第1話 妖獣保護センター(2)
桃源郷には仙境エリアと先住民の住む里との中間に、双方の行き来が自由にできる区間が存在する。里の民達は仙人相手に商いを行うともでき、仙人や道士が病気の治療や里の子供達に勉学を教える場所も存在する。
「妖獣保護センター……」
その中立区間のかなりはずれに位置する場所。下界の資料で見た、病院や研究所を思わせるような無機質な建物を、張景はまじまじと見上げた。ほんのりと青味のある白い壁に、箱を繋ぎ合わせたような造りは、桃源郷によく見られる木や石造りの家屋とは明らかに違うためか、えらく異質に感じる。
まずは入口前に敷かれた巨大なマットに乗って数秒待つ。これで靴裏が消毒されるらしい……と、すぐ近くの貼り紙に『消毒しない者には厳罰を』と記載されていた。
入口にカードキーを差し込むと、特に何事もなく扉は開いた。二重扉の先はこれも外見通同様の色の壁と、中央をテープで区切られている床と、右手側に受付のようなスペースがあるだけの、シンプルな造りだ。
「すみませーん。広成子様の代理で来ました。弟子の張景と申します。あの、誰かいませんかー?」
受付は人気が無く、通路側に向かって声を出してみたが、反応は無い。張景はとりあえず通路を進んでみたが、自分の足音だけが響くばかりであった。
張景はひとまず、案内板を頼りにすぐ近くにある事務室へ行ってみたが、やはり誰もいない。隣の部屋も、そのまた隣の部屋も無人だ。
「まるで昔観たパニック映画みたいだ……」
思わず呟く。下界の映画は数える程度しか観たことがなかった張景だが、不気味に静まりかえった施設内は不吉の前振りのように思えてしまう。
「まさか、謎の細菌だの胞子だので施設内の人たち……が……ん?」
ふと床が震えている事に気付き、張景は足を止めた。振動のほかに、遠くから音が聞こえる。どうやら、何かが物凄い勢いでこちらに向かっているようだ。
「一体なにが……って⁉︎どえええぇぇ⁉︎」
通路の向こうから見えたのは、四匹の牛だった。ただの牛ではない。いずれも脚が一本しかなく、体を支える為か普通の牛の何割も脚が太く逞しい。その脚で器用に跳ねながら、全速力でこちらに向かっている。
「なんで⁉︎なんでこっちに来るのぉぉぉ⁉︎」
張景は反射的に反対方向へ駆け出したが、運悪く通路は一本道。人の足では到底逃げきれない。突然のことで護符も取り出せず、必死に足を動かすが距離は縮まるばかりだ。
「た……助けて、誰か……にい、さ……」
道士と言えど全力疾走も長くは保たない。もう駄目だと思ったーーーその時だった。
「そこの兄ちゃん!大丈夫か!」
顔を上げると、前方に手綱を持った十代半ば程の少年と、長身の男が走り寄って来るのが見えた。
「天明(てんみょう)!あいつらの名は?」
「夔(き)……ハラミ、カルビ、テール、カルビツー」
「名前被り⁉︎ま、まあ気にするのは後だ!」
少年は、厚紙で作られた簡易メガホンを構えると、大きく息を吸った。
「夔ハラミ、夔カルビ、夔テール、夔カルビー!止まれ!」
そう少年が叫ぶと、牛達はそれに従うように急ブレーキをかけて、張景に触れるあと少しのところで止まった。
「は、ははは……助かっ、た……」
張景は安堵のあまり、へろへろとその場にへたり込むと、少年が心配そうに顔を覗き込んできた。
「……大丈夫か?怪我とかしてたら、医務室まで運ぶけど」
「だ、大丈夫です。突然のことで驚いて、しまって」
大きく息を吐いて、呼吸を整える。落ち着いたことを確認すると、少年は張景に手を差し伸べた。張景はありがたくそれに捕まって起き上がると、牛達を改めて観察した。長身の男が手綱を付けているが、全く暴れる気配は無かった。
「あんなに暴れていたのに、すっかり大人しくなった……」
「ああ、それは名前のおかげだよ。こいつらは夔って妖獣なんだけど、所長が名前を与えて術で縛ってるんだ。こいつらの名前さえ知っていれば、誰でも動きを止めるぐらいはできるよ」
「名前……。そうか呪術の応用か!」
古来より中国には姓名とは別に字という風習がある。親や目上の人間が名を呼ぶ事が不敬という考えから、本名とは違う名、字を用いることがあったが、本来は名を呪術で使用されるのを避けるためである。
「名前っても、本人が認識してこその名だからな。こいつらは自分の名前を覚えられる程度の知能があるから。まだオレみたいな人間でも制御は効くんだよ」
「人間……?」
ああ、と少年は何かに気付いたように顔を上げた。
「ごめんな、自己紹介してなかった。オレはスイ。あっちのでかいのは天明。オレらは色々あって、ここの施設に収容……されているんだ」
「収容……って、あの牛と同じ保護生物ってことですか?」
「う。そう、だけど、気にしてるからあまり言わないでくれると助かる……」
「ご、ごめんなさい」
「うん、よろしく頼むよ……。ほら、天明もご挨拶」
天明と呼ばれた青年は、スイの言葉に気づくとしばらく張景を見つめ、軽くお辞儀をして作業に戻った。
「……ちょっと人見知りなんだ」
「ははは……。僕は張景と言います。雲中子様からの要請でお手伝いに伺ったのですが……なにがあったんですか?」
「見ての通り、妖獣どもの脱走だよ。セキュリティの誤作動らしいが、かなりの数の妖獣が檻から出てしまったそうだ。で、オレらみたいな奴らも手伝いで駆り出されている訳なんだが……」
スイはふと、夔の群れの先にふよふよと空中を移動する異形を捉えた。ほのかに桃色を帯びた羽の生えた餅のようなそれは、ふらふらと奥の通路に消えていった。
「やば!逃げた!天明、そいつら檻に戻して、景くんごめん、手伝ってやってくれ!」
「え、あの、え!?」
張景の言葉が追いつく間もないまま、スイは大急ぎで異形を追いかけて行った。
「スイさん⁉︎雲中子様はどこに……」
と、聞く間もなくスイの姿を見失い、がっくりと項垂れる張景であった。
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