第3話 はじめての夜勤(6)
「……と、言う訳で。今日一晩ここの担当になりました。張景です。よろしくお願いします」
「はあ……。景くん、それはご丁寧に、どうも」
呆気に取られたような、おぼつかないような口調でスイは返事をした。今日は檻の中に入り、罔象の頭を膝に乗せながら、体にかけた毛布の中で体を撫でているようだった。
罔象自身は鼻まですっぽりと毛布で覆われていることと、暗い部屋のせいで詳しい様子はわからない。しかし昨日よりは呼吸が穏やかなようにみえた。
張景は檻の中に入ると、スイの隣に腰を下ろした。持ってきた荷物から水筒を探す。
「雲中子に、なにか言われたのか?」
「スイさんをどうにかしてくれって言われました。ほとんど寝てないとも。できたら部屋に連れて帰れって」
「……ごめん。それは無理だ」
「ですよね。雲中子様も、『てこでも動かないと思うから、今晩は張景くんがスイを見張ってて』って、頼まれてました。だから、今晩だけスイさんの担当飼育員です」
「オレは動物園の動物かなにかか……?」
スイは少々深刻に反応してみたが、大きくため息をついた。
「……迷惑かけてごめん。天明も来てるんだろ?部屋の外にでも。昨日もいた、よな」
その言葉に、張景は僅かに目を見開いた。察しの通り、部屋の外には天明が膝を抱えて座っている。昨日も、今日もだ。張景と目が合うと、人差し指を口に当てるものだから黙ってはいたが。
「仲、いいんですね」
張景は小ぶりの水筒を見つけると、蓋を開けてスイに差し出した。スイは小さく礼を言いながら、口にした。桃源郷でよく飲まれる、ありふれた緑茶である。その匂いと味にほう、と息を吐くと、スイは緩く微笑んだ。
「あいつとは、長い……付き合いだから。もう、家族みたいなものだよ」
「家族……」
ちくりと、張景の胸に何かが突き刺さるような感覚を覚えた。
「スイさん。その、前に仰ってた弟さんの事なんですけど」
ぴた、とスイが罔象を撫でている手が止まった。
いつかは言わねば。しかしそれは今なのか。ぐるぐると思考し、悟られぬよう早くなりそうな呼吸を静めながら、張景はゆっくり、ゆっくり言葉を紡いだ。
「……どんな人なのかなって。そう、それとなく探してみようと思いまして!名前はともかく、見た目や性格がわかれば探しやすいですし!」
「ああ、なるほど。気にかけてくれて、ありがとうな」
そう笑いかけるスイの表情はぼんやりとしていて、僅かに体が船を漕いでいるように見えた。相当眠たいようだが、なんとか踏みとどまっているようだった。
「とは言っても……。なにせ二百年も前だから、顔はほとんど、覚えてないんだ。名前と、歳と……歳はここでは、あまり関係ない、な」
時折呂律が怪しくなりながらも、スイは罔象を撫でる手を休めず、続けた。
「真ん中の子は、泣き虫だった。六つになった、ばかりで。下の、子は、まだ三つ……で……可愛かったな……。いまは、さぞ立派な、道士様になっているんだ、ろうな」
立派なーーー。
その言葉に、張景はぎゅうと胸を締め付けられるような気持ちだった。
果たして、自分はこの人が誇れるような人間だろうか。いいや、護符も作れないようでは、到底。
(とてもじゃないけど、言えないな……。今のままじゃあ)
暗い気持ちを振り払うように、頭を軽く振ると、張景は薄く作り笑いを浮かべた。
「す、スイさんは、そのときおいくつで?」
「ええと、確か、十一か、十二か……」
辿々しい口調でスイが答える。少しふらついて、張景の肩に何度か頭を乗せそうになるが、なんとか耐えている。
「眠いなら少し横になった方が……。なにかあったら起しますよ?」
「大丈夫」
いやにはっきりとした言葉に、張景はどきりとした。不思議と、既視感を覚えた。
(なんだ?この気持ち、どこかで)
「大丈夫、どうにか、どうにかするから」
一方のスイは、小さく大丈夫と繰り返しながら、罔象を撫でていた。その口調は張景に言うそれではなく、罔象に、ひいては自分に言い聞かせるような口ぶりである。
聞かなければ。あの事を。
「スイさん、聞きたいことが……」
と、言いかけて、言い淀んだ。
言葉がうまく出てこない。言いたいのに、舌が思うように動かない。そもそも、
(……あれ?僕は、何を、言おうとしていたんだ?)
どんな事を考えていたのかすら、思い出せなかった。張景は、言い様のない不快感に口を閉ざすことしかできなかった。
「オレは大丈夫、だから、大丈夫、だい、じょ……」
「……スイさん?」
声をかけ終わる前に、スイがばたんと後ろ向きに倒れた。まるで気を失ったかのようだが、虚ろながらも眼球は天井を捉えていた。
「ス、スイさん⁉︎大丈夫ですか?頭、頭打って……え?」
張景は慌てて立ち上がろうとしたが、今の衝撃でずれた毛布から見えたものに、ぞっと身を震わせた。
スイの腕に、管が刺さっている。差し口の血が完全に止まっていることから、だいぶ前から刺さったままなのだろう。毛布を剥ぎ取りランタンを動かして管の先を辿ると、それは罔象の長い舌先であった。舌が、そのままスイの腕に突き刺さっている。
「……なに、してるんですか……」
「は、はは。バレちゃった、な」
顔面蒼白になる張景をよそに、スイは笑ってみせた。しかしよくよく見ると顔は血の気が引いて真っ青であり、指先も震えている。
目的は明白だった。スイは、この妖怪に精気を吸わせている。延命させているのだ。
張景は小型通信機を懐から出すと、スイッチを入れた。
「張景です!き、聞こえますか?誰か、誰か来てください!罔象の舌が、ス、スイさんに…!」
「オレは、大丈夫だよ…」
「スイさんは黙ってください!」
スイの言葉を遮りながら、張景は応援を呼び続けた。幸いにもすぐに気付いてくれたのか、当直の道士からすぐ行くと返答があり、通信は切れた。
「なんで、なんでこんな事してるんですか。馬鹿なんじゃないですか。妖怪の延命で死にかけるなんて。弟さんに会ったら、僕はなんて言ったらいいんですか」
「返す、言葉もない、な。ああー……。クラクラしてきた」
呑気そうに笑っているが、スイの表情は先程よりも動きがない。表情筋を動かすほど余裕がないのだろう。
(なんだろう……。この感じ、どこかで)
先程から続く既視感が、張景の不安を増長させる。その正体が思い出せないことも重なり、張景は半分泣きそうになっていた。
改めて観察すると、罔象の舌はしっかりスイの腕に刺さっており、下手に弄ろうものなら大量出血に繋がるであろう。その様子を想像してしまい、張景は顔をしかめた。
「でも、な。大丈夫。弟達は、きっとオレを覚えてない、から」
「そんなことない。絶対そんな事ないですよ。だって……」
言葉が詰まる。言わなければならない。しかしスイの理想と自分の現実と、様々な感情が入り混じり、言葉として発することができない。
「……ありがとう、景くん」
そう、スイが目を閉じようとした時だった。
「スイ」
そう名を呼びながら、張景の横から伸びた腕が、ずいっと罔象の舌を掴んだ。
「……天明、さん」
張景が振り向くと、いつの間にか背後には天明が膝をついており、スイを見ていた。表情こそはいつもの無表情だが、張景はなんだか恐ろしく感じ、ぞわりと背中を震わせた。
「天明、頼む、殺さないで、くれ」
「スイ。俺がするのは、スイを生かす事だ」
スイの返答を待たず、天明は罔象の舌を握る手を強めた。すると徐々に、握った場所からチリチリと水分が蒸発する音が聞こえてきた。
「ギィ!ギャアァァァ!!!」
罔象がジタバタと暴れて回ろうとするが、すぐさま天明が空いた片手で胸を抑えつける。身動きの取れない罔象は、つんざくような叫び声を上げながらのたうち回っている。
「……もしかして、舌を焼いてる?」
以前スイがチラッと話していた事を思い出す。『身体の熱を操れる』と。それを使って、今は罔象を焼いているのだ。
「ギャアッ!!!」
しばらくすると、観念したのか罔象が自らスイの身体から舌を抜いた。あたりに獣肉を焼いたようなえぐい臭いが充満する。
張景が慌ててスイの容態を確認したが、軽い出血ことあるものの傷口は浅いようだった。見ていて痛々しいが。
「スイさん?しっかりしてください!スイさん!!」
遠くからバタバタと足音がする。
張景は、応援が来るまでずっと、ぐったりと動かなくなったスイに必死に呼びかけたが、スイは目を覚さなかった。
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