを鞘から抜き、一本の楠の木へ近付いていった。
張景も後を追い、楠の木に近付いた。よく見ると、普通の楠の木よりも土より一メートルほど上が充血でもしたように赤い。
「こういう色の楠には、大抵アレがいるんだよ。あ、ちょっと離れたほうがいいぞ」
と、張景が何歩か下がったのを確認すると、スイは慣れた手つきでナイフで幹に切り込みを入れた。すると中から真っ赤な樹液が吹き出し、ぼたぼたと地面を濡らした。その色があまりにも鮮血に似た色だったので、張景は「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
スイは張景の悲鳴に苦笑しながら、吹き出す樹液がおさまるとナイフを器用に使い、慎重に切り込みを大きくしていった。幹は見た目より柔らかく、斧のようにはいかないものの、果物でも剥いているかのようにするすると赤い中身が露わになっていく。
突如、中から赤緑色の長い毛のような束がぴょこんと出てきた。スイはその毛束を掴むと、思い切り引っ張った。するとズルズルと音を立てながら、その切口の大きさよりずっと大きい生き物が引っ張り出された。
体長一メートルほどだろうか。ちょうど楠の木が赤くなっていた部分と大きさは同じだ。全身に生えた緑色の体毛は、赤い樹液のせいで正確な色はわからない。犬のような長いマズルとつぶらな目、大きな耳を生やしているが、輪郭は人間を思わせるように丸い。体も手足の先は獣のそれだが、胴の形はほとんど人間に近い。その生き物はスイに耳を掴まれた状態で、甲高い声で鳴いている。
「彭侯(ほうこう)。木精の一種で、こんな具合に楠の木に入って養分を吸う習性があってな。老廃物かなんかが木の中に溜まって変色して、真っ赤になるんだそうだ。一応こんな見た目だけど、食用としても重宝されている」
「た、食べるんですか……」
「食用犬みたいな味がする、らしい」
「うえええ……」
張景は色々想像してしまい、反射的に口を押さえた。しかし手慣れた様子で彭侯を縄で縛るスイに、恐る恐る聞いてみた。
「……色々と気になることはあるんですが、これに、あの人を入れるんですか?入りますか?」
「大丈夫大丈夫、なんとか捻じ込むから」
「……これ、殺すんですか?」
その問いに、スイはきょとんとした顔で張景を見つめた。その表情は「なんで?」と言わんばかりに、純粋に不思議がっているように見えた。
彭侯と呼ばれた妖獣は、全身に生えた毛と頭の耳から犬のようにも見えるが、顔つきや身体の形はほとんど人間。体長が小さいこともあってか、子供のように見えてもおかしくはない。
つい先日、同じ大きさをした人型の妖獣に命を分け与えようとした人間が、ためらいもなく他の妖獣を手にかけようとする。その行為に張景は違和感を拭えなかった。
「早く帰れないと困るだろ?」
「でも、なんというか、その……スイさんらしくないなって思って」
「オレらしい……?」
スイは言葉を反芻するように頭を下げて少し考えこむと、何一つ変わらない表情で顔を上げた。
「そりゃあ、だって」
スイが口を開いた瞬間、少し離れたところにいた天明が、突如凄まじい勢いで二人の元へ駆け寄ると、その勢いのまま両脇に抱え込む形で二人の胴体を掴み、数メートル先の茂みに飛び込んだ。二人はほぼ同時に衝撃に呻き、スイはその衝撃で彭侯から手を離してしまった。
「っ!!ゲホッ!ど、どうしたんですか天明さ……」
咳込みながら張景が身体を起こした瞬間、背後からズドンと大きなものが落下する音と、何かが潰れたようなグチャリという音がして、張景は反射的に肩が強張った。
恐る恐る振り返ると、つい先程まで二人がいた場所で、巨大な生き物が彭侯の頭を食いちぎっていた。
その生き物は、体長三メートルほどの巨体を持ち黄色と黒の体毛は虎のようであるが、顔は猫のような目を持ちながらもそれ以外は鼻の低い人間のようにも見えた。
肉食の人面虎身、張景には心当たりがあった。
「馬腹……!」
馬腹。人喰いの妖獣だ。
「景くん、静かに。なるべく音を立てないように起き上がって、視線を逸らさないようにゆっくり下がって。天明も」
スイが小声で声をかけながら、ゆっくり起き上がった。顔は強張りながらも声色は子供を諭すように冷静だった。
張景は指示通りになるべく静かに、早く起き上がろうとしながら、馬腹を見た。人のような形をした口は生き物を丸呑みできないのか、頭の次は腕、腕の次は足と、彭侯の胴体から引きちぎり食らっている。
そのグロテスクな光景に、張景は胃が逆流しそうになるのを堪えながら、なんとか立ち上がった。しかし馬腹は食事もそこそこに張景達の方を見ると、血だらけの口をにぃと上げて、猫か赤子の笑い声のような声をあげた。
「……まずい、かなり興奮してる」
「で、でも、天明さんがいれば手を出して来ないんじゃあ……」
「ここまで興奮してると効きが薄い。……天明、景くんを……」
と、スイが言いかけた途端、馬腹が耳をつんざくような唸り声を上げながら、張景めがけて飛びかかってきた。
「ヒッ……!!」
反応に遅れた張景だったが、瞬時にスイが張景にタックルし、二人共々地面に倒れ込むがなんとか躱した。
素早くスイが身体を起こし、矢筒から矢を一本取り出し構えた。先程のナイフも弓も、天明が馬腹を躱した際に落としてしまったため、取りに行くには距離がある。手元にある唯一の武器だった。
馬腹はその勢いのまま、茂みにぶつかって姿勢を崩したが、すぐさま立ち上がると次はスイに視線を向けながら気味悪く鳴いた。
「……!スイさん!足に怪我してるじゃないですか!」
張景は一歩遅れて立ち上がったが、スイの左脚から流れる血に気付き、思わず声を上げた。
「……あいつの爪が少し当たっただけだ。平気だ」
「平気なわけないじゃないですか!そうやっていつもいつも痩せ我慢して……」
「オレの責任だからだよ!」
張景を遮るように、スイは急に声を荒げた。その声に張景の肩がびくりと跳ねた。
「今の状況も、変な呪いにかかったのも、オレが景くんを誘ったからだ。オレのせいだ。オレの責任なんだ。だから、足が千切れようが腹を喰われようが、オレは責任を全うしなければならない!」
合点がいった。自分を帰す事を優先して、『らしくない』行動をしたのだと。
張景は、目を見開き、何か言おうと口を開きかけたがすぐに閉ざした。それは、到底スイを前に口にはできないことだった。
(なんて、異様なんだ)
普段は年上のように振る舞っているスイだが、見た目は張景の方が年上であるし、頼りないとはいえ道士である。素性も知り得ないのに、命をかけようとするその姿に、張景は不気味とも言える感情を抱いていた。
が、その感情を食らい尽くすかのように、次の瞬間に『異常』を感じた。
まるで全身の毛が逆立つような悪寒。それはまさに、本能的に感じる『生命の危機』だ。
同時に、ある方向からむせかえるほどの熱気が漂う。
喉を焼かれるほどの熱。それはスイも感じ取ったようで、青ざめた顔で瞬時に視線を別の場所に向けた。
「……天明、さん?」
そこには、まるで獲物を捕らえた猛禽類のように目を見開き、身体中から熱気を放ち馬腹を睨む天明の姿があった。
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